ドレスアップ
蕭珊雅は島田さんと服部さんに別れの挨拶をすると、依然として街の奥へと歩を進めた。
数分後、彼女はメイド喫茶「Sweet Lily」の裏口に到着した。扉を開けるとそこは従業員専用通路で、狭く薄暗いその先には更衣室が広がっていた。
彼女はドアを押し開け、慣れた手つきで自分のロッカーを見つけた。中には普段仕事で着るメイド服が丁寧に畳まれており、さらにコスプレ用の小道具もいくつか揃えられている。
「Sweet Lily」の大きな特徴は“属性プレイ”で、どのメイドもそれぞれ特定の萌え要素を持つキャラクターを演じなければならない。そして蕭珊雅が割り当てられた役は、田舎から出てきたばかりで少し人見知りな“田舎娘”メイド。この設定は、彼女の日頃の冷ややかで距離感のある雰囲気とどこか妙に合致していて、演じるときにはむしろ自然と体が動いてしまうほどだ。
ちょうど着替えようと準備を始めたその時、背後から優しく耳に心地よい声が聞こえてきた。
「シャオヤ、もう来てくれたの?」
声の主はカフェのオーナー、姫城美月さんだった。彼女は見た目はまだ二十七、八歳くらいにしか見えない、大人の魅力漂う女性だ。
「はい、美月姐さん」
「いつも一番に来るのね、シャオヤ。私があの頃ここでのバイト話なんかをもっと聞きたくて、待ちきれないんじゃない?」と姫城美月さんは言った。
蕭珊雅は何も言わず、ただ黙ってうなずいただけだった。
この「Sweet Lily」というメイド喫茶は、かつて姫玥さんが働いていた場所だ。高校生だった姫玥さんはよくここでアルバイトをしてお小遣いを稼いでいたため、蕭珊雅にとってここには姫玥さんに関する大切な思い出がたくさん詰まっている。
「でも、今はちょっと無理かもね。だって、あなたを待ってる人がいるのよ」
「え? 私を?」蕭珊雅は少し戸惑いながら振り返った。普段特に親しい友達がいるわけでもないのに、誰がわざわざこんなところで自分を待っているというのだろう?
その瞬間、そっと肩を叩く手があった。振り向くと、スタイリッシュなショートヘアの女性が背後に立っていて、顔にはいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「私よ、蕭珊雅ちゃん」そう言って近づいてきたのは、遠山凛のおば、遠山日花さんだった。
喫茶店が本格的にオープンするまでにはまだ少し時間があるため、店内にはほかの客は誰もいなかった。遠山日花さんは蕭珊雅を従業員用の休憩室へと招き入れると、率直に用件を切り出した。
「実はね」と遠山日花さんは蕭珊雅の手を握りながら、真剣な表情で話し始めた。「遠山凛のこと、あなたも知ってるでしょう? 熊本から東京に来て勉強を始めたばかりで、いろんなことがよくわからないみたいなの。あの子は幼い頃に両親を亡くして、私がアメリカで働いていた間は祖母に育てられてきたの。素直だけれどちょっと不器用な子で、一人で都会に出ていると、人の心の複雑さや悪意に気づかずに、ひょっとしたら誰かにいじめられたりしないかって心配なの」
蕭珊雅は黙って話を聞き、口を挟むことはなかった。
「今、私は転勤で日本に戻ってきたけれど、ファッション雑誌の編集長って忙しい仕事だから、本当に目が回るほどで、出張も多いし、いつでも凛のことを面倒見られるわけじゃないの。それに、年上として私が直接いろいろ言うのも、なんだか説教みたいになっちゃって、あんまり聞いてくれないんじゃないかと思うのよね」
遠山日花さんはため息をつき、瞳には姪を思う不安と深い愛情が滲んでいた。
