第一話
「エリアーナ・フォン・ヴァインベルク! 貴様との婚約を、今この場を以て破棄する!」
シャンデリアの光が降り注ぐ王宮の大広間に、高く、そしてよく通る声が響き渡った。
声の主は、我が婚約者であるこの国の第一王子、ユリウス・レオン・クレスフィールド殿下。
金色の髪を光らせ、碧い瞳に正義の炎を宿らせて、私を指さしている。
その隣には、私の可憐な異母妹、リリアーナが寄り添い、今にも泣き出しそうな顔でユリウス殿下の腕にギュッとしがみついていた。ピンクブロンドのふわふわした髪、潤んだ青い瞳。庇護欲をそそるその姿は、男たちの心を掴んで離さない。
(ああ、ついに来たのね、この日が)
周囲の貴族たちが息を飲み、驚きと好奇の視線で私を射抜く中、私の心は不思議なほど凪いでいた。
むしろ、どこか「やっとか」という安堵すら感じている。
「ユリウス殿下。理由をお聞かせいただけますでしょうか」
内心の冷静さとは裏腹に、私は貴族令嬢の完璧な作法でスカートの裾をつまみ、深く、優雅に礼をしてみせた。銀の髪をきっちりと結い上げ、装飾の少ない濃紺のドレスを纏った私の姿は、妹のリリアーナと比べればどこまでも地味で、まるで夜空の月と星だ。いや、私は星ですらない、ただの夜闇か。
「理由だと? よくもそんなことが言えたものだ! 貴様が、この可憐で心優しいリリアーナに、どれほど陰湿な嫌がらせをしてきたか、すべてわかっているのだぞ!」
(嫌がらせ? ああ、私がリリアーナに「夜会で出されるお菓子にはアレルギーの原因となるナッツが多く使われるから、侍女に確認するように」と忠告したことかしら。それとも、「そのドレスの刺繍、ほつれていますよ」と教えてあげたこと?)
私の親切はすべて、彼女の涙にかかれば「嫉妬による嫌がらせ」に変換されるらしい。便利な才能だこと。
「リリアーナは、その身に聖なる力を宿した『聖女』である! 先日の干ばつの折、彼女が祈りを捧げたことで、この国は救われたのだ! それなのに貴様は! そんな彼女の類まれなる才能に嫉妬し、呪いをかけようとした!」
王子の言葉に、広間がどよめく。
リリアーナが「うっ……」と小さな悲鳴をあげて、さらに強く王子の腕にすがりついた。
(呪い、ねえ……)
あれは呪いなどではない。
リリアーナは、確かに微弱ながら精霊の声を聞く力を持っている。彼女がやったのは、その力で雨乞いの儀式を真似て、たまたま近くにいた気まぐれな下級水精霊の機嫌をとっただけ。
干ばつを終わらせるほどの恵みの雨をもたらしたのは、王都の地下深くに張り巡らせた私の魔術式が、何年もかけて溜め込んだ魔力を放出して大気中のマナに干渉したからだ。
もちろん、そんな事実を誰にも告げるつもりはない。
我がヴァインベルク侯爵家に代々受け継がれるこの規格外の魔力は、扱いを間違えれば国をも揺るがす危険な力。だからこそ、私は力を隠し、目立たぬように、ただただ国の安寧を支える礎となるべく生きてきた。王太子妃教育の傍ら、夜な夜な王都の結界を維持・強化し、国の魔術的防衛を一手に担ってきたことなど、父ですら知らない。
「エリアーナ様が……私の聖なる力を妬んで、夜な夜な黒魔術の儀式を……っ。私が止めてとお願いしても、聞いてもらえなくて……!」
リリアーナが涙ながらに訴える。
あらあら、夜な夜な私がやっていたのは、黒魔術じゃなくて結界のメンテナンス作業ですけれど。妹の部屋から漏れ聞こえる謎の喘ぎ声(たぶん、これも聖なる儀式の一環なのでしょう)をBGMに、必死に国の魔力循環を調整していた私の努力を、よくもまあそんなふうに。
