影魔
時間は一分一秒と過ぎていく。
疲労感が再び潮のように押し寄せてきた。雅子は意識がぼんやりと霞んでいくのを感じた。必死で太ももをつねってみるが、効果はほとんどない。
「健吾さん」
佐藤美咲の呼びかけがまた聞こえてきた。葉山雅子はその可憐な少女に目を向け、胸の奥が締めつけられるような悲しみを覚えた。わずか数日の間に、彼女は両親を失い、愛する恋人までも奪われてしまったのだ。
葉山雅子はスマホの画面を点灯させ、LINEを開いた。しかし相変わらずネットも電波も届かない状態だ。彼女は兄・葉山隼人とのトーク画面を表示した。
「お兄ちゃん、仕事終わりました。今、バス待ちしてるよ。あと四十分くらいで駅着くから、迎えに来てくれる?」
それはあの列車に乗る直前、兄・葉山隼人に送ったメッセージだった。最後の返信は、いつものあの言葉のまま止まったままだ。
「了解。すぐ行くから、うろつかないで、安全に気をつけてね」
「こんな夜遅くに……お兄ちゃんはどうしてるんだろう」雅子は胸がずきりと痛んだ。「私を迎えに来てくれなかったし、電話も通じない。もう心配で狂ってしまってるんじゃないかな?」
そう考えると、葉山雅子は少し元気を取り戻した気がした。なんとしても生きて帰って、兄に無事を知らせなければ――。
さらに時間が経ち、雅子の頭はますます重くなり、体はまるで浮いているかのような感覚に襲われた。次の瞬間には風に流されてしまいそうなほどだ。
「だめだ……もう限界だ……」
今の自分の状態がかなりまずいことはわかっていた。もし二人とも眠ってしまったら、万が一怪物が侵入してきたら、ただの一瞬で命を落とすしかない。
スマホで時刻を確認すると、すでに午前二時を回っていた。
そこで彼女は、そっと佐藤美咲を揺り起こした。
「美咲、起きて」彼女は小さな声で言った。「私、もう無理だから、次はあなたが見張ってて」
佐藤美咲は眠けの残る目をこすりながら身を起こした。血走った雅子の瞳を見て、自分にかけられたコートに手を添えると、胸の中になんだか温かなものが広がった気がした。
彼女は雅子から灯油ランプを受け取り、雅子の肩を支えて、自分の寝ていた場所へ横たえさせた。
「雅子さん、早く寝てくださいね」佐藤美咲はそう言って、自分の上着を雅子の体にそっとかけてやった。
「わかった。じゃあ、あとは任せるね」
「はい、任せときますよ、雅子さん」
佐藤美咲の約束を聞いて、葉山雅子は静かに目を閉じた。あまりにも疲れ切っていたうえに、美咲が寝ていた場所にはまだほのかなぬくもりが残っていて、彼女は目を閉じた途端、深い眠りに落ちていった。
拝殿の中では、佐藤美咲が一人、灯油ランプのそばに座り、警戒の眼差しで周囲を見渡していた。突然、通り抜け風が扉や窓を抜けて吹き込み、ろうそくの火が小さく揺れた。
「バサッ……バサッ……」
何か音が聞こえてきた。どうやら本のページが風に煽られてめくれている音らしい。美咲ははっとして後ろを振り返った。机の上に置かれていた『青狐妖刀記』は、風に吹かれてページが次々とめくれ、ついには最後のページまで進んでしまった。
ろうそくの光を頼りに見ると、黄ばんだ紙面には、先ほど雅子が口にしていなかった一節がひっそりと浮かび上がっていた――『青狐神社、寅の刻、真心ある者が呼べば庇護を得る。願いは叶うが、血を引として、誓いを契とするべし』。
「願い……叶う?」佐藤美咲はその一行をじっと見つめ、考え込んだ。「狐仙様が私たちをここへ導き、守ってくださったのなら……この伝説も本当なのかもしれない」
彼女は隣で眠る葉山雅子に視線をやり、自分のスマホを取り出して時刻を確認した。
画面には「02:47」と表示されていた。
寅の刻は午前三時ごろ。あと十三分でその時刻だ。
彼女は改めて机の上の祠に目をやり、小さな声でつぶやいた。
「本当に健吾さんにまた会えるのなら……彼を救い出せるのなら……私は血を引きとして捧げます!」
彼女は祠の前に座り、狐の仮面に隠された日本刀を見つめ、スマホの時刻を追いながら、寅の刻が訪れるのを待った。
ほどなくして午前三時になり、佐藤美咲は立ち上がった。ダメ元で、震える指を刀の刃にそっと伸ばす。冷たい感触に思わず体がビクリと反応した。
彼女は歯を食いしばり、指先を刃に滑らせて切り傷をつけ、指の節を伝って血が流れ落ちた。
その後、両手を合わせて目を閉じ、一心に祈った。
「狐仙様、お願いです……もう一度だけ、健吾さんに会わせてください……」
儀式を終えると、佐藤美咲は制服のスカートから布片をちぎって指を包帯し、再び夜を守り続けた。同時に、狐仙様が自分の願いを叶えてくれるのを待ち続けた。
どれくらい時間が経ったのか――佐藤美咲の瞼はどんどん重くなり、強い眠気に襲われて意識がぼんやりと霞み、半夢半醒の不思議な世界へと吸い込まれていった。
そのとき、彼女は聞き覚えのある足音を聞いた。
ハッと目を見開いて神社の入り口を見る。
すると、僅かに開いていた扉がゆっくりと押し開かれ、外の月明かりの中にぼんやりと浮かぶ人影が一歩一歩踏み入れてきた。
その姿……
見慣れた輪郭、馴染みの服……
やって来たのは、間違いなく健吾だった!
