四十二話 愛の女神
閑散とした廊下を歩きながら、案内役として私の少し前を歩くラプサに声をかける。
「ラプサ、昨日のあれはどういうこと?」
「昨日?」
「皇妃様が私に会いたいって言ってたやつだよ」
「昨夜申し上げたとおりですよ!皇妃陛下、フーリン様に早く会いたいようで」
なんともない顔をしてそう言ったラプサの言葉に、私は眉を潜める。
扉の前に辿り着いた私たちは足を止めた。
「そんな話、ギルフォード様から聞いてないけど……」
「直接皇妃様よりお聞きしましたので、情報の伝達に差があるのは仕方ないかもしれませんね」
「……ラプサは皇妃様と面識があるの?」
ラプサは楽しげな笑みを浮かべ、建物の扉を開けるようそこに立っていた騎士に指示を出すと、目の前の荘厳な扉がギギギッと音を立てながら開けられていった。
「わたし、少し前まで皇妃様にお仕えしていたんです」
目をわずかに見開いた私を促すように、ラプサは左手を建物内に向けて動かす。
「足元にお気をつけて」
ラプサが皇妃様の元侍女なら、伝言を直接受け取るということも理解できる。しかしそれはラプサと皇妃様の間に繋がりがあるということを暗に言っているわけで。
「……」
その事実に気付いた私は背中に冷や汗が流れるのが分かった。
「フーリン様は大神殿は初めてですか?」
「う、うん」
先ほどの話はもう終わったと言わんばかりに話しかけてくるラプサに、私もこれ以上皇妃様についての質問を口に出せることができるはずもなく、私は諦めて頭を切り替えることにした。
皇城で私が足を運べる場所は決まっていて、基本的には私の部屋からすぐ近くの範囲のみ。
私としたらそれだけでも特に問題はないけれど、例外的に皇城に隣接するこの大神殿も、皇族専用の通路を使うことを条件に訪問を許されていた。
大神殿に行っていいと初めて聞いた時は、『いかなる時も女神に対する信仰の自由は妨げられない』としているイルジュアらしい考えだなと思ったものだ。
まあそうしたイルジュアの信条も、最近本を読んで知ったところではあるけれども。
大神殿が初めてどころか街にある普通の神殿にだって一度も足を踏み入れたことがなかった私は、興味深く視線を彷徨わせる。
芸術的な光景に目を奪われながら神殿の奥まで足を運び、そこに据え付けられている女神の像を見上げる。目に映る女神の表情はまるで私を歓迎しているかのように慈愛に満ち溢れていた。
愛の女神、ロティファーネ。
ほぼ全ての国民がロティファーネの存在を心の拠り所として彼女を崇拝している。また、国教としても認められているため、イルジュアの社会に女神の存在が根付いているのだ。
生憎私自身は信仰していないため、女神という存在についてあまりよく知らない。お父様もお母様が神殿に行っていたところを見たことがないし、そもそも二人の口から女神様の名前を出したところを聞いた覚えもないのだ。
私が女神を信仰していないのも無理はない話、のはず……。
「ラプサはここによく来るの?」
「はい。……運命の人と結ばれるために毎日女神様とお話しさせていただいているんです」
女神を真っ直ぐ見据え力強く言い切ったラプサを、信仰心のかけらもない私は物珍しく眺めた。
「フーリン様はあまり神殿が身近ではなかったようですが、でしたら女神様にまつわるお話はあまりご存知ないですか?」
「お恥ずかしながら……」
「なら知っておくべき話だけでもお教えいたしますね!」
ラプサ曰く、それは愛の女神の名にふさわしい神話だと言う。
