1 プロローグ【★】
うーん、さっぱりわからないよー……。
シャーペンをベッドテーブルの上に投げだすと、わたしは半分ほど開いている窓の外に目を向けた。
春休みも残りわずか。4月のひんやりとした空気が心地よい。
病室の大きな窓からは柔らかな日差しとともに、かん高く楽しそうな笑い声が飛び込んできた。
なんだろう?
ベッドから抜けだして、窓辺に近づく。
高めの窓枠から少しだけ身を乗りだすと、地上をのぞき込んだ。
病院の敷地内にある桜の木のあいだを、小学生くらいの子どもたちが元気に駆けまわっている。だれかのお見舞いの帰りだろうか。
ここからでは表情まではわからないけど、5階まで届く笑い声と元気いっぱいに動きまわる様子から、楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
遠目に見ているだけで口元が自然と緩む。それと同時に自由に駆けまわれることを羨ましくも思ってしまう。
もうすぐ高校の入学式、かぁ……。
この2年ほど安定していた病状が急に悪化して、昨年末から入院生活を余儀なくされた。
高校の入試を受けることはかなわず、中学校の卒業式にも参加できなかった。
そして春休みが終わろうとしている今も退院できていない。
幼い頃から病院で過ごす時間が長くて、満足に学校に通うこともできなかった。
奇跡的に病状が安定したのも、ここ2年ほどのことだ。
入試を受けることができたとしても、結果は怪しいところだったと思う。
必死に勉強したつもりだったけど、それはみんな同じだもんね……。
でもせめて、受験することだけでもできていたら──。
たとえ結果が不合格だったとしても、努力が足りなかったんだって、また来年がんばろうって、もっと前向きな気持ちでいられたのに。
集中治療室から個室に移ってしばらくたつのに、さっぱり勉強が手につかない。
来年も受験できないんじゃないかと思うと、不安で集中できなくなるのだ。
……ううん。そんなの言いわけだ。
きっとまた病状もよくなる。来年こそ高校に通えるようにもっとがんばらなくちゃ。
もう一度読み直そう。
そう思ったところで、コンコンコンと病室の扉をノックする音が響く。
「はい」と返事をすると、お兄ちゃんが顔をのぞかせた。
「あ、お兄ちゃん。きてくれたの?」
「……優奈、なにしてるんだ?」
窓の下をのぞき込む体勢から首だけを振り向かせているわたしを見て、お兄ちゃんはなぜか凍りついたような顔で動きを止める。そして緊張した声で問いかけてきた。
「え? なにって、ちょっと窓の外を見てただけだよ」
「紛らわしいことするなよ……」
お兄ちゃんは大きく息を吐きだすと、わたしのそばにきて窓の外に目を向けた。
風に舞う桜の花びらの中で、子どもたちが楽しそうな声を上げている。
「あの子たちを見てたのか」
「うん。楽しそうだなぁって思って」
「そうだな」
お兄ちゃんとふたり、子どもたちの様子を眺める。
しばらくして、お兄ちゃんが窓に手をかけた。
「ほら、今日は空気が冷たい。そろそろベッドに戻れ」
「はーい」
わたしにベッドに戻るよう促すと、お兄ちゃんは窓を閉めはじめる。
少し体も冷えたので、わたしは言われたとおりベッドの中に戻ることにした。
「勉強してたのか。まだ安静にしてた方がいいんじゃないか?」
窓を閉めて振り返ったお兄ちゃんは、ベッドテーブルの上に広がる参考書や筆記具を見て、眉をひそめ、心配そうな顔になる。
「無理はしてないから大丈夫だよ。今も休憩してたでしょ?」
お兄ちゃんは困ったような表情を浮かべながら、ベッドに並ぶように置かれているソファーの上に、自分のカバンや持っていた荷物を置く。
そしてその隣に自分も腰掛けると、わたしに見せるように大きな紙袋を持ち上げた。
「ほら、本を持ってきたぞ」
「ありがとう! じゃあこっちは返すね」
わたしはソファーの隣にあるミニテーブルの上の紙袋を手で示した。
お兄ちゃんはいつもこんなふうに本を届けてくれる。
わたしがお願いした本のほかに、お兄ちゃんが自分で買った本や、図書館や友達から借りた本を持ってきてくれて、いつもどんな本があるか楽しみにしていた。
「なにかおもしろかったのはあるか?」
「うん、これがおもしろかったよ」
わたしは一冊だけ別にしていた小説を手に取って見せた。
日本人の記憶を持つ女の子が異世界で王女様に転生して、常識の違いに戸惑いながらも現代の知識を生かして国を発展させていくお話だ。
元日本人の王女様の気持ちに共感できて、お話もすごくおもしろかったけど、恋愛はほのめかす程度だったのが残念だった。
恋愛中心のお話が読みたいな。今日持ってきてくれた中にあるかなぁ?
