困惑
「違う!私のせいなんかじゃない!」
無駄だと知りながらも少女は必死に叫び、訴え続けた。
しかし、誰もそんな彼女の言葉を信じる者はいない。
憎悪に満ちた眼差しや嫌悪を込めた怒鳴り声が
彼女の心を抉るように飛び交う。
「黙れっ、この魔女が!」
「この村から出て行け!」
幾人もの男女が石を投げつけ、耕具で突き、
ついには斧まで持ち出す者も現れていた。
少女の体はですでに痛覚を忘れてしまうほど傷つけられ、
空腹でもう歩く力も残ってはいない。
自分の運命を呪いながら、
彼女は自らの死を悟ったように掠れた視界をゆっくり閉じた。
目を閉じきる寸前、うっすら見えたのは少年の背中だった。
【モンテセプト姫国】
魔女が君臨しているという次なる目的地だ。
あれから約二日間、若い商人の荷車に乗せてもらい
三人は隣国、モンテセプトの領土内のある村にたどり着いていた。
エルネス王国首都オンリを発つ際、
老紳士の計らいで旅に必要になるであろう資金と
王の血族であることの証として王家の紋章を渡されていたため、
宿や食事の代金には当分尽きる心配はしなくて済んだのだが、
道中ではシルウィが他人に知覚されないと発覚したことで
テムとシルウィの間には全く会話が生じなかった。
テムは今、とある一室で静かな夜を迎えていた。
静かな夜といっても部屋に一人きりというわけではなく、
リナリーが熱心にも机にむかい文字を書く練習をしている。
生まれてこのかた声を出すということをしてこなかった彼女の喉は
成長が遅れ、今のところまともな発声はかなわず、
また、以前無理して叫び声をあげたせいで喉を傷めてしまったらしい。
その代わりとして自然な会話ができるように、
テムが崩した言い回し、話し言葉を教えることにしたのだ。
このことだけは先代の傀儡の魔女の予期せぬところだったのだろう。
リナリーは一刻でも早く言葉を覚えようと
無我夢中で文字を書き続けていた。
一方で、テムはというとシルウィの正体について思案していた。
彼女自身も自分の正体に関して記憶がないらしくわからないそうだ。
しかし、そのことを黙っていたことに気まずさを覚えたのか
今視界に彼女の姿はない。
「なんで…。」
テムには前の世界とこの世界において唯一変化したことがあった。
前の世界にいたときは少なくとも
こんな気持ちを抱いたことはなかったはずだ。
怒りと失望。
今のテムの心にはこの二つの感情が住まっていた。
これまで何も求めず、何も欲せず、何にも関心を抱かなかった
テムは何に対しても期待したり信頼することはなく
当然、周りの人間もそんな彼に何も求めることはない。
そのテムが初めて誰かに必要とされ、
そして同時に共にいたいと思える人に出会った。
それがシルウィだったのだ。
〈僕は彼女の言葉に、想いに、存在そのものに
自分の存在意義を見いだせるのかもしれないと思ってた。〉
しかし、その彼女は他人には知覚されない自分だけ
の幻であるという事実を突きつけられたのだ。
しかも、欺かれた形で。
せめて彼女の口から聞きたかった、というのが正直な気持ちだった。
〈あの瞳は?あの声は?あの温かさは?〉
どれもが幻だったのかと思うと喪失感に胸を締め付けられる。
〈求められていると思ったのに。
信頼されていると思ったのに。〉
そう考え始めると気持ちを抑えることができなくなっていったのだ。
気付けばリナリーが心配そうな顔をして文字を見せに来ていた。
『大丈夫ですか?顔色が優れていません。』
テムは彼女に心配をかけてしまったことに気付き、
またテムはその優しさに和まされていった。
暴走するように突っ走っていく感情を引き留めた。
嫌な感情が自分の心を振り回し、
勝手な想像や憶測でかなり冷静さを欠いていたことに気付いた。
シルウィの気持ちと向き合う決心がついたのだ。
リナリーは物覚えが早く、
練習してすぐに違和感のないほどに筆談ができるよう
になっていた彼女の賢さに驚きながらも、
褒めるようにその頭をなでると彼女は嬉しそうに俯いた。
『ごめんね、もう大丈夫だよ。
心配してくれてありがとう。』
テムがそう書いて笑顔を向けると、
彼女は照れ臭そうに頭を大きく横に振ってまた机の方へ戻っていった。
すると見計らったように、突如としてシルウィが部屋に姿を現した。
「話したいことがあるの…。」
弱弱しく小さな声でつぶやくシルウィの表情は、
泣き出すのを我慢するように頬が少し強張っていた。
「いいよ、僕もちょうど話がしたいと思ってたから。」
「ちょうど」とは言ったものの、
彼女は僕が冷静になるのを待っていたのだと
想像するのは難しいことではなかった。
テム自身どこか自分の感情を盲目的に優先し
ていたことに気付いたため、もちろん一方的に
彼女を責める気にはなれなかった。
それどころかそもそも、彼女は記憶が不確かなわけだし、
嘘をついていたわけではないと考えると、
自分が彼女に対して抱いていた気持ちは丸っきり
見当違いで自分の方に非があった気さえしてきた。
どうしたことか、やはりこの世界に来てからの
自分の変化は見過ごせるものではなかった。
「ごめんね、黙ってて。」
「うん。」
おどおどしながら話し始めるシルウィに
テムはそれ以上の反応ができなかった。
「騙すつもりはなかったの。」
「わかってる。」
「でも、そういうことは何にも覚えてなくて…。」
「大丈夫。わかってるから。」
彼女は今、自分が何者なのか知らないのだ。
不確かで不明瞭な存在。
『自分が何者でもない』。
そんな気持ちは嫌というほど味わってきたはずなのに、
なぜ彼女の気持ちを考えられなかったのかと思うと
自分に嫌気がさしてくる。
「こっちこそ、ごめん。」
「ううん、いいの。」
「…。」
「…。」
二人の間に沈黙が流れる。
この間に、テムはある決意に行きついた。
ある考えを閃いたのだ。
〈僕には僕自身のための願いはない。
ただやりたいことは見つけた。〉
「僕の願い、さ。」
「???」
「ああ、ごめん。一人目の魔女を救ってから提示するって答えた
僕のお願いのことなんだけど…。」
「ああ、うん。」
「僕は君のことが知りたい。」