決意
遠山凛は、人で賑わう街中を歩き続けていた。道には急ぎ足で通り過ぎる人々が多く、遠山凛は行き交う群衆を見つめながら、少し複雑な気持ちを抱えていた。
美空の母が何度も呼びかける声が、今も彼女の耳に響いている。一方、通りすがりの人々の冷たい視線と拒絶の態度が、彼女を心の奥底から痛めつけていた。この世界は、自分が思っていた以上に残酷で冷たいように感じられた。
しかし、もしかしたら人々は真相を知らず、どう助ければいいのか分からなかっただけかもしれない。でも、真実を知っている彼女自身でさえ、結局その真実を口にすることができなかった。それはおそらく、その真実があまりにも残酷すぎて、言葉にできないからだろう。それでも、遠山凛は彼女のために何かできることを願わずにはいられなかった。
突然、空から雨が降り始めた。街の人々は、予想外の雨に慌てふためき、思わず足取りを乱し始めた。
「どうしたの?今日の天気予報では、雨なんて降らないって言ってたのに!」
「早く行こう。駅まで行けば、雨宿りできるよ。」
街の人々の流れは一気に混乱し始め、遠山凛はゆっくりと自分のピンク色の小さな傘を取り出した。いつものように、どんな天候でも備えるために、必要な時に備えて持ってくるのが彼女の習慣だった。
その時、右手の甲にある刻印が突然、何の前触れもなく光り輝き、緑色の光を放ち始めた。そして、それは街路脇の一本の狭い路地へと向かっていった。
遠山凛は路地の方に目をやった。路地はとても深く、刻印の緑色の光は、彼女の手の甲からさらに奥へと進んでいくようだった。わけは分からないが、この光がきっと何かを示しているのだと、彼女は直感的に感じていた。
つい先日、同じ路地で襲われた時のことがまだ鮮明に思い出されていて、遠山凛は未だに路地に対するトラウマ後ストレス症候群を抱えていた。また何か悪いことが起こるのではないかと恐れていた彼女は、路地の入り口をちらりと見た。すると、刻印の光が俄然強くなり、自分の中に強い使命感のようなものが湧き上がってくるのを感じた。左手には小さな傘を持ち、右手は拳を握りしめて胸元に当てると、歯を食いしばり、刻印の導きに従って、勢いよく路地へと飛び込んだ。
路地の中を駆け抜ける遠山凛の姿。道は険しく、雨のおかげで小さな水たまりがいくつもできている。彼女はその水たまりを踏みしめる度に、靴下や靴が泥にまみれ、不快なぬかるみ感が足元から伝わってきた。
だが、そんなことはもうどうでもよかった。とにかく一刻も早く、光が示す場所へ辿り着きたかった。そしてほどなくして、光が指し示す場所に到達した。そこには見覚えのある姿——蕭珊雅が立っていた。
彼女は少し離れた場所に立ち、手に持つ刻印からも淡い光を放っている。彼女もまた、光に導かれてここに来たのだろうか?