「もうたくさんだ! エリアーナ! 貴様のような嫉妬深く、地味で、女の魅力の欠片もない女は、王太子妃にふさわしくない! よって婚約は破棄! 新たにリリアーナを私の婚約者として迎える!」
高らかに宣言する王子。
周囲からは「おお……」「やはり聖女様が……」という納得の声が上がる。
私の父も母(継母だが)も、なぜか満足げな顔で頷いている。彼らにとって、愛らしいリリアーナは自慢の娘で、地味で何を考えているかわからない私は、厄介者でしかなかったのだろう。
(ああ、これでいい)
これで、やっと私は解放される。
王妃になるための息苦しい教育からも、国の結界を維持する重圧からも、誰にも理解されない孤独な戦いからも。
もう、夜中にこっそり魔術式を調整する必要はない。王子に愛想笑いを浮かべる必要もない。
「……承知、いたしました」
私は、心からの安堵を込めて、そう答えた。
顔を上げると、ユリウス殿下は私のあっさりした態度が気に入らなかったのか、眉を吊り上げている。私が泣き叫んで許しを乞うとでも思っていたのだろうか。
「反省の色も見えないとは、さすが悪女だな! 貴様のような女は、国外追放が妥当であろう!」
(国外追放! それは素晴らしい!)
願ったり叶ったりだ。
この国を離れて、どこか静かな田舎で、これまでできなかった魔術の研究にでも没頭して暮らそう。ああ、なんて素敵なセカンドライフ。
私が輝かしい未来に胸を躍らせ、追放命令をありがたく拝聴しようとした、その時だった。
「お待ちを、ユリウス殿下」
凛と響く、低く静かな声。
その声に、あれほど騒がしかった広間が、水を打ったように静まり返った。
声の主は、広間の隅の影の中から、ゆっくりと姿を現した。
漆黒の髪。血のように赤い瞳。
他の貴族たちが色とりどりの衣装で着飾る中、彼だけが夜の闇をそのまま切り取ったかのような黒一色の軍服に身を包んでいる。
アシュレイ・ノア・アーベンハイト公爵。
北方の国境地帯を治め、その圧倒的な武勇と冷徹さから『氷の公爵』『戦場の死神』と畏れられる、この国で唯一、王族ですら迂闊に手出しできない人物。
彼がなぜ、こんな社交の場に?
いつもは夜会などには一切顔を出さないはずなのに。
アシュレイ公爵は、誰にも目もくれず、真っ直ぐに私の方へ歩み寄ってくる。
カツ、カツ、と彼のブーツの音だけが、やけに大きく響いた。
そして、私の目の前で足を止めると、赤い瞳でじっと私を見つめた。
その瞳は、まるで私の魂の奥底まで見透かしているかのようで、私は思わず息を飲んだ。
「彼女を国外追放にすると、仰いましたな」
「あ、ああ、そうだ。それが何か?」
王子の声が、わずかに上ずる。
いくら王子といえど、歴戦の猛者である公爵の威圧感を前にしては、平静ではいられないのだろう。
アシュレイ公爵は、ふい、と私からユリウス殿下へと視線を移した。
「ならば、その不要になった令嬢、俺が引き取ろう」
「…………は?」
王子が間抜けな声を上げた。
私も、リリアーナも、周りの貴族たちも、誰もが耳を疑った。
漆黒の公爵は、そんな周囲の混乱など意にも介さず、私の手を取った。冷たいと思っていた彼の手に、驚くほど確かな熱が宿っていた。
「ヴァインベルク嬢。貴女のその類いまれなる価値を、あの愚か者どもは何も理解していない」
囁くような、けれど確信に満ちた声。
赤い瞳が、私だけを映している。
「俺と共に来る気はないか? もう、誰にも貴女をないがしろにはさせないと誓おう」
それは、あまりにも突然で、あまりにも甘い、契約の誘いだった。
長年、孤独な闇の中にいた私に差し出された、初めての光だった。
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