勉強道具を端に寄せ、持ってきてくれた紙袋をベッドテーブルの上に置いてもらうと、わくわくしながら中を確認していく。
紙袋にはお願いしていた図鑑と参考書のほかに、数冊の少年漫画、ファンタジーや歴史もの、純文学などのさまざまなジャンルの小説が入っている。その中の一冊に目が留まった。
「あ! これ、この前持ってきてくれた続きだ! 新しいのがでたんだね」
主人公の女の子がヒーロー役の男の子と仲良くなりはじめたところで終わってしまい、続きがとても気になっていた小説だ。
お兄ちゃん、覚えててくれたんだ!
一番に読もうと手に取って表紙を眺めていると、あることに気がつく。
「あれ? お兄ちゃん、この本4巻だけど、わたし2巻までしか読んでないよね?」
「ん? そうだったか?」
パラパラとページをめくって内容を確認する。
「……うん、やっぱりお話が飛んでる」
そう言ってお兄ちゃんを見ると、サッと目を逸らされた。
「お兄ちゃん……?」
「あー、いや……そうだ! たしかそれ、本屋を探したけど、売り切れだったんだよ」
「売り切れ? ほんとに?」
お兄ちゃんの横顔をじっと見つめる。
「あ、あぁ。今度見かけたら買ってくるよ」
「うん。じゃあ、お願いね」
「おう、任せろ」
ちょっと疑わしく思ったけど、最後はわたしを見て笑顔で返事をしてくれたので、お兄ちゃんを信じてお願いすることにした。
「そういえば、この漫画の続きはまだかなぁ? そろそろでてもおかしくないと思うんだけど……」
最近お気に入りの少女漫画を取りだして、お兄ちゃんに見せた。
この漫画は、主人公の女の子が幼なじみの男の子への気持ちをようやく自覚したところで止まっている。
きっと次の巻で大きな進展があるはず! と続きを心待ちにしているのだ。
「それか……。実はそれ、休載になったらしい」
とても残念そうな顔でお兄ちゃんは言った。
「え? 休載?!」
「あぁ、都合により長期休載するって掲載誌に書いてあったらしい。だから続きは当分でないと思う」
「そっかぁ、すごく楽しみにしてたのに残念……。でも長期休載って作者さん、もしかして病気なのかな……?」
どんな人が描いてるのか知らないけど、病気で苦しい思いをしていると思ったら、なんだか悲しい気持ちになってくる。
「……病気じゃないから大丈夫だ。だから、そんな顔するな」
「え? 病気じゃないって、どうして知ってるの?」
「え?! あ、いや……」
「掲載誌には都合によりって書いてあったんだよね?」
「だから、それはだな、その……」
お兄ちゃんはしまったという顔で言葉を重ねるが、うまい説明が浮かばないのか、次第にしどろもどろになっていく。
……怪しい。
「ねぇ、お兄ちゃん。長期休載って、本当?」
「えっ?! な、なんだよ、急に」
じっとお兄ちゃんの目を見つめると、視線を泳がせはじめた。明らかにうろたえている。
「お兄ちゃん?」
「……なんだ?」
「まさか、うそなんてついてないよね?」
「っ!」
目を見開いて固まるお兄ちゃんを見て、わたしは確信した。
「やっぱりうそなんだ! ちょっとおかしいって思ってたけど、それでもわたし、信じてたのに……! お母さんが言ってたこと、本当だったんだ!」
「なっ?! 母さん、しゃべったのか?!」
これまで打ち切りや休載になる本が多いことを少し不思議に思いながらも、作家さんや漫画家さんは大変なお仕事なんだと納得してた。お兄ちゃんの言うことを疑うなんて考えもしなかった。
だけどこのあいだ、打ち切りになったはずの少女漫画の最終巻をお母さんが差し入れてくれて、こっそり教えてくれたのだ。
最近の少女漫画や恋愛小説は過激なものが多いからと、お兄ちゃんが内容を確認したものしか差し入れないようにしていることを。
恋愛描写が多くなってくると、途中の巻を抜いたり、終わりだけ持ってこないようにしていたらしい。
振り返ってみると、今まで最終回まで読んだのは、恋愛以外のお話か極端に恋愛の描写が少ないものばかりだった。
話を聞いてふくれ面になったわたしに、「優奈のこと、かわいくて仕方ないのよ」と言ってお母さんは笑ってたけど、さすがにちょっと過保護だと思う。
「もうっ! わたし、子どもじゃないんだよ? 恋愛ものだって読みたいよ!」
「いや、でもな……」
「お願い、お兄ちゃん! 本の中でくらい恋愛がどんなものなのか知りたいの!」
お兄ちゃんは、はっとしてわたしを見る。そしてそのまま難しい顔で黙り込んでしまった。
もう少しお願いすればいけるかもしれない! あとひと押しだ!
