ギルフォード視点
左鎖骨あたりにハッキリと浮かび上がった花紋を見た時、最初に思ったのは煩わしい、だった。
皇族が成人年齢に達した時に必ず現れる花紋は、運命の伴侶と自身を繋ぐ大切な証。
それをゴシゴシと擦って落ちないものかと試してみるが当然消えるはずもない。
顔を顰めて溜息をつき、いつものように執務室へ向かった。
「おはよう、ギル。今日も仕事は沢山あるぞ」
「はい」
皇太子である兄上から書類を受け取ろうとするが、何故か兄上はそれから手を離さない。
「なん、」
「お前、それ!」
驚愕の瞳で俺の首元を指している様子を見て合点がいった。
どうやら花紋の存在を目に留めたらしい。
「現れたみたいですね」
「みたいってお前、他人事みたいに」
事実他人事だった。
皇族として生まれたからには自分の運命の伴侶がいることは分かっていた。ただそれは頭で理解しているだけで、心では理解できていない。
伴侶の存在にいまいち必要性を感じないのだ。
愛だの恋だのにかまけているぐらいなら仕事をしていた方が何倍も国のためになり、効率的だ。
「いやいやいや、運命の伴侶は本当に良いんだぞ!俺はエイダに出会って世界が変わった!!」
両手を広げて声高に主張し始めた兄上に冷ややかな視線を送る。
放っておけばいつものように自分の妃自慢が始まるので、俺は無言で書類を奪い取った。
「面倒くさい」
一言吐き捨てれば兄上は愕然とし、俺に人差し指を向けてこう言った。
「ギルお前、運命の伴侶と会った時ぜっっったいその言葉後悔するからな!」
子どもじみた言葉を軽く受け流し、慣例通り皇帝陛下への報告と花紋を公開する準備にかかる。
花紋の公開については絵師が呼ばれ、その紋を寸分の違いなく紙に描き写し、世界新聞を発行している出版社へと送られる。
花紋が現れた以上、運命の伴侶に会わなければならない。
伴侶に対して国の利益になる能力があるかどうかなど求めはしない。せめて姦しい相手でなければ良い。
自分が皇族の運命の伴侶でありたいと望む媚びてきた人間を沢山見てきた手前、どうも自身の運命の伴侶に希望を持てなかった。
溜息を一つ吐き、どうせ直ぐに現れるであろう伴侶のことから逃げるように仕事に没頭することにした。
思い上がっていたこの時の俺は、これから一年以上運命の伴侶に会えないなど微塵も思わなかったのである。
「なぜ、名乗り出てこない」
公開から一ヶ月、俺は僅かに苛立っていた。
無意識に低くなった言葉に同感するように兄上も溜息をついて書類を整える。
「うーん、一ヶ月経っても現れないってことは国外の可能性が高いかな。一応もう一度掲載してもらおう」
早くて一日、遅くとも一週間以内に名乗り出る者がいるだろうと考えていた手前、調子が狂ってしまった。
国外の者ならば情報が行き届くまで時間がかかるし、この国に赴くのも時間がかかる。
だからまだ伴侶が現れないのは仕方ないことなのだと無理やり自分に言い聞かせ、振り切るように書類と向き合った。
二ヶ月目、何に対してか分からない焦燥感を感じるようになり、仕事で小さなミスをするようになっていた。
「何故!現れない!」
「お前がそんな態度だから出てきてくれないんじゃないのか?」
「……」
「ったく。んー、そうだな、じゃあ伴侶に向けてメッセージを書くのはどうだい?」
「メッセージ?」
兄上曰く、俺の伴侶は『氷の皇子』という異名を持つ俺のことを怖がって、出るに出られない状況になっているのではないかということだ。
「運命の伴侶に向けて恋文の一つや二つ書けば相手も安心して出て来られるだろう」
理にかなった兄上の助言に俺は頷いて、試行錯誤を繰り返し、メッセージを書いて新聞に公開した。
不思議とその行動に羞恥心が湧いてくることはなかった。
世間には有る事無い事の噂が出回っており、それを全て信じて俺のことを誤解するのも仕方のないことだ。その誤解を解くためならメッセージを出すくらい何の苦労も無い。
伴侶に出会えたらお互いをよく知るための努力を惜しまないようにしよう、と心の中で密かに誓った。
三ヶ月目、注意力の散漫さが目立つようになり、それは私生活にさえ及んだ。
決して綻びを見せることのなかったあの第二皇子が、と城の者たちが囁いているのを知っている。そして奴らは酷く俺に同情的であることも。
理由など、運命の伴侶が現れないこと以外にあり得ない。
伴侶は国外から名乗り出る気配もなければ、俺の噂を怖がっているわけでもなさそうだった。
では他に何の理由がある?