蕭珊雅は、近くにいる遠山凛など眼中にない様子で、右手の刻印をじっと見つめていた。すると、刻印の光がさらに強まり、彼女は数歩前に進んだ。すると、刻印の光は一層激しくなり、まるで何かを告げるかのように。
「……ここらしいわね」と蕭珊雅は静かに呟くと、そのまま刻印を持つ手を差し伸べた。すると、その刻印から空間の裂け目が広がり、蕭珊雅はその裂け目に身を投げ入れた。
遠山凛はそれを目撃すると、すぐに蕭珊雅が消えた場所へ駆け寄った。そして、自分もまた蕭珊雅と同じように右手を掲げ、刻印から光が放たれて空間の裂け目を開く。遠山凛はその裂け目の中を覗き込み、漆黒の闇が広がっているのが見えたが、状況ははっきりとは分からない。
しばらく迷った末、彼女は思い切って後ろに数歩下がり、一気にその裂け目に飛び込んだ。裂け目は瞬く間に閉じてしまい、二人の少女の姿は雨の降る路地の中で消えてしまった。
目の前の景色は、一瞬にして変化した。もはや狭くて汚い路地ではなく、街中のどこかに移動していたのだ。しかし、その雰囲気は奇妙なほど静かで、むしろ不気味ささえ漂っていた。
遠山凛には、ここが蕭珊雅が言う「虚界」なのだと直感的に分かった。しかし、すでに彼女たちは「虚界の少女」ではないはずなのに、なぜこんな場所に入ることができたのだろう?きっと、手の甲にある刻印が関係しているのだろう。遠山凛は改めて刻印に目をやり、そこからは淡く青白い光が放たれているのを確認した。
「蕭珊雅さん……どこにいるの?」と遠山凛は周囲を見渡したが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
「助けてー!」突然、すぐ近くから助けを求める叫び声が聞こえた。声のする方へ目を向けると、全身が真っ白で、耳まで裂けた口元からは鋭い牙がのぞき、背中には八本の触手が生えた、異様な姿をした女性型の怪物が、驚愕した人々に迫りつつあった。
それはまさに「蝕刻の娘」だったが、以前遠山凛が遭遇したものとは少し違っていた。彼女の体は鋭いトゲの鎧で覆われ、胸元には不気味な血赤色の宝石が輝いている。
襲われていたのは一家三人家族で、夫は苦しそうに胸を押さえ、妻は彼を支えながら少しずつ後退していた。一方、妻の右手には幼い子供がしっかりと握られていた。蝕刻の娘は徐々に彼らに迫りつつあり、まさに今、その触手が妻の胸を貫こうとしていた。
遠山凛は我慢できずに走り出した。蝕刻の娘の触手は既に鋭いトゲとなり、妻の胸を刺そうとしていたのだ。
「やめろ!」
遠山凛が怒鳴ったが、時すでに遅く、蝕刻の姬の鋭い棘はすでに女性の胸元へと迫っていた。
「カチリ。」
胸を貫く音は聞こえなかった。代わりに、何かが折れる音が響いたのだ。それは蕭珊雅だった。彼女はいつの間にか現場に駆けつけ、すばやく蝕刻の姬の触手状の棘を打ち砕いていたのだった。
続いて彼女はさらに氷弾数発を放ち、蝕刻の姬の体に命中させた。手の甲にある元素の紋章が青く輝き、その力が蕭珊雅に氷の力を与えているようだった。
蝕刻の姬は、目の前の少女を倒さなければ、正常に人間たちを狩り続けることができないことを悟ったのか、一陣の咆哮とともに蕭珊雅の方へと突進してきた。蕭珊雅は身を翻して娘の攻撃を避け、逆に自身の元素の力で反撃を加えた。
その隙をついて、遠山凛は一家三名の前に駆け寄り、妻の右手側に立つ小さな女の子の手を取った。これにより妻の右手が自由になったため、彼女はすぐに傷ついた男性を両手で支えた。
「こちらへどうぞ!」
遠山凛は一家三名を一本の木の下へ誘導し、男性はそのまま横たわった。彼は激しい痛みに耐えながら胸元を押さえ、次第に顔を歪ませていく。
自分自身がただの足手まといになっていると感じたのか、男性は妻に向かって言った。
「もういいから、お前たちは早く逃げてくれ。私なんか、ここに残っていても迷惑になるだけだ。」
しかし妻は答えず、ただ頑なに首を横に振った。
「一体、彼はどうしたんですか?」と遠山凛が尋ねると、妻は静かに答えた。