「だから、蕭珊雅――」と彼女は蕭珊雅を見つめて懇願するように言った。「凛と同じ年のあなたに頼みたいの。普段から凛のことをちょっと気にかけて、生活や勉強の様子をよく見てあげてほしいの。もし困ったことがあったり、何か思い詰めそうなことがあったら、すぐに相談に乗ってあげて。それで、今の私の家に住んでる家賃も相殺してもらったらどうかしら?」
蕭珊雅が東京に来たばかりの頃、悪質な大家に騙されて行き場を失ってしまった。そんな途方に暮れていた彼女を救ってくれたのが、姫城美月さんだった。当時、彼女は東京都の街をただひとり、途方に暮れてさまよっていた。夜になっても荷物を引いたまま公園のベンチに座り、うとうとと眠りかけているような姿だった。
そのとき、温かな手が彼女を優しく揺り起こした。通りすがりの姫城美月さんが、迷える少女を見つけたのだ。そのとき、美月さんは蕭珊雅を姫玥さんだと勘違いしてしまい、事情を聞くうちに、彼女を自宅へと招き入れた。翌日には、自分の経営するメイド喫茶で働かせてお金を稼ぎながら、次の住まいを探してもらうことにした。
喫茶店に併設された十畳ほどの古い倉庫を、彼女は一時的な居場所として貸し出した。この倉庫は前のテナントが残していったもので、以前は中古品商売をする夫婦が店ごと借りていて、契約終了とともに立ち退いた際、この倉庫の引き取りについては何も触れられていなかったため、美月さんが引き継いでそのまま残ることになったのだ。
喫茶店は軽食中心のシンプルなスタイルで、在庫管理の負担もほとんどなく、食材は厨房の冷蔵庫に入れておけば十分だった。そのため、本店からほど近いこの倉庫はこれまで一度も使われることなく、ずっと静かに空いたまま放置されていた。
ところが蕭珊雅は当面の間に適切な住まいが見つからず、美月さんは思い切ってこの倉庫を彼女に貸すことにしたのだった。
美月さんが倉庫を片付けていたとき、中に前テナントが残していった多くの物品を見つけた。元々、中古品店を営んでいた夫婦は、高齢の祖父に店や倉庫の見回りを任せていた。年寄りが疲れすぎないようにと、折りたたみ式のベッドやテーブル、椅子などを置いておいたのだ。祖父は疲れたときに茶を淹れて椅子に腰掛け、折りたたみベッドで昼寝もできた。
その後、祖父が高齢のために自宅で安らかに亡くなり、夫婦が店を引き払う際にこれらの家具はそのまま残された。それが今、蕭珊雅の仮住まいの必需品として活躍することになったのだ。
倉庫は決して豪華ではないが、当時の蕭珊雅にとってはまさに天からの恵みで、ようやく路上で野宿せずにぐっすり眠れるようになったのだ。
しかし、幸せもつかの間。喫茶店でのアルバイトにも徐々に慣れ、何とか生計を立てられるようになってきた矢先、思わぬ事故が彼女を再び絶望の淵へと追いやってきた。ある日の帰り道、彼女は高架橋の上で突然現れた泥棒に突き飛ばされ、意識不明のまま橋の下へと落ちてしまったのだ。
病院で目を覚ましたとき、彼女はすでに職場への連絡も遅れ、しかもその倉庫が都市再開発計画によりまもなく取り壊されるという知らせを受けた。再びホームレスの危機に直面したのだ。
絶望の淵に沈んだ彼女を救ったのは、遠山日花さんだった。老友との再会を兼ねて喫茶店を訪れた日花さんは、美月さんから蕭珊雅の悲惨な境遇を聞いた。当時、遠山凛はまだ意識不明で、いつ目を覚ますのか見当もつかない状態だったが、蕭珊雅には一刻も早い居場所が必要だった。そこで日花さんは即座に、凛のために用意していた自宅の一室に蕭珊雅を移らせ、家賃は一切取らないと決めたのだ。その恩義を、蕭珊雅は今もずっと胸に刻んでいる。
今、遠山日花さんの頼みを受けて、蕭珊雅としては当然断るわけにもいかず、彼女はそっとうなずいて答えた。
「はい、わかりました、日花おばさん。遠山さんをしっかり見守るようにします」
「よかった! あなたはやっぱりいい子だわ!」と遠山日花さんは嬉しそうに彼女の手を握り、「じゃあ凛のことはお願いね!」と言った。
