届かぬ想い
【精霊】
自然に宿る霊的存在とされることが多く、
一部では死者の霊魂と言われることもある。
この世界にも概念自体は存在しており、
過去の書物やら噂話レベルでその目撃例もいくつかあるらしい。
しかし、その存在を証明する術をもつ者がおらず、
故にこれまで伝説の域に留まっているそうだ。
シルウィの在り様は、まさにそれに近しい存在であると考える他はなかった。
なぜ自分だけが見えるのかは疑問なのだが、
もしかしたら別の世界にいたことが関係しているのかもしれない。
何はともあれ彼女のことを【不思議な少女】から
【記憶をなくした精霊】という認識に改めなければならなかった。
「テム、あの…。あのね?」
「うん?」
シルウィが何かを言うべきか否かの葛藤に苛まれているようで、
口をパクパクさせている。
「いいよ、遠慮しないで。」
「えっと…。これからも一緒に来てくれますか?」
「うぅん、どうしよっかな。」
すると彼女の表情がみるみる内に青ざめていき、
泣き出す子供のような表情になる。
「ふっ、冗談だよ。考えてることわかるんじゃあないの?」
「へ…。」
彼女は一瞬何を言われたのかわからないというような顔になり、
次の瞬間、自分がからかわれていることに気が付くと、
少し頬を膨らませて「もうっ。」と一言だけ言い放った。
そのあと俯いた彼女は、顔は見えなかったけれど嬉しそうだったように思う。
「ありがと。」
「うん。」
これでようやく取引が成立したと言えるのだろう。
僕は彼女のためにすべての魔女を救う。
僕は僕のために彼女のことを知りたい。
彼女はそんな僕の知識欲とも呼べるその願いのために力を尽くす。
一見わけのわからない取引ではあるのだけれど、
なぜかこのときの僕は十分に満足してしまっていた。
「じゃあ、ご飯でも食べに行こうか。」
「ああ、私ってこんなだから食べ物って必要ないのよ。」
「え、そうなの?」
「こんな」というのは他人には見えない体、
実体のない体のことを言っているのだろう。
今にしてみれば彼女が何かを食べる必要もなく、
十日歩き続けてもピンピンしている体力があれば、
お金を持たずに旅に出たのは当然の結果だったのかもしれない。
テムはリナリーを連れて宿の一階部分で営まれている酒場に出向いた。
酒場と言っても屈強な男たちが酒を飲み比べているような荒々しい
雰囲気ではなく、痩せこけた男たちが一日の疲れを癒しているような
しんみりした空気が漂ていた。
ここはすでにモンテセプト姫国の領土内のはずだ。
噂によればこの国は他国に対して力を誇示するように
絢爛豪華な装飾が街のいたるところに施されているらしいのだが、
どうやら国境付近のこの街は噂通りとは言い難く
この酒場がその様子を端的に表していた。
テムの頭に浮かんだ第一声は「格差社会」だった。
酒場のなかでポツンと一人だけで酒を飲んでいる男を見つけ、
その正面の席にリナリーと席を並べ腰を落とすと
テムは金貨一枚を机の上で滑らせ、男に差し出した。
「教えてほしいことがあります。」
「なんだ、気前がいいな。」
少々驚いた様子を見せるその男の声は太く低かった。
「それで?何が聞きたい。」
「魔女、について。何でもいいので、できるだけ多くのことを。」
「ふん、いいだろう。」
前情報としてできるだけ多く知っておくことは無駄ではないと
沈黙の都で学んだテムは今回も同じやり方をとったのだ。
ただ本当に金貨を差し出したのは気前が良すぎたのかもしれない。
資金として多めに受け取っていたため、
感覚が麻痺していたことは否定すまい。
「魔女なあ。この国を取り仕切っているってのは知っているんだろう?」
「ええ、まあ。」
「侮蔑の魔女というんだが…。」
「侮蔑の魔女?」
「なんだ、それは知らなかったのか。
数多くの者が彼女に謁見しては、飛んでくるのは侮辱、軽蔑の
言葉の嵐だそうだ。皆が心を折られて城を出るんだ。」
以前の「魔女隠し」の噂と比べるとなんだかスケールの小さな話に思えた。
仕事を仕上げる度に自分をストレスのはけ口にするように小言を浴びせる
上司みたなものだろうか。そんな想像をしてしまうと柄にもなく笑いが
込み上げてくるが、唇を噛んでぐっとこらえた。
「で、その魔女がいろんな街や村に重税を課す一方で
自分は贅沢の限りを尽くすもんだからこんな辺境の街の
奴らからはめっぽう嫌われている。」
「なるほど。」
「詳しく知っているのはそれぐらいだ。」
「詳しく、ということはまだ他にもあるのですね?」
「ああ。だが他はもうただの噂や伝承くらいしか…。」
「構いません。知っていることは一つ残らず。」
「そうだな。魔女専属のサーカス団が各地に現れるなんて話はあるな。
最近では魔女を倒すとかいう革命軍の噂もある。そういえば、
エルネス王国でも異変があったと聞くな。」
「サーカス団、革命軍…。」
エルネス王国での異変の当事者であるため一瞬ぎくりとはしたものの
リナリーの正体に気付くわけもなく、内心ほっとした。
「ああ、そうだ。魔女と言えば、俺はもう忘れてしまったが
神話にも近い昔話があった気がするな。」
「昔話ですか。」
「まあ、記憶の片隅にでも留めておくといい。」
「はい、ありがとうございます。」
「そのぐらいだな。俺から教えられることは。」
「そうですか。わかりました。」
テムはそう言ってリナリーを連れて席を移動しようとした瞬間、
何かを思い出したようにその男が呼び止めた。
「ちょっと待ってくれ。もう一つあった。」
「?」
「この街から少し行ったところに『魔女の封印されし山』がある。
詳しいことを知りたければその山の麓にある村に行ってみるといい。」
「わかりました。あ、それと精霊について何か知りませんか?」
「悪いがそれは本当に何もわからない。」
そうして今度こそ席を離れリナリーとともに食事を済ませると、
シルウィの待つ部屋に戻った。
「…というわけだけど。」
先ほど聞いた話をシルウィにそのまま伝えると彼女は一考の後、
手をポンと叩いて決断した。
「山、行きましょうか。」
「そんな『ピクニック行きましょう』みたいなノリで…。」
「いいのよ。前も言ったでしょう?何が近道かわからないって。」
「うん、まあ。わかったよ。行こうか。」
取引のこともあって先方の要求は呑むべきと諦めた。
気付けばいつの間にかリナリーが膝の上に座っており、
無意識のうちにテムの手は彼女の頭を撫でまわしていた。
『どうしたのですか?』
リナリーが顔を真っ赤にしながら
日記をひっくり返しテムの方に突き出す。
『リナリーのおかげで元気がでたよ。』
『それは何よりです。』
そうして筆談を交わしている様子を
シルウィはどこか遠くを見るように見つめていた。
彼女のその顔はどこか穏やかで慈愛に満ちていた気がする。
テムがこのとき彼女の異変に気付いていれば、
この先に待ち構えるいくつもの苦難に対する結果も変わっていたのかもしれない。
「私はもう、そんなに長くないのかもしれない…。」
彼女の精いっぱいの想いを込めた小さな声は
このときのテムに届くことはなかった。