三十七話 天を仰ぐ ※ギルフォード視点
「……兄上」
書類の山からひょこりと顔を上げた兄上は、覇気のない声を出す俺を見て片眉を上げる。
「どうした?」
「俺は、どうしたらいいですか」
「……ギルが僕を頼ってきた……」
兄上の手から落ちていく書類を書記官が慌てて拾い集めるも、落とした本人はそれに気にかける余裕もないほど俺の情けない様子に驚いているようだった。
「ええと、何が悩みなんだ?」
「──フーリンが、俺を見てくれない」
「……は?」
続けて耳にかけていたペンをポロリと落とした兄上は、信じられないものを見た顔をして俺を凝視する。
しかし思考が停止している今の俺にとって、そんな兄上の様子など最早どうでもよかった。
「なぜかフーリンは俺と目を合わせて話してくれないんです。それどころか俺が近付いただけで距離をとろうとする」
「それは……恥ずかしがっているからなんじゃないのか?ほら、見たところ彼女は一般人として普通の感覚を持っているみたいだし。父親と違って」
「兄上がフーリンを語らないでください」
「ええ、理不尽!」
とうとう俺の手元にやって来てくれた運命の伴侶は、見るたび、会うたびに俺を魅了してやまなかった。
吸い込まれそうなほど美しい菫色の瞳、小さな口からこぼれる天使の声、ふわりと揺れる茶色の髪にもう何度目を奪われたことか。
そしてあの柔らかそうな丸い頰がまた良い。見るたびにそこを食みたいと思っている。
待ちきれずに会いに行ってしまったあの日、彼女を一目見た瞬間雷に打たれたように固まったことは、まだ記憶に新しい。
瞳孔は開ききり、心臓がかつてないほど煩く、微かながら頰も紅潮しながら、ようやく視認できた自分の伴侶から視線を外すことができなかった。
つまるところ、完全に俺の一目惚れだった。
花紋がドクリと脈打ったことで彼女が俺の運命の伴侶であることを思い出した時、俺は女神に感謝せずにはいられなかった。
彼女は誰のものでもない、運命が定めた俺のものであることに。そして唯一の運命が彼女であることに。
しかしそばにいる紫髪の男、レオと親しげに会話しているのを見た瞬間我に返り、全身に動揺が走った。
俺の知らない彼女をレオは知っている。なにより彼のフーリンを見る瞳で彼女の横を狙う恋敵であることを理解してしまったのだ。
早く彼女を俺の腕の中に閉じ込めなければ奪われてしまう、と本能のままに近寄り、僅かにあった理性を総動員して彼女に話しかける。
なのに彼女は俺を見て笑ってくれるどころか逃げようとする始末で。
なんとか捕まえることができたのはいいものの、離れていこうとするフーリンの姿に想像以上に衝撃を受け、馬車の中ではほとんど話すことができなかった。
気を取り直し、城の中でフーリンと話をしようとすれば邪魔するように次々に仕事が舞い込んできた。
特にテスルミアやレストアは目を離すことができない転換期にあって、俺自身が赴かなければならないものも多々あり、代役を立てることすら難しかったのだ。
彼女を城に連れてきてからの二週間、近くにいるのにそばにいられないこと、また、知り合いのいない城で一人過ごさせてしまっていることに苛立ちやら罪悪感ばかりが募っていく一方だ。
フーリンの表情が日を追うごとに暗くなり、笑顔をあまり見せなくなっているという報告を聞いた時には気が狂うかと思った。
そして先日、わずかではあるが、ようやく顔を見て話す時間が取れたと思えばフーリンは俺に対し限りなくよそよそしく、彼女に信頼されていないことを嫌でも理解してしまった。
その後の彼女のいない場所での俺の醸し出す空気は重かった。
「避けられてるのかー、へー、ギルがねえ。やっぱりフーリンちゃんに嫌われて、……!!ま、待てギル!話せば分かる!僕が悪かったから剣を置いてくれ!」
聖剣を置き直し、深い溜息を吐きながら再びソファーに身を沈める。
一度口にされてしまうと途端にそれが現実であることを実感してしまい、気分は地を這った。
「そんな状態でよくラドニーク王子と対面させたな」
「……少しでも伴侶の不安を取り除いてやりたいと思うのは当然でしょう」
「へえ、そこのところは理解してるんだ。にしても尊敬するよ。いくら仲の良い友人であるとはいえ相手は男だ。むしろ仲が良いからこそ疑いたくなるものだと思うけどね」
イルジュアの皇族は運命の伴侶を手に入れた途端に嫉妬心や執着心を露わにし、独占欲を遺憾なく発揮する。
男と会話させるなんてもってのほか、部屋から外に出すことすら嫌がる者だっている。