「健吾さん!」
佐藤美咲はすぐに立ち上がり、涙があっという間に視界を覆った。理性などどこかへ吹き飛んでしまい、彼女はすべてを忘れてその人影へと駆け寄り、彼の胸に飛び込んで泣き叫んだ。
「健吾さん……もう二度と会えないと思ってた……」
その抱擁は冷たくても、確かに現実のものだった。
健吾は優しく彼女の背中をさすりながら、穏やかに言った。
「美咲、泣かないで。戻ってきたよ」
美咲は顔を上げ、冷たい彼の頬に触れながら、嗚咽交じりに尋ねた。
「健吾さん、どうやって戻って来たの? あなたは……もう……」
彼女は目の前で彼が砂へと変わり、濃霧の中に消えていくのを見たばかりだ。いま目の前の健吾が幻影ではないかとさえ思えた。
健吾はふっと微笑み、こう言った。
「そうだよ。もうこの世の人間じゃない。君が眠っていた狐仙様を呼び覚ましたんだ。狐仙様は君の真心に感じ入り、私の魂を一時的に戻し、神の力で肉体を蘇らせてくれたんだ」
彼は自分の体を眺めながら続けた。
「ただ、復活して間もないから、体温はまだ完全には戻っていない」
「本当に……?」美咲は驚きと喜びで胸がいっぱいになった。
彼女は後ろの祠にある妖刀に向き直り、心から感謝の気持ちを込めて深々と一礼した。
「狐仙様、ありがとうございます! 私の願いを叶えてくださって、本当にありがとうございました! あなたの恩は、生涯忘れません」
そのとき、健吾が一歩前に出て、荒れ果てた神社の様子と、仄かに光る狐刀を眺めながら、ふと思いついたように提案した。
「美咲、この神社、ずっと放置されてるみたいだね。普段は誰も参拝に来ないから、こんなに荒れ果ててるんだろう」
「僕たちの真心に狐仙様が応えて現れたんだから……せっかくだし、この刀を持って帰ろうか?」
「持って帰るの?」美咲は少し迷った。「でも、ここに祀られている神器なのに……」
「いいんだよ」健吾は諭すように続けた。「この刀をここに置いておけば、ますます埃をかぶるだけだ。持ち帰って毎日香を焚き、大切に供養すれば、むしろ恩義に報いることができるだろう。狐仙様もきっと喜ぶよ」
「健吾さん、どうしたの? なんか話し方が妙だよ」美咲は少し眉をひそめた。健吾は昔から古文なんて大嫌いだったはずなのに、今はなんだかとても丁寧な言い方をしている。
「別に、ここは神様をお祀りしている場所だから、やっぱりちょっと格式高く話すべきだろう?」健吾は笑って美咲を見た。
「そうね。ちゃんと狐仙様にお礼をしなきゃ」佐藤美咲は健吾の真摯な眼差しに心を打たれ、しばらく考えた末、ようやく承諾した。
彼女は祠へと向き直り、狐刀を手に取ろうと腕を伸ばした。
ところが、指先が柄に触れる寸前――
「フッ――」
拝殿のろうそくの火が急激に揺らぎ、まるで陰気な風が室内を渦巻いているかのように明滅した。
狐刀の刃には、一瞬、不気味な青い幽光が立ち上った。
同時に、背後の健吾の姿も不安定になり、今にも消え去りそうな靄へと変わっていった。
異変に気づいた佐藤美咲は、恐ろしさに息を飲んで振り返った。
「健吾さん? どうしたの?」
見ると、健吾の体はどんどん透明になっていき、顔には焦りの色が浮かんでいた。
「健吾さん!」
美咲は叫びながら、健吾の手を握ろうと伸ばした。けれど、彼女の手は健吾の体をすり抜け、冷たい虚無だけを掴んだ。
