螺旋時間
時間について考えてみた。
その男が黒革のソファーに座り込み、何も考えずに部屋でタバコをふかし始めてから、ゆうに二時間近くは経過していた。
プラスチック造りの庭木の手入れを済ませ、新品同然のコーヒーメーカーを使い、説明書を片手にエスプレッソを淹れてみたが、どうにも思った通りの味に仕上げることができず、一口運んだだけで、残りは台所に流してしまった。
AI搭載のコーヒーメーカーだと言うから、経費で買ってみたは良いものの、安物買いの銭失いとなったようだ。いくら流行のブラジル製とは言え、まだまだ品質では北日本共和国の方が上を行っている。
こんな調子で、ちゃんと仕事が上手く行くのだろうか。
男は少しばかりの不安を抱きつつ、大きな欠伸をした。
日曜日。外は快晴。だが男はアウトドアに興じることもなく、かといってインドアな趣味に徹することもなく、ただ淡々と、時の過ぎるままに身を慣らしている。
この時代には珍しい大きな古時計。それが奏でる規則的な刻音だけが、二十畳はあるリビングをじっくりとっくりと満たしていく。
男が、短針の刻むリズムに静かに心を浸している時だった。インターホンから実に朗らかな音色が鳴って、来客の到来を知らせてきたのは。
ソファーから立ち上がると、男はまず当然のように「どちら様ですか?」とインターホンに向けて問いかけた。ちみっこい四角型の枠越しに、かっちりとしたスーツ姿の男性が立っていた。
「昼下がりの時間に申し訳ございません」と、男は心の底から申し訳なさそうな、だがしかし、どこか不躾さの見え隠れしている笑みを浮かべながら続けた。
「私、ユニバーサル・タイムデザイン・コーポレーションという会社に勤めております、黒野巣・ノブツネと申しますが」
「なんです? もしかしてセールスですか?」
「いえ、実は署名活動をしておりまして」
「署名」
「はい。もうほんと、五分くらいお時間を頂戴できれば良いのですが、よろしいでしょうか? いや、もう本当に、ほんの少しばかりお話をお聞きくだされば、それで良いのです。決して、貴方様の平穏無事な休暇日を侵害しようとか、そういったことはまったくございませんので」
「随分と大仰ですね、言い方が。まぁ、良いですよ」
「本当ですか!?」
「ええ。どうせ暇していたところですから」
男はインターホンのボタンを押し、オートロック式のドアを開けた。黒野巣と名乗ったスーツ姿の男は二、三度礼をしながらドアの向こう側へ消えていき、間もなくしてピンポンと、チャイム音が鳴り響いた。
「いやぁ、助かりました」
玄関のドアを開けた途端、黒野巣は雨宿り出来る場所をようやく見つけたとでもいうような、実に安心しきった笑みを零した。
見るからに営業マンといった感じがした。右手に、こげ茶色のスーツケースを抱えている。おそらくその中に、商材があるのだろう。
「分譲住宅の方を回っていたんですが、どうも困ったことに断られっぱなしで。気が滅入っていたところなんですよ」
「たかだか署名するのを、そんなに嫌がる人が?」
「近頃は、ほら、個人優先主義と言いますでしょ? みんな自分の時間を大切にし過ぎなんですよ。私みたいな飛び込みの営業マンにとっては、居心地の悪い風潮でして」
「なるほどね」
男は適当に相槌を打つと、「立ち話もなんですし、どうぞ」と、部屋に入るよう促した。黒野巣は、ほんの少しばかり意外そうに目を瞬かせると、
「あ、よろしいんですか? 署名だけですし、すぐに終わるんですけども」
「いえ、ここでやりとするのも落ち着きませんし。それにさっきも言いましたけれど、暇を持て余していたんですよ。まぁ署名だけと言わず、お話、いろいろと聞かせてくださいよ」
「なんとまぁ!」
黒野巣は、大袈裟なぐらいに感嘆の声を上げると、何度も深くお辞儀を繰り返した。
「わざわざ徒歩で三十分以上もかけてここまで来た甲斐がありましたよ! いやぁ、随分と出来たお方だ、貴方は」
聞きようによってはおべっかとも取れかねない言葉を吐きながら、黒野巣は靴を脱ぎ始めた。その様子を、男は盗み見るようにして、じっと眺めた。
随分と若いな――男が黒野巣に対して抱いた第一印象がそれだった。
主張過ぎない程度に染められた茶髪は、軽薄と律儀のちょうど中間あたりを思わせた。
