プロローグ
『僕らはいつも戦争の中にいる』
そんな突拍子もないセリフを見聞きすれば、100人いたら99人が否定する、激怒する、あるいは嘲笑するだろう。二つの世界大戦を経て、多くの国では武力戦争がなくなった。だから、今は戦間期であり、平和である。これからの未来でも戦争をしないことが重要だ。平和を繋いでいくのだ。これがいわゆる一般論というやつなのだろう。なんとも素晴らしい考え方であり、否定しようのない、そして否定する気も起きない事実だ。
ただ僕は思う。本当に戦争がなくなったのであろうか、と。別に、世界の隅々から戦争がなくなったわけではないなんて、そんな壮大なことを言うつもりはない。僕が言いたいのは戦争の形が変わったということだ。
人類は武力戦争を経て、経済戦争、金融戦争、サイバー戦争など、戦争と名のつく言葉を嫌というほど生み出してきた。それと同時に我々は、どのような形であれ、それらに関与し、身を置いている。それもまた、否定しようのない事実だ。
そして、我々は2050年に新たな戦争を生み出した。それが能力戦争だ。この戦争は起こるべくして起きたと言われている。先進国中で少子高齢化が進み、各国では、また各企業では、少人数でも社会、会社を回せる人間を求めた。つまり、能力の高い人間を欲しった。まあ、能力の高い人間を求めるというのは、いつの時代にもあった話だ。だが、絶対母数が減った社会では、その競争が更に激化した。時に他社から引き抜き、時にダイヤの原石を磨くように、能力が埋もれていそうな人間を一から育てた。
しかし、こんなことが上手くいくはずがなかった。そもそも、能力が高い人間という定義が曖昧すぎたのだ。頭が良い、対人スキルが高い、人にモノを教えるのが上手い、容姿が良い、運が良いだって一つの能力と言えるだろう。頭が良いというのも、また抽象的であり、いくらでも細分化できる。読解力が高い、計算能力が高い、想像力がある、発想力がある、とまあ、いくらでも書き連ねることができるわけだ。だから、各企業のみならず、各国までもが人材の確保よりも、見極めに苦労した。たった一度や二度のありきたりな面接や、紙一枚の試験で、無数に存在する人の能力を図ることなどできない。これが数十年かけてだされた、当たり前の結論だ。
そこで、能力を数値化するために、世界的に始められたのが、国民能力ランク分けテスト、通称・トランプ革命だ。全国の高校一年生を集めて、トランプを使ったゲームをさせる。ただそれだけのこと。みな最初はランク一から始まり、一回勝てばランクが1上がり、次の試合に出場できる。逆に負ければそこでおしまい。つまり、ランク一の状態で負ければ、その人の能力ランクは一ということになる。極めて簡単な話だ。だが、僕達高校一年生にとっては、もっとも複雑な簡単だ。
負ければそこで人生が終わる。いや、負けて命が取られるわけではないので、この言い方には語弊があるかもしれない。能力ランクが低い人間はまともな社会生活を送れず、一生疎外されて生きることになるが正解だ。能力ランクは絶対的であり、大学進学、就職にも大きく関わってくる。
どちらの募集要項にも能力ランクが幾つ以上の方という制約がつくのだ。能力ランク一となった場合は、就職はおろか大学進学すら不可能になる。それだけならまだましだ。能力ランクに応じて、公共施設の利用にまで差が出てくる。ランク10以上の人間が図書館を使おうとすれば、個室、飲み物、軽食が与えられるのに対し、ランク一の人間は立ち入ることすら許されない。レベルが低くなると税率が高くなるという、逆累進性までもが存在している。能力ランクが全てであり、低ランクは高ランクの奴隷であると言っても過言ではない。
だから、僕たちは必死だ。たかがトランプに人生を決められようとなんだろうと、生きるためには、勝つしかない。トランプで人の能力が分かるのかと聞かれても、答えはそんなこと知るかだ。それでも、社会がトランプは人の持つ能力を見極めるのに最適だというのならば、黙って頷くしかできない。
セリフなしの長々とした入りになってしまい申し訳ありません。未熟な人間が書いていると笑ってください。もちろん、次話からはセリフあり。内容に入っていきます。不定期連載になりますが、是非最後までお付き合いください。