「かつて女神ロティファーネには愛し子がいました」
『愛し子』の名に相応しいほどの女神の寵愛を受けていたその愛し子は、神でもない、天使でもない、ただの人間だった。老いて死ぬだけの、人間だった。
愛し子は生まれ落ちたその時からロティファーネの加護を受け、怪我一つ、病気一つすることなく、健康、というには少しおかしな体を持って育った。
また、愛し子はとても頭が良かった一方で感情をほとんど出すことのない物静かな人間だったと言う。一度見たことや聞いたことは全て記憶し、決して激情的になることなく、天才の異名を欲しいままにしていた。
天才ゆえに周囲の人間から遠巻きにされがちなそんな彼女は、適齢期を超えても伴侶となる相手を見つけられずにいた。そんな愛し子を哀れに思った女神は、彼女にぴったりの相手を見つけてやることにした。
愛し子がその『運命』である伴侶が誰であるか分かりやすくするために、女神は愛し子とその相手となる人間の体に同じ紋様を刻み込んだ。
「──花紋」
「はい、そうです!」
愛し子は本能のままに伴侶を探し求め、ついには同じ紋様を持つ己の伴侶を見つけ出し、結ばれることができた。そして愛し子は伴侶を見つけたその時から、感情がとても豊かになり、ロティファーネをさらに喜ばせた。
二人の間に生まれた子もロティファーネは愛し、愛し子の血族が愛し子のように困ることのないよう、運命の伴侶が分かるよう成人した暁には『花紋』を出現させるようにしたのだ。
「これが現在のイルジュア皇族の『運命の伴侶』のお話です。いかがでしたか?」
「興味深いなとは思ったけど、その愛し子って自ら伴侶を望んだの?……そうじゃないなら愛し子の意思はどこにあったんだろう」
それはまるで女神様によって運命にさせられた、と捉えられるような話だ。
「それは──」
ラプサがなにかを返そうとしたその時。
「其方がフーリン・トゥニーチェか?」
気配なく私の背後に現れたのは、腰まであるウェーブがかった濃い紫色の髪に、吊り上がった青い瞳を持つ美しい女性だった。
突然声をかけられたことに対して、というよりは、誰かを思い出させる外見に対して、私は驚きに目を見開き全身を強張らせた。
「平民というものは挨拶すらできぬのか」
怒気を含んだ声で私を見下ろす女性を私は知らないけれど、圧倒的な美貌とオーラで否が応でも理解する。
イルジュア帝国皇妃、アデライン様だ。
「おい、なにか喋らぬか。それとも言葉を発することもできない無能なのか?」
「あっ、その、大変失礼いたしました!ふ、フーリン・トゥニーチェと申します……!」
「ふん、こんな礼儀もなっていない小娘がギルフォードの伴侶だと?」
冗談だろう?とでも言いたげな皇妃様に、私は頭を上げることができない。
「なあ、トゥニーチェの娘よ。ここの暮らしは快適か?其方の実家と変わりなく、不自由はしてないか?」
意図の読めない問いかけに私は喉が詰まりかけながらそろそろと頭を上げるも、凍てついた鋭い視線を受けてしまったことで完全に臆してしまい、私は口を開けなかった。
扇子で口元を隠した皇妃様は、私がなかなか返事をしないことに苛立ったのか、不快そうにさらに私を睨め付けきた。
「トゥニーチェの娘!さっさと答えぬか!」
「ッ、その、とてもよく、させていただいて、います!」
「そうか、そうかそうか」
先ほどの様子と打って変わって、にこにこと微笑み始めた皇妃様に、私は困惑して固まった。皇妃様の考えていることが全く分からない……!
