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天沼矛

椿嬉(つばき)に案内されたのは拝殿(はいでん)への道から脇にすこし外れたところにある地味な建物だった。


普通に参拝に来た人たちは倉庫か何かだと思って特に気にしないだろう。


五姫婆(いつきばあ)と名乗った老女の巫女は付いてこなかったので葵亥(あおい)は少しほっとした。


椿嬉が建物の扉の鍵を開けるのを皆で黙って見つめた。

どうぞ、と椿嬉が促すと皆で中へ入った。


建物の中に入った瞬間、葵亥はひんやりとした空気を感じた。


建物の中はその古くて地味な外観からは想像できないような、洗練された空間が広がっていた。


壁には神話や神様を描いた錦絵や水墨画がたくさん飾られていて、奥の棚には鏡や矛、剣、勾玉(まがたま)といった祭具が並べられている。


それでいて不思議と無駄は一切無いと感じる。


葵亥は壁の絵が気になったが、じっくり見たい気持ちをこらえた。

部屋の中央あたりには水瓶(みすがめ)と机が置かれている。


菊悌(きくてい)様と葵亥様のお二人にはこの想殿(そうでん)にて國造(くにづく)りの儀を始めていただきます。

國造りの儀はこの国の平和と安定を祈る儀式です。


そして私は(みちび)きの巫女としてそれをお手伝いさせていただきます。


國造りの儀は導きの巫女一人、朝廷に属する者一人、幕府に属する者一人の三人で行います。

菊悌様と葵亥様のお二人には、これから順を追ってやっていただくことがあります。


導きの巫女である私の役目はお二人に必要な事を必要な時にお話しすることです。

國造りの儀は特別な儀式ですので、長い期間をかけて進めていきす。


説明はこれくらいにしておきましょう。


これから國造りの儀を始めます」


そう言って椿嬉は奥の祭具の棚から矛を持ってきた。

「菊悌様はこちらへ」


菊悌親王が椿嬉の指示に従い部屋の中央の水瓶の横に立った。


「葵亥様は反対側に立って、お互いに水瓶を挟んで向かい合ってください」


葵亥と菊悌親王が向かい合って立つと椿嬉が矛先を水瓶に入れた。


「お二人でこの矛の柄をお持ちください」


葵亥と菊悌親王が二人で矛を持つと、椿嬉は矛から手を離して一歩下がった。


「それでは水瓶の水をその矛で円を描くように八回かき混ぜてください」


葵亥と菊悌親王は椿嬉に言われた通り矛で水をかき混ぜた。


八回かき混ぜ終わっても当然何も起こらない。


「八回混ぜ終えたら、渦が消えるまでお待ちください」


水瓶の中の渦がだんだん小さくなり消えていく様子を、皆黙って見つめていた。


渦がなくなると椿嬉が口を開いた。


「お二人で矛をこちらの台へ置いてください。

はい、そこで大丈夫です。


これで本日やらなければならないことはおしまいです。


お二人には明日からこちらの神社に足を運んでいただくとことになります。

そして、今やった事と同じ事をやっていただきます」


「明日も水を混ぜるだけですか?」

葵亥が不思議に思って聞くと、椿嬉が初めての笑みを見せて頷いた。


「ええ、そうです」


とても重要な儀だと聞いていたのに、やるのはこれだけなのだろうか。

いったいこの儀式は何なのだろう。


菊悌親王もよく分からないという顔をしている。


一方、義巳(よしみ)導仁(みちひと)の二人は何故が楽しそうにこちらを見ている。

自分たちは関係無いと思って面白がっているのだろう。


すると菊悌親王が口を開いた。

「矛で水を混ぜるという行為は伊邪那岐命(イザナギノミコト)伊邪那美命(イザナミノミコト)国産(くにう)みを意味しているのですか」


国産みの話、葵亥もその話は聞いたことがあったはずだが、どんな話だっただろうか。


「はい。その通りです」


「あの矛が天沼矛(アメノヌボコ)を表している。

そしてこれを何日か続けるということですか」


「はい」


「あの、すみません。どういうことでしょうか」

菊悌親王と椿嬉の会話に、たまらず葵亥が口を挟む。


「すみません、国産みとは、どういう話だったかと思いまして…」


「葵亥殿、伊邪那岐命(イザナギノミコト)伊邪那美命(イザナミノミコト)という神をご存じですか?」

菊悌親王の切れ長の美しい目が、まっすぐ葵亥の瞳を見つめている。


「はい、名前は聞いたことがあります」


「古事記によれば伊邪那岐命(イザナギノミコト)伊邪那美命(イザナミノミコト)という神は、混沌とした大地をかき混ぜて淤能碁呂島(オノゴロじま)を作ったといいます。

その大地をかき混ぜるときに使ったのが天沼矛(アメノヌボコ)と呼ばれる矛です。


その後、伊邪那岐命(イザナギノミコト)伊邪那美命(イザナミノミコト)淤能碁呂島(オノゴロじま)で結ばれ、日本の始まりと言われている八つの島、大八島(おおやつしま)を生んだ。

これが国産みと言われる神話です」


「なるほど。神話か…」


菊悌親王と葵亥がしばらく黙って考え込んでいると、義巳が口を開いた。


「お二人とも、今日のところは帰りましょう。


まだ始まったばかりですからそんなに難しい顔ばかりしなくても良いですよ。


明日も同じ時刻に鳥居の前で落ち合いましょう。

それでよろしいでしょうか、椿嬉殿」


「はい。明日もよろしくお願いします」


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