葉香園
葵亥たちが想殿から出ると、先ほどの老女の巫女がこちらへやってきた。
「終わったんだね。それなら椿嬉、ちょっとお使いに行ってきてちょうだい」
巫女は椿嬉に包みを手渡しながら言った。
「葉香園の女将さんへ届けておくれ」
「分かった。着替えたらすぐ行く」
椿嬉が皆にお辞儀して社務所の方へ行ってしまうと、巫女の老女は今度は葵亥と菊悌親王に向かって言った。
「あんたたちもどうせひまなんだろ。付いて行きな。
若いもんがこんな時間に帰ってもやる事なんてないだろ?
葉香園で茶でも飲んできな」
すごく強引な老婆である。
しかし年寄りにはなぜか逆らえない。
それに暇なのは図星だった。
「分かりました。椿嬉殿にお供します」
葵亥が少したじろぎながら答えた。
菊悌親王は何か考え込んでいる様子だったので、葵亥も黙って椿嬉を待っていた。
椿嬉が街着に着替えて戻ってくると菊悌親王が言った。
「椿嬉殿、これから行くところへ私たちもお供します。
ところで」そこで一旦言葉を切って、菊悌親王は笑顔で続けた。
「市井では私の顔を知るものはほとんどいません。
そこで今から私は菊悌親王ではなく、宮廷で祭祀を担当する役人、藤原菊守です。
私のことは菊守と呼んでください。
國造りの儀は長い期間がかかるので、その間私は役人菊守として動くことにします」
つまり、お忍びというやつだろう。
「分かりました。菊守殿」
義巳が答えるのを聞いて、菊悌親王が満足そうな顔をした。
「では行きましょうか」
葵亥には、菊悌親王、いや、菊守の目がきらきらと輝いているように見えた。
◇◇◇
葉香園という茶屋はこぢんまりとしているが清潔感があり、店内は茶の香りがしてとても感じの良い店だった。
「皆さん、付き合わせてしまってすみません」椿嬉がそう言って店に入ると、店の娘が話しかけてきた。
「あれっ、椿嬉じゃない。何だか珍しい顔ぶれで来たのね」
店番の女の子が椿嬉に親しげに話しかけた。
椿嬉の顔を見てから、葵亥、義巳、菊守、導仁の事を珍しそうに見た。
「あっ。四葉、今日店番なんだ。これ、五姫婆から女将さんへ渡してって」
「ありがと、渡しとく。それより、今日はおいしいおかきがあるの。
すぐ用意するので皆さんも座ってお待ち下さい」
四葉はそう言いながら菊守のことをちらちらと見て気にしている様子だった。
四葉が菊守の正体に気がついたのだろうかと思ったが、いくら京の都とはいえ市井の茶屋の娘が親王の顔を知っているはずは無い。
単に四葉は菊守の美しい顔に見とれていたのだ。
四葉が茶の準備をしに奥へ入っていったので、皆で大きめの卓を囲って座った。
葵亥たちが席に着くと、一つ空けて近くの卓に二人組の中年の武士が来て座った。
片方は少し顎髭のある男で、もう片方は優しそうな丸顔の男だ。
少し離れた席には若くて厳つい男が一人で座っているのが見える。
深緑の綺麗な色の根付を付けている。
「椿嬉殿はこちらへよく来られるのですか?」菊守が聞いた。
「ええ、都に来てからこちらにはよくお世話になっています。お茶の種類もたくさんあって…あっ!
そういえば社務所に置いているお茶がもうすぐ無くなるんだった!
