西倭道場
「はじめまして、葵亥様。
倭源心流『西倭道場』の師範の馬加一冴でございます。中へどうぞ」
義巳にもらった地図を元にやって来た道場は葵亥の想像より遥かに大きかった。
遠くから観ると随分立派な道場だと思ったのだが、案内され中へ入ってみると、柱や床はところどころ補修を必要としていることに気がついた。
「倭源心流は京の都でいちばん歴史の長い流派なんです。
昔は門下生も多かったのですが、最近では武術はあまり流行りませんからね。
この通り建物は少し頼りないですが、まあ、ここは道場です。
人が住むわけではありませんからなんとかこれでやっているわけです」
道場の中では門下生が稽古をしていた。
葵亥と同い年くらいの若者が三人、うち一人は女の子だ。
その他に中年の男性が一人。
全部で四人、それだけだ。
この人数では道場が広すぎるくらいだ。
竹刀の打ち合う乾いた音と掛け声がよく響く。
「馬加殿、門下生はこれで全員ですか?」葵亥は四人の稽古の様子を眺めながら馬加師範に聞いた。
「はい、四人だけです。
正直、もう道場を閉めようかと思ったこともあったのですが、古くから伝わる『倭源心流』が無くなってしまうと考えると惜しい気がしてしまって。
その代わり道場を守るために副業をする羽目になってしまいましたけどね」
馬加師範は、わははと笑った。
葵亥にはその笑いの奥に迷いの様なものは一切感じられなかった。
この男は門下生がいる限り道場を続けることを心に決めているのだ。
向こうでは門下生の青年の一人と女の子が打ち合いをしている。
葵亥はその様子を眺めながら、女の子の方はなかなか筋が良いと思った。
「それで私はここで何をしたら良いのでしょうか。
叔父には剣術指導をするようにと言われて来たのですが、私は当然、倭源心流のことは分かりません」
「ええ、気織家の方々が『天ノ八剣流』を受け継いでいらっしゃるということは存じております。
流派の違いは問題ではありません。
先ほども申し上げた通り、私はこの京の都で古くから伝わる倭源心流を私の代で途絶えさせるのが惜しいのです。
こういった伝統というのは一度途絶えてしまったら、もうやり直しがきかないのです。
葵亥様からのご指導を通して、門下生たちには倭源心流の価値を改めて理解してもらいたいのです。
これは私が言葉でどれだけ熱心に説明しても伝わらないことなのです。
とは言え葵亥様には技術的なご指導をして頂ければそれで十分です。あとは彼らがそこから自然と学ぶでしょう。
葵亥様には何の利もない事かもしれませんが、どうかこのお話を受けては頂けないでしょうか」
馬加師範の目は真剣そのものだった。
葵亥にはその目の中に、この道場を、倭源心流を守り伝えたいという思いが見て取れた。
葵亥が門下生たちの方へ目をやると、今度は先ほどの青年と女の子はもう打ち合いを終えて壁際に立っており、もう一人の青年と中年の男が打ち合いを始めていた。
さすがに中年の男の方が力もあり技も格上だった。
なるほど、確かに技術的には四人ともかなり上級者と言えそうだが、まだまだ向上の余地はある。
しかし馬加師範が葵亥を呼んだ理由はそれだけではないという事だ。
そもそも技術的な話になると、月に数回の指導でどうにかできるものでもないだろう。
「正直、私はどの様な形でお役に立てるか分からないです。
しかし技術的な指導ならできます。
できるだけのことはやらせていただきますので、この話お受けいたします」
「葵亥様、ありがとうございます」
そう言って馬加師範は丁寧に頭を下げた。
「それならば早速門下生たちを紹介させてください」
そして門下生たちの方へ向き直り声をかけた。
「みんなこちらへ集まってくれ」
稽古をしていた四人は竹刀を下ろしてこちらへやって来た。
みんな葵亥の事を物珍しげに見ている。
「こちらは気織将軍家の三男、気織葵亥様だ」
門下生の四人はそれぞれ驚いたようにお互いに目配せした。
「これから月に数回こちらに来てご指導をして頂けることになった」
すると門下生の中でも最年長の中年の男が言った。
「気織葵亥様は武術に優れた方であるというのは我々も存じ上げております。
そんな方にご指導いただけるなんて光栄です。
よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「私は一応武家の端くれでして、鏑木真澄と申します。
そしてこの若い小さいのが黒松幹人、大きいのが梅立十夜、それからこの娘は」
「竜胆宮比です」
真澄の言葉を遮るように最後の女の子が名乗った。
まるで葵亥の目の中にいる獲物を見るように鋭い目つきで葵亥を凝視している。
剣術に対する貪欲な向上心の表れだろうか、葵亥に対する単なる敵対心だろうか、それとも将軍家への憎悪だろうか。
いずれにしろ大歓迎だ。葵亥はその想いを受け止めるつもりで微笑んだ。
「せっかくですから、みなさんのことを知るために、お一人ずつ手合わせをお願いしたいのですが」
葵亥はそう言うと、馬加師範から竹刀と防具を受け取った。
「ならば、初めに私とお願いします」宮比が威勢よく進み出てきた。
彼女が葵亥の前に立つと、葵亥は目に見えるほどの闘争心を感じた。
