森を抜けた先に
昂る気持ちを抑えて、新たな世界へ足を踏み入れはや三日。
出発して間もなくは、まるでジャングルのような自然豊かな景色に多少なりとも感動をおぼえ、
たまに現れる見たこともない動物を見つけては心躍っていた。
しかし三日も同じようなところを延々と歩かされた結果、
今となっては全てが体力を奪う要因でしかなかった。
大地は多分に水分を含み、体重をかけるたびに足は地面に吸い込まれていく。
またじっとりとした空気は、少し体を動かしただけでも衣服に汗を滲ませた。
多くの大樹や上から垂れる何本も絡まった蔦はテムをまっすぐ歩かせてはくれなかった。
正直、いまだに諦めずにいるのが不思議なくらいだった。
言葉を発することすら今では苦痛になってしまう。
そのせいか、二人の間にはしばらくの沈黙が続いていた。
それでも体力をふりしぼり、地道に足を前へ前へ運んでいた。
それから、いくらか歩き続けて四度目の夜が来た。
突然シルウィが歓喜の声を上げながら前の方で手を振り始めた。
「おーい。見つけたよ、湖。」
砂漠を体力のある限り歩き続け、
ようやくといってオアシスにたどり着いた旅人の気持ちが分かった気がした。
最後の草むらをかき分けると、
シルウィの言った通り湖が広がっていた。
水面には一切の波紋もなく、静まり返っている。
水辺の生き物がすべて寝静まっているのではないかと思えた。
「ようやく半分だよ。予定よりは早かったわね。」
「半分か。シルウィは平気そうだね。」
「まぁ、ね。でも、明日一日くらいは休みましょうか。」
「うん、さすがにへとへとだ。」
元いた世界なら夜の森なんて火なしにはいられないけれど、
この世界には便利なことに魔法というものがあった。
シルウィの指が空中にある見えないボタンを押しているような動きをすると、
指先から光の玉がうまれるのだ。
便利なものだなと感心する一方で原理はどうなっているんだろうと気になった。
<魔法の原理なんて聞いてもわからないんだろうな。>
「あら、わかってるじゃない。」
「でしょうね。」
<自分の記憶も曖昧なんだから。>
「もう。いじわる言わないで。それより体洗って来たら?」
「あ、うん。お先どうぞ。」
「わかった。あ、見ちゃやーよ。」
「ご心配なく。」
湖を見つけたことでテムの心にはある程度の余裕が戻っていた。
シルウィが湖で自らと衣服の汚れを落としている間樹にもたれて待っていたが、
どうやら疲労による睡魔が襲ってくる方が先だったらしい。
<僕も体洗いたいんだけど、起こしてくれるかな。>
気づいたときには目蓋は落ちており、
体が眠りなさいと言っているように思えた。
「高校に入ったら一人暮らししなさい。金は出してやる。」
そういった父の顔は険しく、声は重々しかった。
明らかに、もううんざりだという顔をしている。
おそらくどこかの施設にいる妻を連れ帰るつもりなのだろう。
そのために僕が邪魔になったのだ。
僕の記憶にはないのだが、昔の母の病状は相当ひどかったらしい。
それでも義務教育の期間までとは言え、
父が僕を見捨てずに育てきったのは親の矜持だったのかもしれない。
「わかった。」
事情も察していたし、納得もしていた。
特にこれといった感情は抱かなかった気がする。
ゆえに返事はその一言だけだった。
その返事を聞くやいなや父はすぐにどこかへ電話をしに行ってしまった。
本来、家族があるべき姿だったならどういった反応をしていたのだろう。
どうしても考えてしまう。
自分の家族の状態が異常であることくらいはわかる。
だからといって自分がどうしていいのかもわからないのだ。
こんな平和な世界でなく、もっと野性的な世界に生まれていたら
今頃僕は生きてはいないんだろうなと考えることもあった。
「…ムくーん。」
誰かが呼んでいる。
「テムくんてばー。」
「んぁ。あぁ。寝てた。」
寝ぼけ眼で目の前の自分と同い年くらいの金髪少女をぼーっと見つめる。
「疲れてたのね。」
「そうみたい。」
寝顔を見られていたのかと思うと恥ずかしい。
「はい。じゃあ、体洗ってらっしゃい。」
「うぅ、行ってきます。」
短時間とは思えないほど深く眠っていたらしい。
いや、もしかしたら本当に長い時間眠っていたのかもしれないが、
それを確かめる術は今はない。
なにせこの世界には時計がない、と思う。
少なくともシルウィは知らないという。
どちらにせよ、分や秒といった概念は存在しないらしかった。
「シルウィ、どれくらい寝てたと思う?」
正確な時間はわからずとも、だいたいなら聞けるかと思い尋ねてみた。
「どれくらいかな。ヒブエが500回くらい鳴くくらいかなぁ。」
ヒブエは、出発前の朝に聞いた笛の鳴りそこないみたいな音を出す鳥だ。
スピュールルルー、と聞こえるのだが1回が4秒程度なのでだいたい30分と
いったところだろうか。
「わかった。ありがとう。」
服を脱ぎ、湖の浅いところで服同士をこすりあわせ汚れを落としたあと、
濡れた服はそこらの蔦にかけておいた。
そのあとは、さすがに全裸になるのは恥ずかしいので、
下だけ穿いたまま湖に浸かり体についた汚れや汗を落とし、一息ついた。
はじめはひんやりとして若干寒さも感じたが浸かっているうちにだんだんと慣れて、
いまはさっぱりとして気持ちがよかった。
次第に体は横になり、水面から顔だけ出すような姿勢になった。
こっちの世界に来てから、空をゆっくり見たのは初めてだった。
星が多く散りばめられているのかと期待したが、
今日はどうやら厚い雲がかかっているようだった。
気持ちがよくていつまでもそうしていたい気持ちもあったが、