遠山日花さんと遠山凛の日常についてさらにもう少し話を交わしたあと、蕭珊雅は従業員用の休憩室へ戻り、レースのフリルや蝶ネクタイがついた可愛らしいメイド服へとさっと着替えた。漆黒の長い髪を太めの三つ編みにして肩に垂らし、小道具箱から雀斑シールを取り出して鼻筋と頬に丁寧に貼り付け、さらに度なしの透明なメガネをかける。
こうしてひと手間加えると、あの冷ややかで孤高な氷の美女・蕭珊雅は消え、代わりに現れたのは、どこか怯え気味で素朴でちょっととぼけた田舎娘メイド・月野兎美の姿だった。
「まあ、こんなに早く着替えてくるなんて、兎美さん!」
同じくカフェで働く少女が入ってきた。白いブラウスに短いスカート、上着を腰に結び、頭にはふたつの短いツインテールを結んだ彼女は鈴木友奈といい、つい最近働き始めたばかりで、今日は初めて蕭珊雅と一緒にシフトに入った。彼女は蕭珊雅に強い興味を持っているようで、変装した彼女を見つけるとぴょんぴょん跳ねながら駆け寄り、くるくると視線を巡らせて観察している。
蕭珊雅はその様子に戸惑い、慌てておずおずと答えた。
「い、いや……そんな風に……見ないで……私を……鈴木さん」
「あら、そういう感じなのね!」
「感じ?」
「私、今、女優でね、あるドラマのオーディションを受けてるんだけど、田舎から都会へ出てきた少女の役を演じたいのに、なかなかイメージがつかなくて。たまたまこのカフェに寄ったら、ちょうど兎美さんに出会っちゃって、もう、まさに理想の参考人物って感じなの!」そう言って鈴木友奈は蕭珊雅の手を取ると、続けた。「だから、このカフェでアルバイトして、ぜひいろいろ学ばせてもらいたいの。よろしくね、兎美さん!」
「よ、よろしく……お願いします」
「早いわね、鈴木さん」と店長の姫城美月さんが入ってきて、新参の少女に声をかけた。
「こんにちは、店長!」
「兎美さんを観察するためにここに来たとはいえ、あなたもちゃんと『鈴木友奈』の役を演じてね」
店長の言うとおり、このカフェでは店長以外は全員が互いに役名で呼び合い、お客さんも本当の名前ではなく、メイドたちの“偽名”しか知らないのだ。
「はい、店長! 役作りもしっかりやってますから、後で私の演技をじっくり見てくださいね!」
「それなら安心ね。私はフロントで開店の準備をしておくから、二人とも準備ができたらフロントに来てちょうだい」
姫城美月さんが去ったあと、鈴木友奈は衣装棚の前に立ち、胸元のボタンを外してメイド服への着替えを始めた。最後のボタンを外した瞬間、彼女のブラウスがさらりと滑り落ち、蕭珊雅はその背中に長い傷跡を見つけた。
「あなた……」
「あっ、見えた? 大丈夫よ、兎美さん。子どもの頃にちょっと転んでしまっただけなの」と鈴木友奈は淡々と語り、ささいな出来事のように受け流したが、声はさっきよりずっと低くなっていた。
ほどなくして鈴木友奈は着替えを終え、頬をパッと叩いて気持ちを引き締め、役に入ろうとした。
そして喉をひとつ鳴らして宣言した。
「妹モード! スタート!」
「彼女、妹の役なのか!」と蕭珊雅は思った。
友奈は一瞬で完全に役に入り込み、たちまち明るく元気な様子に変わり、蕭珊雅の前に歩み寄って、腕をそっと絡め、首をかしげて甘えるように言った。
「兎美お姉さん、今日もナプキンの折り方教えてね~」
蕭珊雅も思わず内心で感嘆した。「さすが女優、役に入るの早いわ」
役に入り込んだ鈴木友奈は、まだぼんやりしている蕭珊雅を見て、勢いよく手を引いた。
「さあ、兎美お姉さん、友奈ちゃんと一緒に最高のおもてなしをしましょう! もうぼんやりしてないで、さあ、一緒にがんばりましょう!」
そして鈴木友奈は蕭珊雅の手首を掴み、更衣室を抜け、フロントへと向かった。




