二十七話 どうして
「……う、ん」
「漸く目を覚ましたか」
ツンと鼻につくカビの臭いによって私は徐々に意識を取り戻していった。
何かに腕と足を縛られているようで身じろぐ程度しかできない。
薬品がまだきいているのか、ハッキリしない視界に二人の人物が映る。
「だ、だれ」
口もうまく回らない私を馬鹿にしたように笑う男の声が嫌に耳に障った。
なかなか自分たちを認識しないことに業を煮やしたのか、水を勢いよく顔にかけられ、強制的に視界を明るくさせられる。
「ごほっ、な、何す!……ローズ?」
「水も滴る良い女、だな。フーリン」
冷たい双眸で私を射抜くローズがどうやら私に水をかけたようだった。
私はそこでローズによって意識を失わされたことを思い出し、体が強張る。
「ど、して」
何が起こっているのか理解できない私の茫然とした呟きに応えたのは、ローズの隣に立つ見知らぬ男の人だった。
「フーリン・トゥニーチェ、お前今の状況分かってるのか?お前はこれから売られるんだよ」
売られる。
現実味のない言葉を頭はなかなか受け入れられないのか、私は首を傾げる。
「くはっ、良い気味だな。まあ売る前に少しばかり痛い目にあってもらうがな。ウルリヒ・トゥニーチェに絶望を与えるためにも」
「……どうしてお父様?というより貴方は誰?」
まさかお父様の商売敵とでも言うのだろうか。
そんな考えを打ち消すように、男はまるで神官のように優しく私に説いた。
「儂はアンゼニック・ヘルヅェ。貴様の父の手によって没落した家の当主をしていたよ……」
「!」
「そして貴様が殺した娘の父さ」
ヘルヅェ家、つまり彼はティーリヤ様の父だということまでは分かるけれど、私が殺したという意味が分からない。
むしろ私が殺されそうになったと言った方が正しい。
「……何を被害者のような顔をしている!貴様がティーリヤに嫌がらせをしたということは聞いているんだ!それがどうしてか貴様が被害を受けていた側に話がすり替わってティーリヤは学園へ行けなくなってしまった……ッ!その挙げ句冤罪で殺されてしまったのだ!!そして我が家も没落し妻も壊れてしまった……っ、それもこれも全部貴様らトゥニーチェのせいだッッ!!!」
逆恨みもいいところだけれど、激昂しているアンゼニックを刺激しないよう私は口を開かずにいると、アンゼニックは濁った目で私を睨んできた。
その殺意の篭った瞳に喉が引き攣る。
真正面からこんな感情をぶつけられたのは初めてで、体が震え始めた。
ジリ、とアンゼニックが一歩足を踏み出したところでローズが動いた。
「おい、あたしはもう行くぞ。契約は成立した」
「ああ、ご苦労」
こちらを一瞥することなく出て行こうとするローズに私は聞きたいことが、言いたいことが、沢山あった。
「ねえ、ローズ!待って!お願い!行かないで!!」
縋るように声を張り上げると、その願いが届いたのかローズがこちらに振り向く。
「なあ、フーリン」
「ローズ!」
振り向いたローズの顔に晴れやかな笑顔が浮かんでいたことに希望を見たというのに。
「あたしはお前を友達だと思ったことは一度も無かったよ」
容赦なく絶望に叩き落とされた私は二の句が告げなくて、その間にローズは行ってしまった。
私たちのやりとりを見て大笑いしたアンゼニックは、私の顎を掴み唾を吐く。
「どうだ大切な友人に裏切られた気分は?アイツは貴様とは金の為にいたようだからな、まあ当然といえば当然か」
「嘘っ!」
「何とでも喚くがいいさ。さあ、そろそろ始めようか。先程から貴様をいたぶりたくて仕方がなかったんだ」
「い、やだ、やだやだやだ!やめてください!」
「諦めることだな、こんな所に助けなど来ない」
アンゼニックが私の首に手をかけたその時、小屋の外が騒がしくなって、顔を布で覆った男が入ってきた。
そしてアンゼニックと小声でやり取りした後、覆面男は慌ただしく出て行ってしまった。
仲間がいる。
これでは隙を見て外に逃げることもできない。
顔が真っ青になった私に、アンゼニックは苦々しく顔を歪めた。
「少し外に出る。逃げようと思っても無駄だからな。見たように仲間がこの辺り一帯にいる」
そう言って男がいなくなった後、自分の息遣いだけが聞こえる小屋の中で自分が置かれている今の状況を落ち着いて振り返る。
水をかけられたせいで服が気持ち悪く、体も冷えてしまっている。このままでは風邪をひいてしまいそうだ。
けれどそんなことなど忘れてしまうぐらいにはローズの言葉は衝撃的だった。
「ローズ……」
先程の言葉を一度は真に受けてしまったけれど、冷静に考えればローズの行動は本意なものではないだろう。
あの時の手紙や意識を失う前に見た悲しそうな笑顔が引っかかる。
ちゃんと話をして、その上でもし、もし!あの言葉が本当ならば受け入れよう。
それまではローズのことを信じるのだ。
そう決意すれば、目下の問題はここからどうするかということに移る。
アンゼニック・ヘルヅェの恨みは恐らく私が思っている以上に深い。
私を痛めつけると言っていたから、その恨みが全てそこに集中してしまえば……最悪、私は殺される。
いや、大丈夫。
お父様はこの腕輪に魔法をかけていると言っていたから、大丈夫なはずだ。
そう信じたいのに、信じきれない私の体はもう震えが止まらなかった。
自分の体を抱きしめて止めようとするのに今ばかりは自分の意思に従う身体ではなかった。
いつまでそうしていただろうか。
体感的にだけど結構な時間が経った頃、絶望に染められた私の耳にトントンと壁を叩く音が届いた、気がした。
幻聴だろうか。
自分の歯と歯が当たって出た音だったのかもしれない。
そう思った時、再度トントン、と今度は先程よりも強めに叩く音がした。
それは私の腰のあたりから聞こえてきて、私は息を潜め、首を捻ってそこを見遣る。
何、何なの?