持ち帰り用を頼まなくちゃ!」
椿嬉は持ち帰り用の茶葉を頼みに行ってしまった。
少し変わった子なのかもしれない、と葵亥は思った。
椿嬉が席に戻って来たのと同時に、皆の前に煎茶とおかきが運ばれてきた。
お茶のいい香りとおかきの香ばしい香りがする。
葵亥は茶を一口飲んでみたが、とてもおいしい茶だった。
茶を飲み込むと葵亥が口を開いた。
「椿嬉殿は都に来てからどのくらいになるのですか?」
「三月になります。導きの巫女に任命されて京の都へ来たんです」
椿嬉がおかきをおいしそうに頬張りながら答えた。
「というと、たった三月で導きの巫女の記憶を受けたのですか?」義巳が聞いた。
記憶を受けるとはどういう意味だろう、と葵亥は思ったが今は聞くのは我慢した。
代わりにおかきをかじってみたが、茶とよく合うおかきだった。
「はい。私は元々物覚えだけは良かったんです。
本なら一度読めば覚えられますし、人の顔も一度見れば覚えられます」
「それはすごい能力ですね」義巳が感心して言う。
確かにすごい、と葵亥も感心した。
「導きの巫女には記憶する能力が必要ということですか?」
葵亥が聞くと、義巳が頷いて答えた。
「導きの巫女は國造りの儀に関する全てを口伝で受け継ぐ事になっていて、それを全て教わり覚えることを、記憶を受けると言うんだ。
國造りの儀は全て巫女に従って進めるんだ。
全て記憶しなければならないから、ある程度の記憶力が必要になる」
当の椿嬉はおかきを幸せそうに頬張っている。
儀式の時とはうってかわって、こうしてみると普通の女の子だった。
葵亥は椿嬉がおかきを食べるのを邪魔しては悪いと思ったのでそれ以上質問するのはやめた。
葵亥もおかきを頬張っていると、また少し離れた卓に二人組の客が座った。
その二人組の客は異国風の衣装を着た旅商人の女二人組で、初めて来たのでよく分からないからおすすめを出してくれ、と四葉に頼んでいた。
ふと思い出したように葵亥は義巳に質問した。
「そういえば義巳叔父さんと導仁殿は以前からの知り合いなんですよね?」
義巳と導仁が顔を見合わせた後、質問には導仁が答えた。
「前回、三年前の國造りの儀のときも、私は桜仁親王の護衛をしていました。
義巳殿も葵亥殿の兄君の付き添いをしていました。
その時もこうやって五姫婆が私たちを神社から追い出していましたね。
五姫婆にはかないませんよ。
あの婆さんは市井の皆からも恐れられていて、なんでも500年以上生きているという噂があるくらいです」
「えっ500年?」
思わず葵亥が言うと、導仁が真剣な表情で続けた。
「ええ、そして夜な夜な社務所の中で不老不死の妙薬を煎じているという話です。
だから夜にあの神社へ行ってはいけませんよ」
「えっ、分かりました」
導仁の語りがいかにもそれらしく聞こえて、葵亥は思わずそう返事をした。
するとその様子を見ていた椿嬉が大きなため息をついた。
「もう、導仁様。
まじめな顔でそういう嘘を言うのはよしてください。
葵亥様が信じてしまいました」
「椿嬉殿、なんでばらしちゃうんですか」
「いえ、本当に信じた訳では無いですよ、さすがに」
「五姫婆の噂ならまだあるんですよ。
若い巫女から若さを吸い取っているとか、水の上を歩いて川を渡っていたとか、それに…」
「導仁様、五姫婆に言いつけますよ」
「そ、そんなことより、葵亥殿は京の都へ来たのは初めてなのですか?」
導仁が慌てて話題を変えた。
「はい、初めてです。
尾木の国を出たのも今回が初めてで。
京の都は噂に聞いていたとおり賑やかで良いですね。
これからしばらく滞在する間に色々と見て回りたいと思っています」
それを聞いて今度は菊守が言った。
「そうなんですね。
私も都に住んでいながら市井に出る事はほとんど無かったんです。
これを機に色々見てみたいと思っているんですよ」
その後も当たり障りの無い会話をして、その場はお開きとなった。
葵亥が帰ろうとすると、椿嬉は店に残って四葉と座って話している。
二人はとても仲がよさそうだ。
椿嬉はいつもこの茶屋でこうやって過ごしているんだろう。
その楽しそうな様子を見て葵亥は少しうらやましく思った。
京の都に来たばかりの葵亥にはまだ友人と呼べる人がいない。
菊守も少しの間その様子を眺めていた。