背丈もそれなりで、スラっとした体格。さぞかし黄色い声を沢山浴びてきたのだろうと、内心でそんなことを考えた。
リビングに通されてソファーに腰を落ち着けた後も、黒野巣の感激は続いた。
「いやぁ、これはまた絶景ですな」と、窓の方を向いて口にする。
それは、確かに絶景だった。小高い丘の上に建てられた一軒家。そこから一望できる色とりどりの住宅屋根に、青々しい水田がアクセントとなって視界に飛び込み、絵画的情景と言っても過言ではないくらいに鮮やかだった。
「こんなところに一戸建てとは、羨ましいですなぁ」
「土地が安かったもので」
男は、二人分のコーヒーを淹れたカップを手に、キッチンからリビングへ戻りながら、素っ気ないふうに答えた。
だが、家に上がれたことがよほど嬉しいのか。突っぱねるような男の声色を耳にしても、黒野巣の気分は曇ることもなく、淀みなく舌が回って止まらない。
「安いと言ったって、中々のものですよこれは。さぞかしお高かったんじゃないですか? 失礼ですが、ご職業は何を?」
「別に……サラリーマンという奴ですよ」
「なるほど。随分と優秀なんでしょうな。なにせこれだけ広い家なんだ。お給料もさぞかし……」
「いやいや。もう四十も近いというのに、嫁さん一人としていないんですから。大した事ないですよ。部長って肩書だけです。いっちょ前に立派なのは」
苦笑を零すと、男はコーヒーカップの一つを黒野巣の目の前に――黒壇のテーブルに置きながら、自分の分に軽く口をつけつつ、客人の対面に腰かけた。
「ありがとうございます。頂きます」
「あぁ、待ってください。まだ熱いので、少し冷めてから……そうだ。お名刺を一枚、くださいませんか?」
「あっ! すいません、これは。失礼いたしました」
黒野巣は慌ててスーツのポケットから名刺入れを取り出すと、一枚だけ名刺を取り出した。今となっては珍しくもない、コーティング・ペーパー製の名刺だった。
「ユニバーサル・タイムデザイン・コーポレーション……所属は、営業部第三営業課……ですか」
「はい」
「すいません。ちょっと初めて耳にする会社名ですね」
「設立してから、まだ三年半しか経っていませんから」
「そうですか。商材は何を?」
「アナログ時計の製造と販売をやっております」
「ほぉ、アナログ」
「はい」
「きっとお高いんでしょうな」
「いえ、それは先入観というやつですよ。ウチでは独自ルートで部品を安く仕入れておりますし、オートメーション化で人件費も抑えておりますから。高品質ですが、値段はそこまでしませんよ」
「とは言っても、デジタル主流のご時世に『アナログ』と聞いて、顔をしかめるお客さんは多いんじゃないですか?」
男の指摘を受けて、黒野巣は苦笑を浮かべた。
「価値が分からない人からしてみれば、骨董品のようなものですからね。しかしですね、ウチは他所の時計メーカーにはない、独特の付加価値をご用意しておりまして。それをお話した途端、みなさん目の色を変えて買って下さるんです」
「なんです? その付加価値ってのは」
そう質問した瞬間だった。それまで笑みを浮かべていた黒野巣の目に、ほんの少しばかりではあるが、鋭さが宿った。
ここからが本題なのだと、そう切り込んでくるかのような、静かな迫力があった。
「我々は、時間を売っているんです」
その奇想天外な付加価値の正体を前に、男は、なんと返事して良いものか迷ったのだろうか。二の次が出せず、きょとんとした表情のまま固まった。
「……いま、何と?」
ようやく出てきた台詞が、たったのそれだけ。
しかし、黒野巣は特に失笑することもなく、さっきとは打って変わった真剣な調子で口にした。
「私が勤めております、ユニバーサル・タイムデザイン・コーポレーションでは、アナログ時計の製造と販売を手掛ける一方、お客様がこれまでの人生で不当に失ってきた『時間』を取り戻し、販売する業務を手掛けています」
「……本気で、言っておられる?」
「ええ。営業マンの誇りに賭けて」
「……いやぁ」
今度は男が苦笑する番だった。現実離れした話を前に、とりあえず気分を落ち着けようとコーヒーを口にする。
がしかし、それでもまだ違和感を拭えなかったようで、今度は煙草をふかし始めた。ゆらゆらと昇る煙をしばらく眺めてから、男は何度も首を傾げた。