今のは自然的に発生したものじゃない、明らかに意思を持った何かによって叩かれた音だった。
何が起こるかわからなくてひたすら沈黙を貫いていると、予想もしない声が聞こえた。
──そこにいる者は返事をして欲しい。
確信を持って問いかけてくる声にハッと息を呑んだ。
壁に耳を近づけている私にしか聞こえない小さな声だった。
だけど私はきちんと聞き取ることができて、声の主が誰か分かった瞬間、私の目からは大量の涙が流れ落ちた。
ギルフォード様の声だった。
なぜ、どうしてここに、と問いかけたいのに犯人が直ぐそばにいるであろうため声を出すことができない。
私はパニックになりそうな頭をどうにか落ち着かせ、後ろ手で恐る恐るそこを軽くトン、と叩く。
──そうか、いるんだな。今から俺が質問するから君はイエスなら一回、ノーなら二回壁を叩いてくれ。
トン。
──今周囲に人はいるか?
トントン。
──そうか。君は今何かに縛られているか?
トン。
──怪我はしているか?
トントン。
優しげに問うてくる声に私は泣き声を押し殺しながら壁を叩き続ける。
──今から俺たちは君を誘拐した犯人を捕まえる。そのためにこの辺り一帯を爆破する。
「!?」
まさか私は見殺しにされてしまうのだろうか。
──安心して欲しい、君の安全は保証する。
ほっと胸を撫で下ろすと途端にギルフォード様に会いたくなってきて、ギュウッと口を引き結ぶ。
──必ず君を救い出すと誓う。だから泣かないでくれ、我が伴侶。
「──え」
信じられない言葉が聞こえた。
どういうこと?どういうこと!?
何回か壁を叩くも既にギルフォード様はそこを去ってしまったらしく、返ってくる声はない。
呆然としている私の元に、いつの間にか帰って来ていたアンゼニック・ヘルヅェが近づいて来た。
そして私を縛り付けていた拘束具を外されたかと思えば強く腕を掴まれた。
「おい、ここから別の場所に移る。早くしろ」
「いっ、痛い!」
「早くしろと言っているだろう!!」
焦りを隠せないのか、大量の汗を流している男はドタバタと慌ただしく小屋のドアを開けた。その瞬間。
「やーやー、われこそはせいぎのみかたなりー!あくとうめ、そのてをはなせ〜!」
「なん、ぐふっ」
聞き覚えのある間延びした声が聞こえたかと思うと、男は床に倒れてしまった。
どうやら意識を失ってしまったらしい。
その犯人であるノアは飄々と男を踏み付け私の手を取り起こしてくれた。
「ノア、どうしてここに」
「んー?フーリンをたすけてほしーっていういらいがきたからー」
「えっ、だ、誰から?」
「んふふ、ないしょ〜。あ!でもね、このいらい、ふたりからきたんだよ。しかもべつべつのところから!もてもてだねー、フーリン」
「二人も!?」
誰だか分からないけれど私に助かって欲しいと思っている人がいるという事実が混乱の渦にいる私を大いに勇気付けた。
ありがとうございます、と心の中で感謝したところでノアは楽しな声を上げた。
「それじゃーいこうか〜!」
「どこに?レストアに帰るの?」
「そうそう!レストアのだいいちおうりつがくえんだー!」
「家じゃなくて第一に?何で!?」
「いったらわかるよ!それじゃあれっつごー!!」
有無を言わさぬ力で引っ張られ、爆発音が聞こえた瞬間、私は第一にいた。
次話、ギルフォード視点




