雪月のこと
翌日夕方から、華乃子は会社の帰りに雪月の許へ行って食事を作って帰る生活になった。はなゑに習ったとはいえ、華乃子は火を扱うのが苦手だ。毎回かまどで火あぶりにされているのだろうかと思う程に汗をかきながら、時には目まいがしそうになるのを感じつつ、雪月の為の食事を作る生活をしていた。
「あの、先生……。お食事が、出来ました……」
汗を掻きながらかまどからおひつに移したご飯と、はなゑ直伝の出し巻き、そして焼き魚とみそ汁、漬物を添えてちゃぶ台に載せると雪月に食事を差し出す。
雪月に食事を供するのはこれで三度目だが、過去二回とも文句など付けずに食べてくれた。……だからこそ気になる。余所者がいきなり作った食べ物……、特に出汁の利いたものなどは、それぞれの家庭の味があって、普通はその味に違和感を覚えるものなのだ。だから結婚した嫁は、夫の実家の味に馴染もうと努力をする。
ところが雪月からはそう言った不満や意見が一切出ない。男の独り身で、もともと食生活豊かでなかったところへ華乃子が作るようになっていれば、文句をつけるどころではないのだろうけれど、馴染んだ味とは似ても似つかない食事を食べさせられ続けたら流石に嫌になるだろう。だから今日は意を決して雪月に尋ねてみた。
「……あの、先生……、お味、いかがでしょうか……?」
お茶を淹れながら華乃子が恐る恐る問うと、雪月はにこりと笑顔で、美味しいですよ、と応えた。
「ええと……、美味しいか、美味しくないかではなく、……例えば、ご実家で出ていたお食事の味……との差ですとか……」
華乃子が頑張ってもう一歩突っ込んだ質問をすると、そんな問いが来るとは思っていなかったのか、雪月は華乃子の顔をまじまじと見て、それから少し照れくさそうに口許を緩めた。
「あの……、美味しくない、という事ではないんです。ただ……」
やっぱり実家の味と違うようだ。華乃子は雪月が言葉を紡ぐのを待った。雪月は大変いいにくそうに目を天井の方に動かしながら、なんとか応えた。
「私は実は、熱いものが少々苦手でして。……実家では粗熱を取ったものを食べていたものですから。あっ! 決して美味しくないというわけではないんです! ただ、口の中を火傷してしまっては、華乃子さんの美味しいお料理も楽しめなくなってしまうので!」
慌てた様子振りに、もしかして彼の言葉で華乃子が傷付くことを考えたのだろうか、と思ってしまう。自分は、どんなことを言われても奇異の目で見られるより怖いことは何もないというのに。そう……、化け物のように扱われなければ、それで、良い……。
「あの……、粗熱を取るくらい、手間の無い作業ですので、そういうことは、仰ってください……。ご迷惑をおかけしないようにしたいので、先生は私に対して……、もっと要求を持っても良いと思います……。そもそも……、このお食事だって、私が勝手にしていることですし……。そういえば、お仕事の資料については、はきはきと書名をご指示してくださるのですから、そのように、なさってください……」
「あ、いや、申し訳ないです。何と申しますか、ご迷惑をおかけしているのではないかと、気になりまして。それに、そもそもこの食事は、貴女のお仕事の範疇ではないでしょう……?」
窺うような雪月の言葉に、最初に会った時の印象は間違っていなかった、と思った。雪月は自分を謙遜して思ったことを閉ざし生きてきたのだろう。自分を閉ざして生きてきたのは華乃子も同じだったので、なんとなく理解できる。仕事の指示は的確だから、仕事に差し障ることはないだろうが、仕事の根本、つまり体作りと言う意味での体調管理に関しては、積極的に言葉にすることがないようだ。これから賄いの仕事は続くはずだし、時々、折を見て、雪月の考えを聞き出すことにしようと、華乃子は思った。
その日の帰りがけ。華乃子は長屋の近所でお婆さんに呼び止められた。
「あんた、あの子の知り合いかい?」
今、華乃子が出てきた長屋を指差してあの子、と言うのだから雪月の事だろう。そうです、と応えると、そりゃよかった、とお婆さんは皺くちゃの顔でにっこり笑った。
「あの子、男のくせに下女もつけずに独り暮らしなんかしてるもんだから、あたしゃ心配で二度、三度、差し入れを持って行ったことがあるんだよ。世話してくれる恋人が出来たんなら、良かったことだ。まあ、仲良くやりな」
恋人ではないけれど、食事を作りに行っていることは確かなので、しっかり栄養を摂らせなければと思う。ご近所さんにも栄養状態を心配されていたなんて、どんな青い顔で歩いていたんだろう。取り敢えずこれからは出来るだけ様子を見に来ることにしよう。華乃子が来れない時は、編集部の誰かに頼んでおけばいい。そう思って華乃子は帰宅した。