「いまいち、信じられない話ですな」
「その台詞はもう、耳にタコが出来るくらい聞いてきました」
「でしょうな……それは、その、あれですか? いわゆる、メンタルヘルス的な……」
「いえ、ああいったまやかしの類ではありません。しっかりとお客様ご自身に体験して頂き、それが嘘ではないと、お客様ご自身に自覚して頂いております。企業倫理法に反するようなことは、何一つしておりません」
「今、自覚という言葉を貴方は使ったが、それは目に見える形で、という意味合いですか? その、つまり……たとえば、寿命が延びるとか。そういう延命治療を婉曲して『時間を買って頂く』と、そんなキャッチーな言葉を使っているとか?」
「残念ですが、時間を買って頂いても、お客様の寿命を延ばすことは不可能です。先ほども言いました通り、我々が扱っている『時間』とは、お客様がこれまでの日常生活の中で喪ってきた時間。つまりは『体感時間』を補填するという形で、販売しているのです」
「……ますます、理解困難になってきました」
「分かりました。順を追って説明いたしましょう。えーと、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「山田と言います。山田・タカフミ」
「山田様、ちょっと思い出して頂きたいのですが、子供の頃の暮らしと、今の暮らしとを比べてみて、時間の進み方をどう感じますか?」
「どうって……」
言葉に詰まりながらも、山田は朧げに思い出していた。田舎で過ごした少年時代を。
夏になれば、今は絶滅してしまったカブトムシやクワガタといった、甲虫の類を採りに野山を駆けた。
冬を迎えれば、まだ環境ホルモンによる汚染を免れていた真白な雪をかき集め、かまくらを造ったりもした。
春のある日、席替えで、好きだった女の子と隣同士になれた日などは、心が躍った。
そういった記憶の宝石箱の中に、今の生活も加えられるかどうかと自問自答すれば、疑問符がついた。
ある意味で刺激的な仕事に就けているおかげで、退屈はしていない。それでも、一抹の寂しさが胸を突く。
その原因がどこにあるかを山田は考え、意外にもすんなりと導き出せた。
「昔よりも今のほうが、時間の流れは速く感じます。あっと言う間に毎日が過ぎ去っていく。そんな感じですね」
「そうでしょう!?」
黒野巣が急に身を乗り出してきた。山田は多少なりとも面食らったのか、困惑したように眉根を寄せた。
一方で、黒野巣は口調のボルテージを上げていくばかりだ。
「昔よりも、今のほうが時間経過を短く感じてしまう。二十歳を越えた『大人』の方々なら、一度はご経験なさったことがあるでしょう。これはね、よくよく考えてみると、いや、考えなくとも全く不可思議な話なんですよ」
「不可思議ですか? でもそれは、あれですよ、ちゃんと理由がある」
「ほう、どのような?」
「いわゆる『慣れ』という奴ですよ。いや、私も専門家ではないから、そこまで詳しいことは分からないんですがね。何年か前にテレビでやっていました。人間は環境の変化に慣れていくことで、脳細胞が、か、か、えーと……なんだったかな、あの言葉……」
「可塑性、ですか?」
「あっ、そう、それです。脳細胞が外的刺激を受け続けると順応性を発揮し、可塑性を獲得する。つまり、これが『慣れ』の正体。例えるなら、車に乗って高速道路を時速百キロで飛ばした後に、一般道路に入ってから時速を五十キロに落とすと、周囲の景色がよりクリアに感じられる」
「ええ、ありますね。私もドライブが趣味ですので、よくわかりますよ」
「これは、脳が『百キロの速度』という刺激を受けて可塑性を獲得したことで、逆に五十キロのスピードを『遅い』と感じてしまったがゆえに起こる現象ですよね。百キロの速度に慣れてしまったんですな。そして、慣れはなにも、スピードだけに対して働くわけじゃない。人間は、規律正しい生活サイクルを長年に渡って送ることで、約百四十億個の脳細胞が雑怪奇なニューラル・ネットワークを整理していき、やがては世界に対する味気なさを覚えていくと……だから、大人になってから時間の流れを遅く感じるのも、別に不思議でもなんでもない。脳が世界から発信される外的刺激に慣れてしまった結果なんですから」