「おお、そこにいるのはラプサか。久しいな」
背後にいるラプサは、皇妃様の声かけに頭を垂れるだけで、言葉を発しようとはしなかった。
なんとも言えない空気に猛烈に逃げ出したくなった私の元へ救いの手が舞い降りたのは、皇妃様が私になにかを話しかけようとした直前のことだった。
「なにをしているんですか」
腕を引かれ硬い胸元に鼻をぶつけたかと思えば、片腕で力強く抱きしめられていた。私を抱きしめている人の正体にすぐに気付き、顔が熱くなる。
「おや、ギルフォードじゃないか」
「……母上」
「ふん、そのような目で見るな。会ったのは偶然さ」
「そうですか。では早く御自身の宮にお戻りください」
「つれないことを言うな、久々の親子の再会だというのに」
久しぶりの親子の再会ともなれば積もる話もあるのではないかと思ったけれど、どうやらこの二人の関係はあまり良くないということはすぐに理解できた。ギルフォード様の声が、私に話しかける時のものと比べ物にならないほど低いのだ。
「……ギルフォードよ、お主困っていることはないか?」
「あったとしても母上に話すことはありません」
「そうか」
緊迫した空気に、ギルフォード様の腕の中で静かに息を呑む。ここで私が動くのはとても危険だということを本能が悟っていた。
「まあいい。可愛い息子の言う通り自室に戻るとしよう。じゃあな」
皇妃様が去った後、ギルフォード様はラプサを下がらせ、神殿内は二人きりになった。
腕の力を緩めたギルフォード様は、密着した状態のまま私の顔を覗き込む。
「怪我はないか?母上になにか言われたりはしなかったか?」
まるで敵にでも会ったような心配ぶりに、私は顔の強張りを解けないまま「大丈夫です」と苦笑する。
その返事の仕方が彼の疑念を深めてしまったのか、ギルフォード様の瞳が忙しなく動く。
全身を見られている羞恥心から逃れたい一心のはずなのに、なぜか吸い込まれるようにギルフォード様の顔を見ていると、先ほどの皇妃様の姿が思い出された。
「皇妃陛下と、同じ瞳の色ですね」
「……まあ、母だからな」
ギルフォード様の複雑そうな表情に、私はやってしまったと口を押さえる。
「すみません……」
「いや、気にしないでくれ。それよりフーリン、君の母上に会いに行く許可が正式に下りた」
唐突な話題の変更に目を瞬かせるも、ギルフォード様の言葉の意味を理解した瞬間じわじわと顔に笑みが広がっていく。
「あ、ありがとうございます!」
「俺も付き添うからそのつもりでいてくれ」
「……えっ、そんな、お忙しいのに私のために時間を割いてもらうのは申し訳ないです!」
この前届いたラディの手紙にメロディア様が新国王に即位する旨のことが書かれていたので、隣国であるイルジュアもその対応に追われるのは馬鹿でも理解できる。
ほとんど放置されていた二週間も、きっとこうした事情があったのだろう。そう考えれば、ギルフォード様は今でさえ私にかまっている時間はないはずだ。
「……俺がフーリンのそばにいたいだけだ。ダメか?」
「だ、だめじゃないです……」
首を傾げるのは反則だと思う。
*
その日の夜、ベッドに腰掛けボーッとしていた私の視界の端に白いものが映った。
「ばあ!」
「……ノア」
「あれー?ぜんぜんおどろかないんだね〜」
「慣れたのかも」
「ちぇ〜」なんて残念そうな声を漏らすノアの姿に、少し力が抜けてベットの柱に頭を預ける。
「フーリンおつかれだねー」
「お疲れだよ……」
「よしよし、ノアがほめてあげる〜!きょうもがんばったねー、えらいぞー!」
思いの外優しく撫でられ、そのなんともいえぬ心地良さに驚いた体は、ベッドに沈み込んでしまった。
「おしろでのせいかつはどー?」
「……ノア、前に言ってたよね。イルジュア皇族はおすすめしないって。あれってどう言う意味?」
「ん〜〜?」
頭の後ろで手を組んだノアは私の質問に答える気は無いのか、テーブルの上にあるお菓子を漁り始める。
「これたべないのー?」
「お菓子は必要な時以外食べないって決めてるの」
「おおー、さすがだねえ」
「もう、話をはぐらかさないで!」
ノアはチョコレートを一粒口の中に放り込むと、もごもごと口を動かしながらソファに背を預けた。面白いくらいのリラックスぶりだ。
「フーリンもうすうすかんづいてるんじゃないの〜」
「まだ、なにも分かってないよ」
「うんうん、それでいいよ!そのうでわをちゃんとつけてたらだいじょーぶい」
「……あの時、第一に勝手に連れて行ったこと、許してないんだからね」
さらにもう一粒チョコの包みを広げたノアは、少し考えるような間を作ったかと思った瞬間、私のそばに移動すると同時に私の口の中にチョコを押し込んだ。
「む!?」
「これでゆるしておくれ〜!ノアたんとってもはんせーしてる!」
「してない!絶対してない!」
「あー、ノアなんだかねむくなってきたなあ。てことでフーリンじゃあねー!いいゆめみますよーに!」
「あっ!ノア!……もう」
途端に静けさを取り戻した部屋で一人溜息を吐きながら、仕方なく口の中のチョコを溶かしていく。
久しぶりに食べたからなのか、甘いはずのチョコレートは少しだけ苦く感じた。




