第二話
「なっ……! 何を言っている、アーベンハイト公爵! そいつは聖女であるリリアーナに呪いをかけた罪人だぞ! それを引き取るだと? 正気か!」
我に返ったユリウス殿下が、顔を真っ赤にして叫んだ。
まあ、無理もない。
国中から畏怖される『氷の公爵』が、今まさに断罪されたばかりの地味で魅力のない女(私です)を欲しがるなんて、誰もが意味不明だろう。リリアーナですら、庇護者の腕の中から、信じられないものを見る目で公爵と私を交互に見ている。
しかし、アシュレイ公爵は表情一つ変えなかった。
血のように赤い瞳が、射抜くようにユリウス殿下を見据える。
「罪人? それはおかしいですな、殿下。彼女はまだ、正式な裁判を受けてもいなければ、有罪判決が下ったわけでもない。それを、ご自身の感情だけで『罪人』と断じ、国外追放を言い渡すのは、いささか法を軽んじてはいませんか?」
静かだが、鋼のように硬い声。
その言葉に、王子は「ぐっ……」と息を詰まらせた。
周りの貴族たちも、ざわざわと囁き合う。
「た、確かに公爵の言う通りだ……」
「王子の独断が過ぎるのでは……」
(あらあら、風向きが変わってきた)
私は内心の面白さを隠し、淑女の仮面を貼り付けたまま、この茶番劇の行く末を見守る。
アシュレイ公爵は、怯んだ王子にとどめを刺すように、ゆっくりと言葉を続けた。
「殿下が『不要』と判断されたのです。ならば、その不要なものを私がどう扱おうと、文句を言われる筋合いはないはず。それとも、王族は一度吐いた言葉を、いともたやすく覆されるのかな?」
それは、もはや脅しに近い響きを持っていた。
王族が一度下した決定を撤回することは、権威の失墜に繋がる。ユリウス殿下は、唇を噛み締め、悔しそうに顔を歪めた。彼にはもう、反論する言葉も力も残されていない。
絶対的な強者を前に、王子という立場がいかに脆いものであるかを、広間にいる全員が目の当たりにしていた。
公爵は、完全に沈黙した王子を一瞥すると、再び私に向き直った。
そして、私の手を取ったまま、今度は恭しく片膝をついたのだ。
「……っ!?」
これには、私も心の平静を保てなかった。
公爵が、人前で膝を折るなど、前代未聞のことだ。
彼は、騎士が主に忠誠を誓うように、私の手の甲にそっと唇を寄せた。
「エリアーナ・フォン・ヴァインベルク嬢。改めて、君に請う。俺の庇護下に来てほしい。君がこれまで背負ってきた全てを、俺は知っている。そして、その全てを尊いと思う」
(……私の、全てを、知っている?)
心臓が、大きく跳ねた。
まさか。そんなはずはない。
私がこの国の結界を維持してきたことなど、誰にも話していない。気づかれるはずがないのだ。一族に伝わる秘術であり、私の魔力量はあまりに規格外すぎて、通常の魔術師では感知すらできないはず。
けれど。
目の前で跪く彼の、血のように赤い瞳は、嘘を言っているようには見えなかった。
その瞳は、ただひたすらに真っ直ぐに、私の真実を映している。
(この人は、本当に……)
長年、誰にも理解されず、孤独に耐えてきた心の氷壁に、ピシリ、と小さな亀裂が入る音がした。
ここで、彼の申し出を断る理由など、どこにもない。
国外追放よりも、実家で疎まれ続けるよりも、はるかに魅力的で、そして……私の心を揺さぶる提案だった。
「……謹んで、お受けいたします。アシュレイ公爵閣下」
私がそう答えると、公爵は満足そうに微笑んだ。
『氷の公爵』と恐れられる彼が笑うのを、私は初めて見た。その笑みは、まるで厳冬の後に訪れる陽だまりのように、穏やかで、温かかった。
*
王宮からの帰り道は、公爵が手配した豪奢な馬車の中だった。
私の実家であるヴァインベルク侯爵家には、公爵の側近が私の私物を取りに行っている。父も継母も、そしてリリアーナも、恐ろしい公爵を前に何も言えず、ただ青い顔で立ち尽くすだけだった。実に愉快な光景だったわ。
馬車の中は、私と公爵の二人きりだ。
気まずい沈黙が流れる。私はどう切り出したものかと考えあぐねていたが、先に口を開いたのは公爵の方だった。
「……すまなかった。あのような形で、君の意思を確かめもせず、強引に連れ出してしまった」
「いえ、とんでもございません。むしろ、感謝しております。閣下がいらっしゃらなければ、私は今頃、国外追放の身でしたから」
本心からそう言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。
「君は、本当にそれでよかったのか?」
「はい。自由になれるのですから」
「……そうか」
彼はそれ以上は何も言わず、窓の外に流れる王都の景色に目を向けた。
その横顔を見つめながら、私はずっと気になっていた疑問を口にすることにした。
「あの、公爵閣下。先ほど、私の全てをご存知だと仰いました。それは……一体、どういう意味でしょうか」
私の問いに、彼はゆっくりとこちらに視線を戻した。
赤い瞳が、また私を射抜く。
「我がアーベンハイト家は、代々、高密度の魔力を感知し、その流れを読む特異体質を受け継いでいる」
(特異、体質……!?)