「なるほど。一理ある話ですね」
「それと、昔読んだSFの漫画には、こうも描かれていました」
「公務員さんが過去に読まれた漫画ですか。興味深いですね。どんな内容です?」
「人間は、いま現在体感している時間の流れを、過去に体験した時間の総和と、無意識のうちに比較している。だから歳をとるごとに時間の流れを速く感じる、というものです」
「ふむ」
「こうして私と貴方がお喋りしている間にも、『現在』という名の時間点はどんどん過去へ追いやられ、集積されていく。すると、体験した時間量だけが増えていく。結果として、現在という名の時間点が、過去の時間量と比較した際に極微小な存在となっていき、時間の現在点における瞬間性が上がっていく」
「だから、月日が経つのが速く感じてしまうと」
「ええ。どうですか? そんなに学のない私でも、パッパと二つの説を上げて見せましたが。黒野巣さんはどのようなお考えをお持ちで?」
「……山田さん」
黒野巣はすっと目を細めると、いよいよもって話の核心を切り出そうという顔つきになった。
山田もまた、この若いセールスマンの雰囲気が変わったのを機敏にも悟った。だからこそ、聞き役として相応しいように口を噤んだ。話の腰を折るような真似はしなかった。
最初に話に出た署名活動のことなど、お互いすっかり忘れ去ってしまったかのようだった。
時間とは何か。その宗教的とも哲学的ともとれる命題は、いつの時代も人の好奇心を引き付けてやまない。それを体現しているかのような光景と言えた。
「貴方が仰られた二つの説、どれも我が社が唱える時間の扱い方と大きく異なります。いや、正しく言い表すなら、貴方は決定的な思い違いをしている」
「思い違いですって?」
「そもそも、考えてみてください。『時間』とは何か。人類が生まれる遥か以前の地球……ビックバンが生じ、宇宙が生まれ、地球という惑星が産声を上げた時代。海洋生物が陸に上がり、恐竜が大地を支配していた時代。あるいは、我々の祖先である類人猿たちが、アフリカの地で誕生した時代。どんな時代でもいい。ただ、我々が生まれる以前の世界に、果たして『時間』という概念は存在していたか?」
「存在していなかったと、そう仰られるわけですか?」
「いえ、存在はしていたんです。しかし、我々人類は、元来あった由緒正しい『時間』という概念を、ある手段を用いて捻じ曲げてしまった! 太古の生物たちが暮らしていた時代には、時間は純粋たる存在として、この世界にあったはずなのに。それを、我々の身勝手さが捻じ曲げた!」
「証拠は? どこにそんな証拠があると……」
その時だった。黒野巣がおもむろに右手を動かした。
山田の背後にある大きな古時計。それを指差す。
さながら、殺人事件の犯人を言い当てる刑事のように。
「時計です。もっと言うなら、暦を発明した時から……つまり、『時間』という概念に数字を割り当て、分割してしまった時から、全ては間違った方向に進んでしまったのです。山田さん、川の流れを思い出してみてください」
「川ですか」
「川の流れは、人間が体感する時間の流れを、ある一面では肯定し、ある一面では否定しています。肯定していると言ったのは、不可逆性についてです。二十一世紀末の現代になっても、いまだに時間旅行が日の目を見ないのは、この時間の不可逆性を克服できないためです。否定していると言ったのは、川の流れる『形状』についてです」
「形状というと、つまり、時間の流れというのは川とは異なり、一直線状に進行しているものではないと、そう仰る?」
「察しが早くて助かります。ええ、そういうことです。時間は、川の流れように一直線状に進んでいるわけではありません。螺旋状に渦を巻いて流れているんです」
「螺旋状に流れている? 時間が?」
「分かりやすく説明すればですね……」
言うと、黒野巣はスーツケースからサインペンと紙を取り出し、今自分が言葉にした内容を図に表していった。
「この赤い矢印で書いたのが、暦や時計によって捻じ曲げられてしまった、現代の『時間』です。しかし、人類が誕生する以前の時間の流れというものは、この青で描いた螺旋のように、一定の間隔で延々と渦を巻いているようなものなんです。人間が感覚する時間の流れというのは、本来ならこうあるべきなのです。事実、生まれたばかりの赤ん坊や、規律性を獲得する以前の未就学児なんかは、みな、この螺旋の通りに時間の流れを満喫しているのです。これは、弊社の科学技術部門が明らかにしたことで、アメリカの学会でも既に発表されています」