「そうだ!」
追撃しようと口を開きかけた矢先、なにかを思いついたらしいお兄ちゃんが大きな声を上げた。
「いいものを持ってきたんだ」
「え? いいもの?」
お兄ちゃんはソファーに置いていた小さな紙袋から、赤いものが入った透明なパックを取りだして、わたしの目の前にずいと差しだしてきた。
目に飛び込んできたのは、真っ赤に熟した大粒のいちご。
「わぁ! すっごくおいしそう!」
「だろ? もうすぐ母さんがくるから、そしたら洗ってもらえ」
「うん、そうするね! お兄ちゃん、ありがとう!」
顔を近づけると、いちごの甘い香りが鼻をくすぐる。
今は香りだけで我慢しなくちゃ。お母さんがきたら、みんなで食べよう!
ルンルンといちごをベッドテーブルの上に置くと、すぐそばに積まれた本の山が目に入る。
それを見て、さっきまで話していたことを思いだした。
「あ……」
もしかして、ごまかされた?!
お兄ちゃんを見ると、腕時計を確認し、ソファーに置いてあるカバンを手に立ち上がるところだった。
「悪い、優奈。講義があるから、そろそろいくよ」
「え……」
もう、いっちゃうんだ……。
カバンを持っていたから、このあと大学にいくのはわかってた。
わずかな時間でも顔をだしてくれたのはうれしい。けれど楽しい時間はあっという間で、やっぱり寂しいと感じてしまう。
「ごめんな、少ししかいられなくて」
眉尻を下げて謝ってくるお兄ちゃんを見て、慌てて首を左右に振った。
「ううん! 忙しいのにきてくれて、すごくうれしかった。もうすぐお母さんもきてくれると思うし、わたしは平気だよ」
笑顔でそう答えると、ふいに頭の上に重みを感じた。
見上げると、お兄ちゃんの手がわたしの頭の上に伸ばされていて、ぽんぽんと弾むようになでてくれている。
「ほんと、ごめんな……」
寂しくて、でも困らせたくなくて。
そう思ってごまかした気持ちが完全に見透かされてしまっている。
……先月で15歳になったんだけどなぁ。
見透かされた恥ずかしさと、子ども扱いされていることに少しだけ不満を感じながらも、お兄ちゃんの大きくて温かな手の感触に、寂しさが少しずつ薄れていくのを感じた。
「……あ、そうだ。ねぇ、お兄ちゃん。数学でわからないところがあるの。今度教えてくれる?」
「あぁ。また明日くるから、そのときでいいか?」
「うん、ありがとう! でも、無理しないでね。明日じゃなくてもいいからね?」
「無理なんてしてないよ。明日ちゃんとくるからな」
優しく笑うお兄ちゃんを見て、わたしの頬も自然と緩む。
「うん、じゃあ待ってるね。お兄ちゃん、きてくれてありがとう。気をつけてね」
「あぁ。勉強は明日教えてやるから、今日はもう止めにして、このまま安静にしてるんだぞ」
「はーい」
──だけど結局、このとき交わしたお兄ちゃんとの約束が果たされることはなかった。
その日の夕方、容体が急変したわたしは再び集中治療室に運ばれることとなる。
そして、そのまま意識を取り戻すことはなかった。