シルウィが待っているかもしれないのでいつまでもそうはしていられなかった。
しかし、そろそろ行こうかとぐっと体を起こすと、彼女はもう目の前まで来ていた。
もちろん服は着ていたけれど。
耳まで浸かっていたせいで、音が聞こえていなかったのだ。
「やぁ、どうしたの。」
「戻るのが遅かったから。様子を見に来たのよ。」
「もう出るよ。」
「ううん。まだ浸かってていいよ。だから、少しお話しましょう。」
「うん。」
しかし、それきり会話が途絶えてしまった。
どれくらいだろうか。
たぶんヒブエが100回鳴いたくらい。
「テムの話が聞きたいわ。」
シルウィは突然沈黙をやぶると、こちらを真剣な眼差しで見つめてきた。
どうやら元々その話を聞こうとしていたのだろうが、
その話を切り出しづらかったと見える。
「あまり面白い話じゃないよ。」
事実、僕の人生は本当に何もなかったように思える。
「うん。それでも聞きたい。」
彼女はいたって真面目だった。
断る理由もなかったので、
物心ついた時期からの思い出を少しばかり反省を踏まえて語ることにした。
「わかった。話すよ。」
「ありがとう。」
「うん。そうだな。何から話そうか。じゃあ、まずは3歳のころの話かな。
といってもそのころにはもう母さんは精神を病んでいて施設に入ってた。
今でも覚えていることといえば、同年代の子どもたちに避けられていたことかな。
今でも理由はさっぱりわからないんだけど、子どもっていうのは敏感って聞くし、
自分とは何か違う生き物だと判断したのかもしれないな。
違う生き物っていうのはさすがに言い過ぎか。
とにかく理由もわからず、避けられてたよ。
それから数年は同じような生活だったな。」
シルウィは何も言わず黙って聞き続けた。
「6歳になって環境が変わるとき、初めて周りに気を遣ったよ。
みんなを観察して、同じような行動をとるようにした。
そうしたら数年はうまくいっていたと思う。
ただ、そうしているうちに10歳を過ぎたあたりかな。
同年代の子と決定的な違いを自覚した。
周りであの子が好きだのこの子は嫌いだのって話が増えていったんだ。
これだけ聞いたら歪んでいるように聞こえたかもしれない。
でも本当にそれらの気持ちがわからずに、
なんだかどこかに一人で取り残されたような気持ちになったよ。
それからの周りの人の変化は急激だったな。
同じ行動をしない者は仲間に入れられず、
面白くもないものに笑わなければならず、共感を強制された。
もう何もかも、意味が分からなかった。
自分だけが歪な檻の外にいる気分だったよ。
だけどさ、檻の外なんだよ。
何もかもがどうでもよくなった。
いや、最初からどうでもよかったのかもしれなかった。
そうして、自ら孤独でいることを選んだんだと思う。
あとはそんな生活をしている中で不意の事故でお陀仏って感じかな。」
テムが話し終えると、シルウィは黙って俯いた。
「何も面白い話なんてなかったでしょ?。」
「うん。でも。」
彼女は続きを言わず、くるっと背を向けてしまった。
どうしたのだろうか、目元をこすっている。
「いいえ。私には何も言えない。言ってはいけない気がするの。」
「どういうこと?」
「私にもわからないけど、ただね。」
「うん?」
「私は君が好きだよ。」
トクン。
心臓がその言葉に焦っているようだ。
脳が唐突なその言葉に驚いたようだ。
わからない。
言葉では説明できないのだけれど、
何かが腹の底からこみあげて胸を圧迫するようだった。
ただの言葉じゃないか。
ほんの少し昔の自分ならそう思っていた。
この世界に来てからやはり自分の中の何かが狂い始めている。
茫然としているテムを見て。シルウィは焦って両手を振る。
「ご、ごめん。忘れて。そうだよね。そんなこと言われてもわからないんだよね。
よーし。もう夜が深いので寝ましょう。ね?ね?」
「うん。」
「ほら。いつまでも水の中にいると体壊すよ。」
「わかった。」
シルウィが失言をしてしまったとばかりに慌てている。
その様子を見ながら、湖から上がり服を着ていてもさっきの言葉が頭から離れない。
つい最近出逢ったばかりの人に言われた言葉なのにだ。
初めての感覚だった。
だけど…。
「悪くない。」
そう感じていた。
その晩は、やはり疲れもありすぐに眠ってしまった。
眠ってしまったことに気付いたのは次の朝がやってきてからだったが。
「さて、今日一日休むということだったけどさ。
なんか元気出た気がするよ。君がよければもう出発しよう。」
「もう大丈夫なの?」
「うん。ばっちり。」
シルウィは昨日のことなど忘れてしまったかのように平然としている。
立ち直りが早いのかもしれない。
それとも昨日の出来事をすぐにでも忘れたがっているのだろうか。
まあ、でも、どちらでもいい。
なんだか今日からまた頑張れる気がする。
こんなにも充実した気分なのははじめてのことかもしれなかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて。行きましょうか。」
「うん。」
なんだかその日は、森が明るく澄んで見えた。
小屋を出発してからというもの、
食事はすべて木の実や花、山菜のようなものを食べて空腹を繋いできた。
それこそ初めの頃は珍妙な味を楽しむ余裕はあったけれど、
どれ一つとってもくせが強く、それらに飽きを感じるようになっていた。
「ここか。」
「ええ。」
出発してから九日と少し。
森を抜けた先に立派にそびえたつ城壁と
その中央にはこれまた立派な城門が立ちふさがっているのが見える。
「やっと着いた。ここが。」
「そうよ。ここがエルネス王国の首都オンリ、【沈黙の都】。」