三十一話 かくあるべし ※ラドニーク視点
聖様に出会ったのは僕が十歳の時。
兄の公務に付いて行った帰りに魔獣に襲われた僕たちを助けてくれたのが、隣国イルジュアのギルフォード様だった。
表情筋ひとつ動かすことなく魔獣を倒した姿はあまりにも美しく、僕は思わず天の迎えが来たのかと思ったのを覚えている。
この時の出会いは良くも悪くも強烈な感情を僕に与えたのだ。
ギルフォード様との初めての邂逅は聖騎士に選ばれて間もない頃で、わずか十二歳だったにもかかわらず今と遜色ない他者を圧倒する絶対的なオーラがあった。
出会った後、ギルフォード様のことを調べたりしていくうちに自然とギルフォード様のことを聖様と呼ぶようになっていた。
頭脳明晰、才徳兼備、眉目秀麗──彼にこそその名が相応しいと思ったからだ。
他にも言い表すことができないほど聖様には数多の魅力があって、尊ぶ気持ちが制限なしに膨れ上がっていくうちに、僕も聖様のようになりたいと思うようになった。
聖様を慕う者の一人として、恥ずかしくないように。
何もない普通の僕が、聖様のように周りに認められるように。
城の中で独りぼっちでいる僕が、聖様のように多くの人に慕われるように。
様々な理由があったが、聖様という目標を掲げた僕は血の滲むような努力をした。
元々要領がいいのも手伝って、僕は徐々に結果を出し始め、十五になる頃には父王の助言をするまでに至った。
その頃には当然のように認められようになり、沢山の人が自分を慕ってくれるようになった。
そうして僕につけられたのは『天才』という評価。
天才だって?そんな訳がない。
天才というのは聖様のことを言うのであって、僕がしてきたことは全て必死に努力をしたがゆえ。
しかし僕の思いと裏腹に、周囲は一度その評価を与えると、君ならできるだろう、貴方に出来ないはずがないと次々に過度な期待を寄せるようになった。
多分、この辺りから僕はおかしくなっていっていたのだと思う。
寝る間も惜しんで全力を尽くし、期待に応える度に人々は喜んでこう言った。
流石だ、君がいないとダメだ、貴方がいるから助かっている、と。
そして、殿下は出来て当然ですよね、貴方のように何でもできる人が羨ましい、とも。
その言葉は最初こそ嬉しかったはずなのに、いつしかその言葉は僕にとっての『呪い』となっていた。
僕はこうあらなければならない、皆の期待を裏切ってはいけない、理想の王子でありつづけなければならないのだと。
自分が望んだはずの環境が息苦しく、何も考えなかった子どもの頃に戻りたいと思うようになった。
僕にもできないことはあるんだと、無理だと言いたいこともあるんだと、叫びたくなる日もあった。
それでも僕は自分の生き方を変えられなかった。
失望されたくなかったから。
嫌われたくなかったから。
独りになりたくなかったから。
『優秀な』僕だからこそ皆んなに好いて貰えるのだと考えていた僕は、結局、聖様のような本物の天才には一生なれる筈もない凡人だった。
ある日、限界が来ていた僕に声が聞こえた。
──楽になりたいか?と。
普通の状態ならば直ぐに否定したであろう言葉に、疲れ切っていた僕は諾と答えてしまった。
そして怪物に支配されてしまった僕はかつての自制心を忘れ、本能が赴くままに行動を始めた。
僕が豹変した暁には周囲を取り巻いていた人間は面白いように離れていった。
かつての僕が叫ぶ。
そんなのは僕じゃないと。早く元に戻れと。また独りになってしまうぞ、と。
それなのに体は止まらない。言葉も傍若無人に酷い言葉ばかりを吐いてしまう。
そうして壊れてしまった僕に近付いてくる人は完全に誰もいなくなってしまった。
期待から解放されて楽になったにもかかわらず、心は空虚なままで、僕の心は泣き叫んでいた。
そんな時、出会ったのがフーリンというお人好しで流されやすく、純粋で、汚れを知らない女の子だった。
出会って分かったのは、フーリンはバカだということだった。
振り回したボクを否定することなく、何をするにでもついて来てくれるのだ。
こんなボクを罵らないなんて、やっぱりフーリンはバカだ。
ボクから逃げてもいいのに、それどころか彼女は後ろ指を指される逃げたボクを肯定したのだ。
それがどんなに嬉しかったか、きっとフーリンは一生気づかないに違いない。
友という信頼できる者を得たボクは水を得た魚のように心に活力を取り戻し、今まで出来なかったやりたいことを叶えていった。
一年という時を重ね、様々な経験を沢山できたのは、こんなボクのそばに寄り添ってくれた者たちのお陰だった。
精神も安定していた頃。
卒業を控えるフーリンが不在の時、ボクのことを全て分かっているかのような笑みを浮かべるウルリヒと話しをしたことがある。
「価値なんてね、結局人は自分の物差しでしか測れないんだ。人が満足する基準だって違うものだし、全てそれに合わせようとしてもいつか無理がきちゃうものさ」
でも周りの期待に応えないと僕は僕でいられない。
「大丈夫、どんなラディになろうともフーリンはラディを肯定し続けるよ。優秀じゃなくても、理想の王子じゃなくても。この一年ずっと一緒にいて分かったんじゃないかな」
確かにそうだ。
「流石は私の娘だよね」
親バカめ。
「自負しているよ。それに私も、誰がなんと言おうとも君を肯定するよ。なんせ私はラディのお父様だからね」
……頭が高いぞ。
「ふふ、間違いない。よく、頑張ったね、ラディ」
ああ、そうか。
自分は頑張った、と言ってもらいたかったのだ。
ポロポロ涙が零れ落ちると同時に自分の中の毒素が抜けていくのが分かった。
「ボクは、……僕はっ。まだ、やり直せると思うか……?」
「勿論。君は誰だい?」
「──僕はラドニーク」
要領が良くて、息の抜き方が下手くそな、ただの人間だ。
*
魔獣が現れ、衝動的に剣を奪い取ると、フーリンは目を丸くして焦燥を顔に浮かべた。
「そんな、危険です!」
僕は覚悟を決めなければならなかった。
逃げて良い時間は終わったのだ。
『ボク』は『僕』に戻る時が来た。
怖い?
ああ、怖いさ。
少しでも気を抜けば、脳裏にこびりついた忌まわしい記憶が僕を再び支配するだろう。
それでも僕はもう大丈夫だと言うことができる。
何故かって?
そんなの、一年間の軌跡を思い出せば分かるだろう。
僕はもう独りじゃない。僕という一人の人間を肯定してくれる人がいるのだから!
かつて見た聖様のように口角を上げてみせると、僕が再び弱るのを待っていた怪物が、否、魔物が忌々しげに離れていく。
それを晴れやかな気持ちで見送り、剣を握り直す。
前は少し頑張り過ぎたんだ。
次は僕は僕なりのペースで。
やってやるさ。