今回、フーリンをラドニークと合わせる場を設けたことは、俺にとって苦渋の決断だったと言っていい。
それでも彼女に喜んでもらいたい一心で、ラドニークに連絡を取った。
その結果、フーリンが明るさを取り戻したので俺の選択は間違ってなかったのだと安堵したものだった。
「結局フーリンちゃんがなんでギルと会おうとしなかったのか、理由をまだ聞いてないんだよな?」
「……そうですね」
フーリンが俺に会おうとしなかった理由を考えるに、彼女は魔物の発生対処に尽力していたことが考えられる。
ここでフーリンが俺が嫌いだから会わなかったと考えるのは妥当ではないし、そもそもそんな最悪な状況を想定したくもなかった。
「まあなにかしら深い理由があったんだと思うし、またそれとなく聞いておいて。お前を今でも避ける理由もそこにあるかもしれないし」
「分かり、ました」
「あ、ところで本当にフーリンちゃんのこと、公表しなくて良かったのか?」
「はい」
通常、皇族の運命の伴侶が城に上がると、その時点で相手が誰なのかを世間に公表する。
にもかかわらずこうして二週間経ってもフーリンという俺の運命の伴侶の存在を公表しないことは前代未聞と言えた。
「お前たちは本当に『前代未聞』が大好きだな」
「フーリンはまずここに慣れるまで時間がかかるでしょう。彼女の心労を考慮して、公表はそれまで待ちます。慣例に従わないなんて今更です」
「だけどなあ、お前がフーリンちゃんの卒業式でやらかしてくれたおかげで彼女の素性がもう漏れちゃってるんだよ。トゥニーチェの名前は厄介だからな……」
「その点に関しては」
「はいはい、ちゃんと対処してる、だろ。そうじゃなくて僕たちには外よりも内に厄介な人がいただろう」
「……ああ」
兄上の言葉に思わず顔を顰めると、兄上は溜息を吐いて俺を見据えた。
「伴侶をようやく手に入れて嬉しいのは分かるけど、浮かれすぎるのもほどほどにな」
「……分かってます」
殊勝な顔をして兄上の言葉を胸に留めようとしたその時。
「!」
「えっ、なになに!?」
突如立ち上がって窓際に張り付いた俺に、兄上が困惑の声を漏らす。
「……フーリン」
「あ、なるほど。外にフーリンちゃんがいたのね。……って、怖いわ!窓閉め切ってるのに匂いで気付いたの!?そりゃあ伴侶の香りは自分だけにしか匂わないものだけども!お前の嗅覚どうなってんの!?」
「少し黙ってください」
兄上が選定したという侍女と楽しそうに話しながら歩いているフーリンの姿を見た途端、鬱屈していた心情が消え去って、ただ彼女のそばに行きたいという衝動だけが湧き起こる。
文句を言っている兄上の存在など忘れ己の伴侶に見入っていると、不意に彼女が満面の笑みを浮かべ、そのなんとも言えない愛らしさに俺は思わず天を仰いだ。
「あー、……可愛い」
叶うならば早く俺に向かってその笑みを見せてほしいものだが、道のりは遠い。
俺と彼女の間には花紋という、二人をつなぐ証が存在する特別な関係にあるにもかかわらず、世間的に見てフーリンは俺の婚約者でなければ恋人ですらなかった。
名実ともに俺のものにしたい気持ちはやまやまではあるが、今は手の届く距離にいてくれる現実に感謝し、我慢するしかないことは理解している。
「本当に誰これ。伴侶なんかいらないなんて言ってた人物と同じだとは思えない」
「フーリンにそれ言ったら殺す」
「怖っ、目が本気だ!」
「それに俺はいらないとは言ってません。事実を捏造しないでください」
「意訳だよ!」
冗談でもお兄ちゃんに向かって殺すなんて言わないでよお、とメソメソしている兄上を一瞥し、俺は乱れた髪を直しながら扉へと向かう。
「あれ、どこ行こうとしてるの」
「決まってます。伴侶が近くにいるのに会いに行かない阿呆がどこにいるんですか」
「行かすか!お前この書類の量を見てよく出ていこうと思えるな!?」
「それは兄上の仕事であって俺のではありません」
俺の分は先ほど終わらせました、と素っ気なく突き放せば兄上は悲愴感を露わにして机に突っ伏し、ぶつぶつと呪いのような言葉を吐き始める。
「いいんだな、この仕事が遅れたら皺寄せは結局お前のところに行くんだぞ。そうしたらまたフーリンちゃんに会う時間が減っちゃうよな。そんなことになりたくないよな」
「……」
「僕だってエイダに会いたいのに!会いたいのに!!」
三十間近の成人男性とは思えない姿に、そばに控えていた書記官は呆れた顔をした後、俺に向かって頭を下げた。
「皇太子殿下の威厳のためにも、どうか」
「……」
俺は首元を押さえながらもう一度だけ溜息を吐き、部屋の外に出ることを諦めた。