九話 持つべきものは
もうダメだと諦めたその時、もたれた壁が何故かパカリと開き、私はいつのまにか中庭へ身を投げ出していた。
私がギリギリ出れるくらいの穴は私が出た瞬間にうにょんと閉じてしまった。
どうなっているのか分からないけれど、危機的状況には変わりないため息を潜めて窓の下の壁に張り付く。
「腕輪……?」
「落し物のようですね。第二の生徒のものでしょうし、私が教師に渡しておきましょう」
「……いや、俺が持っておく」
「しかし」
「少し、気になるのでな」
腕輪を拾われてしまった。しかも殿下はそれを持って行こうとしているらしい。
お父様から貰った大切な物だから是非とも返して欲しいが、ここで私が出て行くことはできない。
ならば今は諦める、の選択肢を選ぶ!
さあ殿下、早く通り過ぎちゃってください!
「ギルフォード様?」
「……良い匂いがするな」
あれえ!立ち止まっちゃった!?
しかも声が聞こえる位置から考えると、殿下が立ち止まったのは私の真上。
窓の下を覗いてこようものなら完全にアウトである。
「ああ、ここ第二王立学園には薔薇園がありまして、恐らくその香りかと」
「いや、薔薇の香りじゃ無い。……もっとこう、」
ハラハラドキドキダラダラと忙しない私の頭上で繰り出される会話はある人物の登場により止まった。
「これはこれはレオ様ではありませんか」
「レオ、と言うと大魔導師の?」
レオ!?
「……第二皇子か」
ぶっきらぼうな声は間違いなく私の幼馴染の声。
登場のタイミングが素晴らしすぎると私の頭の中では拍手喝采が起きている。
「其方が魔獣を倒したと聞いた。聖騎士として感謝する」
「別に、俺は偶々そこにいただけだ」
いいの?敬語使わなくていいの??
大魔導師だから良いのかもしれないのは分かるけれど、少しは敬意を見せた方がいいと思うのは私が間違っているのだろうか。
というか。
殿下が魔獣の件を知っていることに驚く。
いや、勿論情報が聖騎士である殿下にいくことは分かっていたけれど、一歩間違えれば殿下に私の情報までいっていたのかもしれないことに改めて驚いたのだ。
……もしかしたらいってるのかもしれない。
「いつか手合わせしてみたいものだ」
「遠慮しておく」
素っ気ないレオの言葉の後に流れた一瞬の沈黙をギルフォード様が静かに断ち切る。
「大魔導師レオよ、──叶えて欲しい願いがある」
「……何だ」
「俺たちイルジュアの皇族には運命の伴侶がいることは知っているか」
殿下の口から出た言葉に心臓が凍り付きそうになった。
「まあ」
「花紋を公開して半年以上が経ったが未だに俺の伴侶が見つかっていない。ゆえに運命の伴侶の捜索を大魔導師である其方に頼みたい」
ギルフォード様の言葉に顔まで強張り、無意識にスカートを握りしめる。
「……生憎、会ったことのない人物を見つけ出すような魔法はない」
「そう、か」
分かりやすく落胆した殿下の声にこちらの気分まで落ち込んでくる。
「……」
私の行動は間違っていたのだろうか。
殿下の横に立つためにダイエットをしようと思った。 でも家にいたままではできないから、太ったままでは殿下に会いたくないからレストアに来た。
運命の伴侶がどういうものか平民の私には僅かな情報しか得ることができない。殿下が運命の伴侶についてどう思っているのかなんて知り得はしないのだ。
殿下は伴侶の存在についてどう思っているのだろう。
探していると言っても、内実殿下の考えは分からない。
それこそ出会ったこともない人間を必死に探す、なんてことは流石にしていないだろう。半ば義務的なところもあるかもしれない。
凄く冷徹なお方みたいだし、イルジュアの皇族は伴侶命という噂の寵愛を私が受けることはまずないだろう。
そんなことを考えているうちにいつの間にか殿下は去ってしまったらしく、話し声は聞こえなくなっていた。
「何やってんだよ」
「レオ……」
上から降ってくる声にドキリとして恐る恐る顔を上げれば呆れた顔をしたレオが頬杖をついて私を見下ろしていた。
下から見ても美形とは羨ましい。
私がここにいると何故分かったのだろう、と考えた時、閃きが私の中で生まれた。
「もしかしてレオが助けてくれたの?」
あんなタイミングよく摩訶不思議な現象が起こるなんて都合が良すぎる。
それでもこのレオという大魔導師の存在がいるならば先ほどのことに説明がつく。
「……あの皇子に会いたくなかったんだろ。お前精神的に追い詰められると左手で右手首を掴むんだよ」
「え、何それ。初めて知った」
本人の私ですら知らないことを知っているとはこれいかに。
目を丸くして凝視するもレオは私の視線にお構いなく窓を飛び越えてこちら側に来た。そして私の横に立って同じように壁にもたれると腕を組んで前を向いてしまった。これは黙秘するやつだ。
「何で会いたくなかったんだ?皇子と面識ないだろ」
「あはは、自国の皇子様のお目汚しになっちゃいけないと思って。皇子様、とっても綺麗な方じゃない」
いけない、自虐的に笑い飛ばそうとしたのに上手く笑えなかった。
「……別に、……」
「え?何か言った?」
「っ、言ってねえよ!」
カッと顔を赤くして怒ってくるものだから、それは失敬、と冗談ぽく舌を出す。
するとレオはまた呆れたように溜息を吐いた。
「あの人に似てきたな」
レオが言う『あの人』とは一人しかいない。
私のお母様のことだ。
「本当?嬉しい!」
「褒めてない」
「何ですって!」
「煩い。あの人、元気にしてるのか?」
ハッと息が止まった。