ところが、と黒野巣はさらに続けた。
「現代社会はあろうことか、この原初の時間の流れ……螺旋時間の存在を、暦やら時計やらの力で、一直線状の形……画一時間に均してしまった。これによりどうなってしまったか? 人間が社会性を獲得する年齢になると、徐々にではありますが、画一時間に組み込まれていきます。脳や精神が、社会活動を支配する側へ、時間認識を擦り寄せてしまっていくのです。すると、人間が体感する時間にも、変化が生じてきます」
黒野巣は、今度は黄色い極太ペンを取り出すと、またもや図形を描いていった。
その手に明らかに余計な力が込められているのが、山田にもはっきりと分かった。行き場のない怒りを抱いているような、そんな手つきだった。
「こんな風に、先端部分の幅がだんだんと狭くなる、疑似螺旋時間となってしまうんですよ。例えるなら、ドリルですね。みなさんこの状態に陥っている。人間が年をとると時間の流れを速く感じてしまうのは、これが原因なんです。誰しもが固有に持っていた螺旋時間が、現代社会が標榜する画一時間に呑み込まれ、その幅を狭くしていってしまっているんです。実に嘆かわしいことです」
「それを促しているのが、時計や暦であると?」
「その通りです」
大体ですね……と、黒野巣はコーヒーを口にしてから言った。
「人間がなぜ、暦や時計を生み出したか。それは、社会を継続させていく上で必要な事だったからです。社会機能という名のロボットを正常に起動させるには、全人類、全国民に規律正しい生活ライフを送ってもらう必要がある。その為に、暦を生み出し、時計を開発した。それは流石の私にも分かります。理解はできますが、しかし納得がいきません。人ひとりが本来持っていたはずの体感時間を誤魔化すよう強要してまで、否、大いなる宇宙意志が生み出した『螺旋時間』の存在を踏みにじってまで、この人類社会を継続させる意味がどこにあります? 国民みな一人一人手を取り合って、協調性を大事に、この難局を一歩一歩乗り越えていこうと役人どもはのたまっていますが……そんなのは全て嘘っぱちですよ。配給制度だって、二次高齢者に引っ掛かればすぐに打ち切られるんだ。こんな長閑な田舎にお住まいの山田様にはピンとこないかもしれませんが、いま都市部ではとんでもない事態になっているんですよ。皆、我を忘れて暴動に走り、食べ物や水を奪い合う始末……」
「それは、今の政府が能無しだからであって、時間管理を社会基盤の底に据えた文明を生み出してきた人間の歴史は、関係がないんじゃ……」
「いえ、大いに関係があります。人間の自由意志。それを現代社会の『時間』こそが束縛しているのです。だからこんな下らない社会が生まれたんです。特に国の大多数を占める労働階級者の身が、どれだけ痛めつけられていることか! まだ眠気の醒めない時間に起きざるを得ず、面倒くさい仕事をして、上司にネチネチと嫌味を言われ、休憩時間を勝手に決められ、偽りの定時を迎えてなお仕事に追われ続け、安眠の時間は削られる……そのくせ、国はろくな保障をしてくれない。労働階級者の自殺は増える一方で、平均賃金もここ十数年の中で最低を更新した。こんな社会の一体どこに『奉仕の精神』を見出せと言うのですか。我々は人間であって、ロボットを動かすための部品ではありません。一刻も早く、人類は喪われた個人の時間を取り戻し、こんな馬鹿げた社会構図からの離脱を試みなければならないのです。その為のお手伝いを、我々、ユニバーサル・タイムデザイン・コーポレーションは行っているのです。弊社は、喪われた時間を、再設計する会社なのです」
時計メーカーの営業マンの癖に、時間の在り方をここまで否定するとは。
いや、彼が口にする時間とは『螺旋時間』なる存在を指しているから、彼の中では時間そのものを侮辱していることにはならないのだろう。
彼が憎んでいるのは、宇宙誕生時にあったはずの純粋な時間を汚し、人間の精神や道徳心を侵食していく、現在の『作られた時間』に対してなのだ。