お互いにお願いしますと挨拶し、礼をして竹刀を構えた。
馬加師範の始め!の合図で、すぐに宮比が打ち込んできた。
やはり彼女はなかなかセンスがある。
葵亥は次々と打ち込んでくる宮比の攻撃を難なく払い、そろそろかという時に葵亥から打ち込んだ。
葵亥の竹刀の先が宮比の面すれすれのところで止まる。
宮比は悔しそうな目を見せたが、お互いにありがとうございました、と挨拶してから葵亥の顔を真っ直ぐ見た。
その目は先ほどまでの獲物を見る目ではなくなっていた。
葵亥は、宮比はとても綺麗な目をしていると思った。
その後も小柄な方の青年黒松幹人、大柄な方の青年梅立十夜、それから最後に最年長の鏑木真澄と手合わせをしたが、当然、皆葵亥には敵わない。
いちばん粘ったのは初めにやった宮比だった。
「葵亥様はさすがですね。文字通り全く太刀打ちができませんでした」真澄が言った。
「動きに無駄がなくてかっこいいですね」十夜が憧れの眼差しで葵亥を見ている。
「今ので皆さんの事や、倭源心流の事が少し分かった気がします。
一人一人の苦手なところを分析して補填していけば今よりもっと強くなれると思います」
葵亥はまず一人一人に簡単に直せそうな部分を指摘して指導した。
細かい部分や繰り返しの練習が必要な所はまだこれからでいいだろう。
一時間程四人に指導して、今日の指導は終わりにすることにした。
「今日はお話だけのつもりでしたのに、指導までして頂いてありがとうございました」馬加師範が丁寧にお辞儀した。
「いえ、私も門下生の皆さんのことを知りたかったので、つい長居してしまいました。また次回よろしくお願いします」葵亥も丁寧に挨拶し、一人で道場の門を出た。
久しぶりに竹刀で打ち合いをして少し気晴らしにもなった。
馬加師範の言ったような大層な役回りが自分にできるかは分からないが、とりあえず葵亥に与えられたのは技術的な指導だった。
まずそれをしっかりやり遂げよう。
考えながら歩いていると、ふと後ろから誰か付いてくるものの気配がある事に気が付いた。
葵亥はすぐ角を曲がって人気のない細い路地に入った。
付いて来る人物は特に手練れという感じはしない。
細い路地の奥で葵亥が振り返ってみるとそれは先ほどの道場の門下生、竜胆宮比だった。
「宮比殿でしたか。私に何かご用でしょうか?」
葵亥は感じよく微笑んでみた。
宮比は無表情で葵亥にゆっくりと近づいてきた。
後ろに束ねた髪が振り子のように揺れるのを、葵亥はただ見つめて待った。
宮比は葵亥の少し手前で静かに立ち止まり、一度深呼吸した。
それからもう一度大きく息を吸った。
「私は⋯強くなれますか?」
宮比はたくさん吸った息を持て余すような、ほんの小さな声で言った。
「宮比殿。私が見たところ、あなたはあの道場の門下生の中でもいちばん筋が良いと思います。
強くなる可能性を大いに秘めていますよ」
葵亥は正直に答えた。
「私は名家の出じゃない」
「それは関係ないですね」
「女です」
「それも関係ない話です」
「葵亥様は名家の男です」
「確かに私が言っても説得力が無いですね。
宮比殿自身はどうしたいのですか?」
「私はその⋯葵亥様の様に強くなりたいんです。でも私には⋯」
宮比が自分のつま先を見つめたまま黙ってしまった。
もちろん宮比のつま先にはじっと見つめていたくなる様な変わったところは何も無い。
宮比はなかなか次の言葉を発しない。
「仕方ない。普段は外では呼ばないんだけど」葵亥が独り言の様にぼそぼそと呟く。
「え?」宮比が眉間にしわを寄せて聞き返した。
「片栗!」葵亥が宮比の後方を見て言い放った。
するとどこからか葵亥と宮比のすぐ横に女の忍びが音もなく姿を現した。
宮比が目を丸くして片栗を見ている。
「お呼びでしょうか、葵亥様」
「聞いてただろう?宮比殿は名家の出じゃない女は強くなれないんじゃないかと不安に思っているみたいなんだ。
宮比殿、この片栗は気織家の優秀な女忍びの一人で元は孤児だ。
片栗は剣術では私と互角だし、諜報活動では彼女の右に出るものはいない。
普段は私でも片栗の気配は察知できないくらいだ」
片栗は宮比の方へ向き直って優しく微笑んだ。
「世の中には名家の出でないと、男でないとできない事もあるのは確かでしょう。しかしそうでない事の方が多いのです。
できない理由というのは考えだしたらきりがありません」
そして懐から手裏剣を一つ取り出して宮比の掌に置いた。
「これは私からの激励のしるしです。幸運を祈ります」
片栗は忍びらしく本当に煙のようにどこかへ消えてしまった。
「片栗様⋯かっこいいですね」宮比が呟いた。
葵亥が宮比の横顔を見ると、宮比は片栗に手渡された手裏剣をじっと見つめていた。
そして葵亥は初めて宮比の笑顔を見た。
「すごくかっこいいんだ、片栗は。
ところで宮比殿、ちょっと聞きたいのだが」
手裏剣から目を離して宮比は葵亥の方を見た。
「はい、何でしょう?」
「⋯その手裏剣、私にくれないか?」
「だめです」
「やっぱり」
「私が頂いたものですよ。
葵亥様はご自分でもらってください。では失礼します」
宮比は手裏剣を懐にしっかりしまい込み、さっさと道場の方へ去って行った。
人気のない路地に葵亥は一人置き去りにされた。