世間の言うように、既婚者だからなのか?奴隷として囚われているからなのか?それとも、それとも既に死んでしまっているというのか!?
「落ち着け、ギル。過去に運命の伴侶が既婚者だった事例はないし、伴侶の命に危険が及べば花紋が強く反応するそうだから死んでいるということもないだろう。奴隷に関しては、何とも言えないが……」
我が帝国はこの大陸一の強さを誇るため、他国は我が皇族の運命の伴侶探しに協力的だ。当然奴隷にわたるまでチェックはさせてはいるが、取り零しがないとは決して言えない。
焦ったところで事態は変わらないが、それでも厳重に調べるよう指示を出す。
何故、何故、と心が叫ぶ日々の中、伴侶のことが頭から離れた日など一度もなかった。
「呪いか何かか、これは……っ!」
「呪いだなんて失礼な」
髪の毛を掻き潰す俺に少し休むようにと、兄上が侍女に茶を出すよう指示する。そしてソファに深く座り込んだ兄上は自嘲的な笑みを浮かべて静かに語り出した。
「俺たちこの国の皇族は心に欠陥を抱えて生まれるんだ。お前も分かっているだろう、伴侶に出会う前の皇族たちは皆揃いもそろって感情の起伏がほとんどないことに」
兄上と俺は十歳差。幼少時の記憶に残る兄上は笑顔を決して見せることのない物静かな人で、今のように溌剌と喋る姿など見たことが無かった。
それが運命の伴侶と出会いを経て、人が変わったように感情豊かな人になった。
その時の驚きは今でも忘れはしない。
「国を動かしていくのに感情など必要ないと思っていた。でもそれは違うとエイダに出会って分かったんだ」
運命の伴侶と出会うことで初めて知る感情は、国を繁栄させていくために不可欠なもの。
喜び、哀しみ、慈しむ。
これらを得ることで、民に寄り添った視点でも物事を考えられるようになるのだと言う。
──皇族を人たらしめる存在。
「それが運命の伴侶だ」
兄上はくしゃりと笑って俺の頭を軽く叩いた。
「ギルは歴代の皇族の中でも冷酷な皇子として有名だからなあ。運命の伴侶を得た後のお前が楽しみだよ。勿論周りの反応も」
兄上の話を聞いて、成人したから現れると思っていた花紋が実は成人を促すための印であるということを知ってからは、自分を満たしてくれる存在はどんな人物なのだろうと考えるようになった。
興味を惹かれるままに、その翌日から俺は自らの足で伴侶を探しに出ることにした。
まずは皇都の独身者がいる貴族の屋敷に訪問し、直接顔を合わせるようにした。俺の補佐に行き先を一任しているため、会う者は俺の意思に関係なく決められた。
そして伴侶探しの際、貴族たちの意見を聞くことで交流を深め、人脈を広げることにも陰ながら力を入れた。
それから二ヶ月が経ち、最初の花紋の公開から半年が過ぎた。
それでも伴侶が現れないのは前代未聞とまで言われ、それを利用して自分の娘をあてがおうとする貴族も少なくはなかった。
運命の伴侶が申告制なのは、今まで花紋が公開されて名乗り出ない者がいなかったからだ。
しかし今の俺にとって、申告制は最悪の形式。
俺にできる行動と言えば虱潰しに探すことだけで、伴侶が自らの意思でそばに来てくれなければ会うことすらできない。
事態の深刻さを感じ取った者たちは腫れ物を扱うように俺と接してきたが、唯一兄上の態度だけは変わらなかったことが俺の救いだった。
「実は運命の伴侶は近くにいて、お前が言った面倒くさいって言葉聞いて逃げちゃったのかもね」
たまに口にする兄上の冗談が胸に突き刺さり、しばらく口を開くことすらできなくなる時はあったが。
この時から自身の花紋に触れながら、伴侶と唯一繋がることができる空を見上げることが癖となった。