再出発 曇天にて
これは、エルネス王国から遠く遠く離れた地でのこと。
「特に異常はないとのことでした。」
「わかった。」
黒いローブを纏ったその人は、
一言だけ了解の意を伝えると伝令役を下げた。
その口もとは何を想ったか不敵に吊り上がる。
「なかなか順調…。
もともと本人のものだけあって定着は早い、か。
この気持ちは…『嬉しい』というものか。」
背後では一切の乱れもなく金属をはじく音が
カチカチと部屋に鳴り響く。
そう、まるで時を刻んでいるように…。
「ああ、待ち遠しい。実に待ち遠しいよ。
そうか。これが『楽しみ』というやつか。」
その人は一人の少年の到来を心の底から待ち望んでいた。
歓喜ゆえか声が揺れる。
「この世界は終焉を迎える。あなたの手によって…。
あなたは愚かな人間をこの世から排除するまで止まらない。」
これは予言ではない、避けえぬ未来の話。
ただ一つの希望を除いて…。
「だからその前に…。」
ほんのわずかに表情が曇る。
「あなたのあの時の感覚は覚えている。
胸を引き裂かれる思いだった、怒りですべてを破壊したくなった、
過去を否定したかった、現実を直視できなかった、未来に絶望した。
だけど、もう一度殺さなければならない。」
そう口にすると、
その人は遥か昔の、今やだれも知る物語の一端を思い出した。
むかしむかし、あるところに一人の少年がおりました。
しかし彼は普通の少年ではありませんでした。
彼は【悪魔の子】と呼ばれていたのです。
彼に関していくつもの謎が存在していました。
一つ、彼が生まれてくる姿を誰も見たことがない。
両親でさえその例外ではなかった。
生まれた町の医者全員に聞いて周っても出産に立ち会った者はいない。
それでも、だからといって拾ってきたわけでもない。
彼は不思議なことに気付いたら皆の生活に溶け込んでいたのだ。
ローブを纏ったその人はふうっと息を吐くと、
延々とカチカチ鳴り響く鉄の塊についたボタンをカチッと押す。
「これは寝るときには邪魔か。」
そう一言呟くと柔らかなチェアに腰を掛けると素早く眠りに入った。
「ではこちらからどうぞ。」
老紳士がテムとシルウィ、リナリ-の三人を天層の出口へ案内する。
すでに三人は旅の支度を整えており、
日の出とともに出発する手はずだった。
「それでは、お願いしますね。」
「はい、確かに。それとこの子のこと、頼みました。」
「はい、任せてください。」
そう言うとテムと老紳士は互いに覚悟の確認として頷いて見せる。
リナリーが新しく手に入れた筆談用の本に文字を書き始めた。
書き終わるのを待ってやるとそのページを開いたまま、
文字が老紳士に見えるように前に突き出した。
どうやらページが逆さまになっていたらしく、
老紳士が首を捻って読もうとしたことに気付き、
彼女は慌てて日記をひっくり返した。
『これまでの御恩、決して忘れることはございません。
これからこの広い世界をこの方と共に見ていく所存にございます。
何卒、応援のほど宜しくお願い申し上げます。』
相変わらずの五、六歳という外見に見合わぬ文章に
苦笑いを見せながらも、老紳士は別れの言葉を彼女の日記に記す。
『どうか元気でお過ごしください。
この方は必ずあなたの味方になってくださるお方です。
存分に甘え、存分に学んでください。
私は再びあなたがこの街に帰ってくるまでお待ちしております。』
老紳士は彼女に日記を手渡すと優しく頭を撫でた。
リナリーはその日記を大事そうに両手で抱え、
元気な笑顔を彼に見せる。
その瞬間、老紳士は彼女から手を離しさっと背を向けた。
テムには見えていた。
彼の目から涙がこぼれるところを。
孫のように成長を見守ってきた子が旅立とうとしているのだ。
彼女の笑顔に涙腺が緩むのも頷ける。
「では、本当にこれで…。」
テムは感謝の気持を込めて、深く頭を下げた。
そして三人は天層を、この首都オンリから次なる旅へ出発したのだ。
一羽のヒブエがその旅立ちを祝福するように高らかに己の音を響かせた。
その数日後のことだろう。
首都オンリではこんな伝説が語り継がれるようになる。
かつてこの街に人を攫う魔物が出たそうな。
そして多くの人が攫われて帰ってこなかった。
そんな状況を打破すべく魔女が立ち上がり、
命を賭して民を救い出した。
そして彼女は最後に言い残したそうだ。
『必ず生まれ変わって帰ってくる』と。
そしてその遺体は丁重に畏敬の念を込めて屠られた。
テムたちがその英雄譚を知るのはもっと先のことに
なるのだが、それは彼らにとって朗報になるはずだ。
なぜかって?
老紳士以外で目覚めた者に片っ端から話を聞いていったが、
誰一人として操られている時の記憶を持っている
人は見つからなかったのだ。
英雄譚が語り継がれることになるということは
つまり、結局その後も操られたときの記憶をもつ者が
現れなかったことになる。
真相を知る者がおらずリナリ―の母の名誉が守られると
同時にリナリーの帰る場所を守ることにもなるのだ。
なぜあの老紳士だけが意識を保っていられたのかは
定かではないが、シルウィ曰く、
『魔法には法を冠するだけあってルールが存在する』らしい。
彼が精神を縛る魔法の対象外になったのだ、
というのが彼女の考えだ。
首都オンリから出るとやがて六本の足をもつ牛のような外見の
動物に引かれた車に遭遇した。
そこに乗っていたのはあの天層の前で声をかけてきた若い男だった。
彼は商人らしく、どうやら天層が開かれ、
民が戻ってきたことでこれから忙しくなるのだそうだ。
それをテムたちが来てくれたおかげだと根拠のない感謝をされ、
隣の街まで乗せていってもらえることになったのだ。
三人は車に揺られていた。
空は雲が覆っていて清々しいとは全くもって言えなかった。
なぜかリナリーはテムの膝の上に座り、
一向にどいてくれる気配はない。
時間がたって足が痺れてきているのだけれど。
「シルウィ、僕もう足が限界なんだけど…。」
「甘えてるんでしょっ。」
そう言うと彼女はなぜかそっぽ向いてしまう。
「助けていただけませんか。」
「いやよ、一生そうしてればいいわ。」
膝の上のリナリ―が何かを日記に書き始めた。
「なに怒ってるの。」
「怒ってない。」
「怒ってる。」
「怒ってないってば。」
リナリ―が何かを伝えたいらしくテムの肩を叩いた。
なぜか彼女の目は輝いている。
すっと見ると彼女は日記の文字を見せてきた。
『お話し中、大変失礼かと存じますが、
テムはどなたとお話しされているのでしょうか。
お化けや精霊などが見えていらっしゃるのですか。』
「え…?」
これにて第一章完結となります。