山田は、黒野巣の描いた絵をしげしげと眺めながら、何とも言えない表情を浮かべ、話を促した。
「それで、話は戻しますが、時間を売るというのは、具体的にどのような手順で……」
「まず、我々が開発したタイムライン・フローチャートを元に、お客様がこれまで蓄積してきた時間の流れを、螺旋時間の流れと比較します。そこから、不当に喪われてしまった時間がどれくらいのものか算出し、弊社の開発したマイクロチップを小脳と前頭野に移植することで、時間の『補填』を行うのです」
「しかし、時間を補填してしまったら、日常生活にも支障が出てしまうのでは?」
「補填致しますのは、あくまで体感時間です。つまりこれを適用した場合、お客様は日常を送りつつも、他の人よりずっと長い時間を体感できるのです。オプションで時間調節プランを適用すれば、ご自分が過ごしたい時間のみ、体感時間を延長できます。誰だって、仕事中の時間を長く経験したいはずがありませんから。月額プランと年額プランの二種類ございまして、そうですね。今のところは年額プランをご希望されるお客様が多いですね。どうですか? この機会に。今でしたら無料体験キャンペーンを実施中なんですが」
「いや、あの、ちょっと待ってください。まだ入ると決めたわけじゃ……」
「そうですか? こんな画期的なサービス、中々ないと思うんですがね」
「それはそうと、いちばん最初の話に戻りましょうよ」
「最初……あぁ! そうだ! いやぁお喋りに夢中になって、すっかり忘れてしまいましたよ!」
少しばつの悪そうな笑みを浮かべると、黒野巣は脇に置いていたスーツケースを手元に手繰り寄せた。
中身を開けようとした時だった。
「うぅ」と奇妙な呻き声が、唇の間から漏れた。
そのまま力無く、黒野巣はソファーから転げ落ちた。
瞳は血走り、気が狂ったかのように喉を掻き毟る。
足をがむしゃらに動かすたびに、黒壇のテーブルにぶつかった。
口腔の奥からどんどん泡が溢れていく。血の混じった泡が。
誰にも止められない細胞の死が、着々と彼の体内で進行を速めていく。
「ブラジル製のコーヒーメーカー。心配していたけれど、薬と上手く混ざってくれたようだ。安心したよ」
語りかけるような口調で笑いながら、山田はすっくとソファーから立ち上がった。
もがき苦しむ黒野巣をよそに、スーツケースをふんだくって中身を調べる。
「これが署名用紙か……個人優先主義の名の下に、労働階級層の生活時間の保障を国に提訴。そのための署名活動。まったく呆れる。下らないことを考える奴ってのは、いつの時代もいるもんだな」
「あ……あんた……は……」
陸に上がった魚のように口をパクパクと動かす黒野巣。
その絶望と怒りと困惑に染まった瞳が、山田の冷厳な視線に射抜かれた。
「言葉通り、俺をただのサラリーマンと思ってペラペラ喋ってくれたあんたの落ち度だよ。内閣情報室。そこに務めるエージェントさ、俺は。この家もな、任務遂行の為に国が買ってくれたんだ」
「くそ……国家の……犬め……」
「犬? それはどっちだ。こんなふざけた技術を確立させて、国民を野良犬化させて国の支配から解き放とうだなんて。虫唾が走るね、まったく。部品は部品らしく、使い捨てられておけばいいのさ。大統領閣下も、それを望んでおられる」
山田の勝ち誇った笑みに食ってかかろうと、黒野巣は思い切り歯を食いしばった。
しかし、彼に出来た抵抗の意志表示はそれだけだった。調合された毒薬は彼の神経を破壊し、急激な勢いで心臓に血栓を生み出しつつあった。
耐え難い激痛に顔を歪め、酸素を肺に取り込もうとするので精一杯。後は言葉にもならなかった。
「あんたのことはずっと俺の仲間が監視していたんだ。気づかなかったのか? こんな辺鄙な田舎までやってくるのも想定の範囲内。そうするように、分譲住宅に住んでいる奴らに指示を出しておいたんだ。あんたが来たら追っ払えっていう風にな。ただな、俺も仕事柄、そんなに悪どい方じゃない。あんたと、あんたが所属している会社に反乱分子たる面が認められなければ、そのまま適当に話を合わせて帰すつもりだったんだが……」
年若いセールスマンの動きが、大人しくなった。
血の気の引いた顔面から、生命時間の躍動を見出すのは、もはや不可能だった。
「時間切れって奴だな」