「やだ……行かないで! お願い!」
健吾は神社の奥の方をじっと見つめ、何かがひそやかに近づいてくるのを感じ取ったようだ。彼の姿は歪み始め、まもなく消え去ろうとしていた。
「美咲……逃げろ……来るぞ!」健吾は完全に消え去る直前、最後の警告を残した。
健吾の姿が跡形もなく消えると同時に、吐き気を催すような生臭い悪臭が再び拝殿中に充満した。空間はぐにゃりと歪み、濃霧が決壊した洪水のようにドアや窓の隙間から一気に流れ込み、神社全体を覆い尽くした。
「あの怪物……やっぱり追いかけて来たの?」美咲は絶望的な思いで思った。
すると、拝殿内の柱が地面に落とす影が、まるで生き物のようにうごめき始めた。やがてそれらの影は一つの方向へと集まり、鋭い牙と爪を持った漆黒の怪物へと姿を変えた!
闇の中から這い出した影の魔物は、立ち上がって甲高い咆哮を響かせ、血に飢えた大きな口を開き、美咲めがけて猛然と襲いかかった。
「きゃあっ!」
佐藤美咲は悲鳴を上げ、とっさに横へと転がった。
ガチャン!
慌てふためいた拍子に、床に置いていた灯油ランプを倒してしまう。ガラスのシェードが割れ、中の灯油が流れ出し、辺りはたちまち灯芯の炎に包まれた。
乾燥した祠の木枠を一瞬で飲み込み、古い梁や柱を伝って火の手は見る見るうちに広がり、神社は「パチパチ」と燃える音とともに、一面の火の海へと変わった。
怪物はもう一度跳びかかり、佐藤美咲をがっちりと押さえ込んだ。
「助けて! 葉山さん! 助けて!」美咲は必死で怪物の顎を両手で押し留め、眠っている雅子に向かって叫んだ。
その騒ぎで、眠っていた葉山雅子が飛び起きた。
「美咲?!」
雅子は目を大きく見開き、目の前の光景に呆然とした。拝殿はすでに一面の火の海で、もうもうと煙が立ち込める中、佐藤美咲が恐ろしい黒い影に押さえ込まれ、今にも耐え切れなくなっている。
雅子は焦りながら助けに行こうとしたが、素手ではあの怪物の相手になるはずもない。
そのとき、彼女の脳裏にキーンと澄んだ鳴き声が響いた。まるで狐の声のようだ。強い直感が走り、彼女は背後の祠に輝く冷たい日本刀へと目を向けた。
火の海の中で、刀は眩い青い光を放ち、炎を遮っている。雅子は瞬間的に悟った。これは狐仙様が自分を導いてくれているのだ。
雅子は一気に刀へと駆け寄り、柄をしっかりと掴んだ。
「狐仙様、失礼します!」
彼女は力を込めて刀を引き抜き、鞘を払うと同時に、刀身から激しい青い光がほとばしり出た。雅子は両手で刀を握り、高く掲げて、美咲を押さえ込む黒い影めがけて豪快に斬り下ろした。
「死ね!」
「ズバッ!」
青い刃は怪物の体を一撃で切り裂いた。
「ギャアアアア!!」
黒い影は凄まじい悲鳴を上げ、実体化していた体は青い狐の火に焼かれて一瞬で崩れ去り、身体は砂へと変わって地面に散った。
「はあっ……はあっ……葉山さん……」煙にまみれた顔で、ようやく身を起こした美咲はまだ動揺が収まっていない。
「早く出よう! ここ、崩れちゃうよ!」
火の勢いはますます増し、梁はもうグラグラと揺れている。
葉山雅子は祠の刀剣袋を手に取り、慣れた手つきで狐刀を納め、手に持った。そして足が震える美咲を支え、急いで拝殿を抜け出した。
神社の門を出た途端、背後の本殿が轟音を立てて梁が崩れ落ち、烈火と濃煙に包まれた神社は一瞬で廃墟へと変わった。