初耳だった。そんな話は、どんな書物にも載っていなかった。
「王都は、常に巨大で緻密な魔力結界によって守られている。その結界の中心が、ヴァインベルク侯爵家の屋敷にあることには、十年ほど前に気づいた。そして、その結界をたった一人で維持・管理している術者がいることにも」
彼の言葉に、私は息をすることを忘れた。
十年。私がこの役目を母から引き継いでから、ちょうど十年だ。
この十年、誰一人、私の苦労も努力も知らなかった。知ろうともしなかった。
それが当たり前だと思っていた。孤独であるのが、私の宿命なのだと。
「君が夜な夜な、身を削るようにして魔力を注ぎ込み、この国の平和を守ってきたことを、俺だけは知っていた。……干ばつの折、君が放出した膨大な魔力の揺らぎも、確かに感じ取った」
公爵は、淡々と事実を告げる。
けれど、その言葉の一つ一つが、私の心の最も深い場所を、優しく叩いていた。
「……なぜ、今まで」
「言えば、君が王家や国に、より強く縛り付けられるだけだと思ったからだ。君は便利な道具として、さらに酷使されただろう」
彼は、私の幸せを考えて、黙っていてくれたというのか。
「だが、今日の婚約破棄は度し難い。君の長年の献身を踏みにじり、偽りの聖女を祭り上げるなど、愚の骨頂。……もう、我慢の限界だった」
彼の声に、静かな怒りが滲んでいるのがわかった。
それは、私のためだけの怒りだった。
(ああ、この人は)
この人は、本当に、見ていてくれたのだ。
誰にも見えない場所で、たった一人で戦ってきた私を。
地味で、愛想がなくて、可愛げのない私の中に眠る、本当の姿を。
その瞬間、私の内側から、熱いものが込み上げてきた。
何年も、何十年も、凍てついていた涙腺が、決壊する。
「……っ」
堪えようとしても、一度溢れ出した涙は止まらなかった。
ぼろぼろと、大粒の涙が頬を伝ってドレスに染みを作る。
みっともない。こんな姿、見せたくないのに。
私が慌てて顔を俯かせると、そっと、白いハンカチが差し出された。
「……ありがとう、ございます」
震える声で礼を言い、それを受け取る。
シルクのハンカチには、彼のものらしい、冬の森のような澄んだ香りがした。
「泣かせてすまない。だが、これからはもう、一人で背負う必要はない」
公爵は、不器用に、けれど確かに、私の隣に寄り添ってくれていた。
その温かさが、私の凍てついた心をじんわりと溶かしていく。
馬車の窓の外では、王都の門が遠ざかっていく。
私は、過去の全てと決別し、新しい未来へと走り出していた。
この人の隣でなら、私はもう一度、自分の人生を歩き出せるかもしれない。
そんな予感が、雨上がりの空にかかる虹のように、私の心に確かな光を灯し始めていた。




