継承
「本日で五十日目ですね。久しぶりに想殿へ行きましょう」
いつも通り拝殿でお祈りをした後で椿嬉が言った。
想殿に入ると、中の空気がひんやりとしていた。
冬の冷たい空気とは少し違う、余計なものを一切省いてしまった澄んだ空気という感じかする。
椿嬉が想殿の壁にある一際色彩豊かな絵の前で立ち止まった。
それは以前、葵亥が気になって見ていた瓊瓊杵命の天孫降臨の絵だった。
「以前、お二人はこちらの絵を熱心に見られていましたね」
椿嬉が手のひらで絵を示して言った。
「はい、これは絵としても素晴らしいです。邇邇芸命の天孫降臨の絵ですね」
葵亥が答えると椿嬉は頷いた。
「天照大御神は邇邇芸命に葦原中国を統治するように言いました。
天照大御神は邇邇芸命が高天原から葦原中国へ降りていく際に、三つの物を授けます。
それが八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣です。いわゆる三種の神器です。
現在、八咫鏡は伊勢神宮、草薙剣は熱田神宮に祀られています」
「八尺瓊勾玉は宮中にあるそうです。
また宮中には他の二つの形代もあるということです」菊守が言った。
あるそうです、というのは菊守も実際に目にすることはできないからだろう。
椿嬉は頷いて続けた。
「その三種の神器は葦原中国を治める者の証しとなりました。
邇邇芸命の子孫がこれらを継承し代々葦原中国を治めることとなります。
これらを継承する者、それがすなわち天皇となるのです」
天皇や皇族は、天照大御神に命じられて葦原中国を治めた邇邇芸命の子孫にあたる。
邇邇芸命の曽孫にあたり初代天皇である神武天皇が即位したのは今から2000年程前とされ、それからずっと天皇は途絶えること無く今も続いている。
それは幕府とは比べものにならないほどの長い歴史である。
これほど長い間継承され続けるというのは簡単なことではない。奇跡の様だ。
「私が初めて菊守殿にお目にかかった宮廷の部屋、あの襖にはこれと同じ絵が描かれていました。
もちろん、あの襖はもっと色彩が豊かで、金箔も使用された、宮廷用に描かれたものでしたが。天孫降臨を描いた絵でした」
「ええ、あの襖はこれと同じ場面を描いたものです」
「あのとき私は、あの襖の絵が何の絵なのかさえ分かりませんでした。
しかし今は、あの絵が宮中のあの襖に描かれていた意味が分かります。
天孫降臨から始まり今に繋がる天皇家の歴史の重みを感じます」
「それは私も感じます。
私も神の存在は信じていないんですよ。
神武天皇も本当にいたかどうか怪しいと言われています。
それでも天皇家がこれだけ長い年月の間、途絶えること無く続いてきた事は事実ですし、本当にすごいことだと思っています」
「え、ちょっと待ってください。
神様はともかく、神武天皇も本当にいたかどうか分からないんですか?」葵亥は菊守の言葉に衝撃を受けた。
「ええ、なにしろ神武天皇は2000年以上も前の人物ですからね。
いたかもしれないし、いなかったかもしれない。
少なくとも古事記が書かれた時点では天皇は既に実在したと言えそうですが。
どちらにしても、邇邇芸命や神武天皇が実際にいたかどうかは重要では無いんだと思います」
実際にいたかどうかは重要ではない、か。
「椿嬉殿が以前言っていたことが少しずつ分かってきた気がします」
「神様が実際にいるとは思っていない、でも神話の中に確実に存在する。ですね」
椿嬉は以前言って言葉を繰り返した。
「はい。多分、あと少しでその言葉が理解できそうです」
葵亥は再び絵を見てしばらくそこに立っていた。
◇◇◇
葵亥は西倭道場へやってきていた。今日は道場の指導の日だ。
前回で門下生達の腕前は分かった。今日からは本格的に指導に入る。
まずは門下生達の練習を見学してみることにした。
宮比と小柄な方の青年が打ち合いをしている。
小柄な青年は黒松幹人と言ったか。
幹人は小柄な体型を活かした素早い動きを武器としている。宮比ほどではないが、幹人もなかなか筋悪くない。
この道場の者たちは葵亥にこそ敵わないが、皆技術的にはかなり上級のものを持っている。
馬加師範の指導のおかげだろう。
大柄な方の青年は梅立十夜と言った。
十夜は年長の鏑木真澄と打ち合いをしている。
やはり十夜は大柄なだけあって力が強い。
大の大人の真澄とも力では互角だ。
「葵亥様、見ていて何か気になることはありますか?」
門下生たちの様子を葵亥の横で一緒に見ていた馬加師範が声をかけてきた。
「皆、腕前はかなりいいですね。
馬加師範の教え方が上手いのでしょうね」
「そう言われると、お世辞でも嬉しいですね。
しかし半分は弟のおかげでしょう。
元々は私の弟も一緒にこの道場で教えていたんですが弟は私と馬が合わず出て行ったんです。
その時ですよ、道場を閉めようかと思ったのは。
もしこの門下生の中から、道場を、倭源心流を継ぎたいと思ってくれる者がいてくれたら嬉しいのですが」
「倭源心流を継いでいるのはこの道場だけなのですか?」
「おそらく、うちだけでしょう。
詳しいことは不明ですが、倭源心流は1300年以上前に始まった天皇家の専属守備隊の為の流派だったと言われています。
以前もお話しましたが、私はこの歴史ある流派を私の一存で途絶えさせるのが惜しいんです。
古くから代々受け継がれて続いているものというのは、そのこと自体が尊ばれるべき歴史だと思うのです。
そして一度途絶えてしまえば、取り返しがつきません。
いつかは時代の流れの中でどうしても続けていくのが難しくなったり、時代にそぐわないという理由で、無くなってしまうものかもしれません。
しかしその時が来るまでは、もう少しだけこの歴史を、代々たくさんの人達によって受け継いできたものを、残したいのです。
ただ、門下生たちには無理に継いでほしいとは言いません。
私と同じ様に考える者がいてくれたなら、継ぎたいと思ってもらえるのなら、ただ嬉しいということです」
葵亥は馬加師範の話を聞いているうちに先日の想殿での会話を思い出していた。
葦原中国を統治する事となった邇邇芸命の子孫が代々三種の神器を継承し天皇となる話だ。
天皇家も神武天皇から始まって2000年以上続く歴史を受け継いでいる。
初代神武天皇は存在したか分からないとはいえ、少なく見積もっても古事記が書かれた頃から1000年以上もある。
朝廷は今まで、本当に一度として、滅んだことがない。
一度でも途絶えればやり直しは不可能に近いだろう。
道場とて同じだ。
剣術の場合は血筋ではなくその技術の継承となるが、一度途絶えてしまえば再度蘇らせる事は不可能だろう。
朝廷も剣術も、どちらにしても、いつかは時代の中で消えるときが来るのかもしれない。
しかし葵亥には馬加師範の『惜しい』気持ちが分かる気がした。
手放すのは簡単だが、一度手放したらもう元には戻らないと分かっていると、決断は難しいものになる。
「ここにも歴史の重みを感じます」
葵亥は独り言のように呟いた。
葵亥にできることはただ門下生たちに指導するだけだ。