レオはお母様が亡くなる前に孤児院を出て行ってしまったので知らないのだ。
「……死んだの。レオがいなくなって少しして」
「──!」
愕然と目を見開いて勢いよくこちらを向くレオ。
あの頃のレオにとって私のお母様という存在は大きかったのは分かっている。
元気に生きていると思い続けていたレオにとって、この事実は酷く衝撃的で厳しいものに違いない。
「どうして。あの人は直ぐに死ぬような人じゃないだろ」
「病気だよ。何か良くない病だったみたいで、本当に呆気なく逝っちゃった」
「……正直、信じられない」
私だって未だに信じられない。
前日まで川で魚の掴み取りをしていたお母様が次の日には息をしない冷たい塊になってしまっただなんて誰が信じられるだろうか。
当時の私は現実を受け入れることのできない幼子だった。お父様が何を言っているのか分からなくて、ただ泣き喚き続けた。
それがいつからだろうか。涙で視界が霞む中、お父様の悲しんだ顔に目がいくようになったのは。
「……お父様こそ辛かったはずなのに私が泣いてるから泣かなかったの。泣けなかった、という方が正しいのかもしれないけど」
お母様が亡くなって程なくしてお父様はお母様の死を振り切るように仕事に没頭するようになった。すると元々才のあったお父様の名はあっという間に世界に名を馳せるようになって、忙しさはどんどん増していった。
お父様は段々家に帰ってこなくなって、……勿論優しいお父様のことだから私を放っておくことはできなくて、仕事の合間を縫って帰って来ては腕に溢れるほどの多くのお土産をくれた。
当初の私はそれすら無視して部屋に篭っていたけれど。
しかし両親がいない時間は次第に私を冷静にさせていった。
泣いたってお母様はもういない、お父様だって悲しんでいる、と幼心で理解していった。
泣くだけだった私がある日お土産のケーキを食べた時に私に笑顔が浮かんだ。お母様が亡くなって以来、初めての笑顔だったそうだ。
それを見たお父様がすごくホッとしたのが今でも印象に残っていて、私の心を温かく満たしていったことを覚えている。
それからお父様は馬鹿みたいに美味しい食べ物を探して持ち帰って来ては私に食べさせた。その度に笑顔になる私を見てお父様も嬉しそうに微笑むので、私はそこで気付いたのだ。
食べ物を食べるとお父様が喜ぶ、と。
それからお父様を喜ばすために、悲しみを忘れるために、私は食べ続けた。
「だからそんなに太ったのか」
「うん、でもこれはお父様のせいじゃなくて甘いものやこってり系の食べ物の美味しさに目覚めてしまった私の完全なる自業自得。あとは引きこもって運動をしなくなったことも原因かな」
お母様が生きていた頃は毎日のように外に連れ出されて様々なことを経験させてもらった。だからこそお母様のいない外に出るのが怖くなったのだと思う。
お母様の言葉すら信じられなくなるほど落ち込んでいた時期だったから尚更。
それからズルズルと家にい続けた訳だけど、こうして外に出た今、それはただの思い込みだったと言うことが分かる。
ああして花紋が現れたことが私の人生の転機となったことは間違いない。
「引きこもっていた割に性格は暗くなってないよなお前」
「うーん、お父様を悲しませたくない、っていう思いがあったからかなあ。私が悲しい顔をするとお父様も悲しむから、お母様みたいに明るくいたかったの」
芝生に生えている草をプチリプチリと毟りながら言葉を紡いでいくと、自分自身そうだったのかと気付くことが多い。
こうして誰かと話す時間は私にとって大事な時間なのかもしれない。
特にレオは幼馴染という間柄、話しやすいということもあるのだろう。
「……頑張ったな」
ポン、と頭に熱が乗った。
突然レオが私を撫でたのだ。
鎖骨辺りまである自身のキャラメル色の髪が大げさに揺れる。
下を向いていたので本当に目玉が零れ落ちそうになった。
「……十年越しの貴重なデレ、ありがとうございます」
「てめっ!」
涙が出そうになったのを気づかれなかったことをいいことに、私はレオに向かって悪戯気に笑った。
それに対するレオの反応は言うまでもなく、である。
「レオさ、ギルフォード殿下のお願い本当に叶えられないの?」
「唐突かよ。……会ったことのない人物を探すことについてはできない。だが本人にまつわる何かしらの物を皇子が持っているなら話は別だった。だが当然持っているはずもないからああ言ったまでだ」
「へ、へえー」
危なかった、あの腕輪をレオに渡されていたら私は確実に今ここにいない。
良かったと安堵の息を吐こうとする前に、私ははたと恐ろしいことに気付く。
結局これって現状危機であることに変わりはないのでは。
レオじゃなくても他の魔導師に頼めば可能かもしれないのだから私の頭の中はもうパニックである。
「……何百面相してんだよ」
「ちょっと自分のアホさに呆れているところ」
「安心しろ、今更だ」
レオの嫌味に頭が冷静さを取り戻したが、何とも複雑である。
それでも持つべきものは幼馴染と言うべきだろうか。
「そう言えば、どうしてレオはここにいるの?第二だよ、ここ」
レオは第一の生徒のはずだ。
「俺が何処にいようが関係ないだろ」
「ごもっともで」
「チッ、……暫く見てなかったし、交流会があるって聞いたから……」
ボソボソと言われても聞こえない。
私の耳はそこまで性能がいいわけじゃない。
交流会、という言葉はなんとか聞こえた。
「つまり、レオも友達が欲しかったってこと?」
「──ちげえよ!!」
今日一の怒声が中庭に響き渡ったので、私は自分の耳を静かに塞いでおいた。