「私たち家族三人が、うっかりこの奇妙な場所に引き込まれてしまったんです。そして直後にあの恐ろしい怪物に出くわしてしまいました。夫は私たちを守ろうとして、あんな怪物に胸を貫かれてしまったんです……。」
「まずは服を脱がせて、怪我の状況を確認しましょう。それから傷口を消毒してあげてください。」
遠山凛はポケットから消毒用のティッシュを取り出し、妻に差し出した。
妻は言われるままに夫の衣服を解き、そこには黒々とした大きな穴が開いていた。見るからにひどく、恐怖すら覚えるような光景だった。
「ぐっ!あぁ……!」
夫の顔色はますます青ざめ、妻の心は恐怖でいっぱいだったが、それでも必死に濡れたティッシュを夫の胸の傷口に当てようとした。
しかし、夫は決然と妻の助けを拒んだ。最後の力を振り絞り、ぎゅっと妻の手を握りしめ、何かを伝えようとしたが、激痛のあまり声は途切れ、喉の中で震え続けた。
彼には確かに、言葉にしたいことが山ほどあったはずだった。しかし、もはや時間は許されず、短くでも自分の想いを伝えなければならなかった。
「また……さよなら……理恵……秋子のこと……しっかり……見て……くれ……」
震える唇から零れ落ちた最後の言葉。その瞬間、夫の手はみるみる砂に変わり始めた。次いで足や身体全体が砂へと変貌し、ついには全身が崩れ落ちようとしていた。それでも、彼の視線だけはなおも妻を見つめ続けていた——まるで妻の顔を心に刻み込もうとするかのように。
しかし、砂化のスピードは一向に緩むことなく、あっという間に夫の首筋まで広がった。彼の唇はわずかに震え、最後の別れの言葉を吐こうとしたが、すでに声帯は失われていたため、その二つの文字は唇の形のまま、妻の耳には届かなかった。
瞬く間に、先ほどまで生きていたはずの夫は、地面の上の細かな砂へと姿を変えてしまった。
妻は、この残酷な現実を受け入れることができなかった。彼女は無造作に地面の砂粒をつかみ、なんとか夫の身体を再びつなぎ合わせようと試みた。
しかし、やがてそれがすべて無駄であることに気づく。夫はもう二度と戻ってくることはなく、ただ強く抱きしめた子どもの存在だけが、彼女の悲しみを深めるばかりだった。
子どもはまだ幼く、死という概念を理解していなかった。ただじっと立ち尽くし、母親が自分を抱きしめて泣いているのを、ただ見つめているだけだった。
その光景を目の当たりにした遠山凛は、複雑な思いで胸が締めつけられた。思わず涙がこぼれ落ち、同時に拳を強く握りしめた。
涙は、この一家三名の運命に胸を打たれた哀れみの涙だった。献身的な妻が愛する夫を失い、可愛らしい子どもが頼りだった父親を永遠に失った——美しく幸せだったはずの家庭が、一瞬にして崩れ去ってしまったことに、ただただ無力感を覚えたからだった。
「絶対に!許せない!」
彼女は蝕刻の姬と呼ばれる怪物を見つめ、その目にはまるで炎が燃えているようだった。まさにこの怪物が、あの三人家族の幸せな未来を奪ったのだ。自分は決して許さない!
遠くでは、シャオ・シャンヤが蝕刻の姬と激しく戦っていた。彼女は蝕刻の姬の八本の触手を一気に切り落とし、今まさに光束砲を溜めて、その怪物の命運を閉じようとしていた。
しかし、その瞬間、蝕刻の姬の触手が突然再生し、シャオ・シャンヤをがっちりと締め付けた。実は、彼女がわざと自分の触手を切らせ、自らの再生能力を隠していたのだ。そして、シャオ・シャンヤがついに勝機を捉え、一気に仕留めようとした瞬間、不意打ちを仕掛けてきたのだった。
これまで遭遇した蝕刻の姬とは比べ物にならないほど知能が高く、触手の力も次第に強まり、今にもシャオ・シャンヤを圧倒しようとしていた。
激しい締め付けに耐えきれず、シャオ・シャンヤは口元から血を滲ませながら、苦痛に呻いた。
「ぐっ……!」
彼女はうめき声を上げ、顔中に苦しげな表情を浮かべた。そのとき、額の中央にある色鮮やかな印が、脈動を繰り返しているのが目に映った。
蝕刻の姬はそれに気づくと、一本の触手を鋭い棘へと変化させ、今まさにシャオ・シャンヤを刺そうとしていた。
「助けなければ……!」
敗北寸前のシャオ・シャンヤを見つめ、遠山凛は焦燥感に駆られた。彼女にはもう一つの力が必要だった。それは、シャオ・シャンヤを危機から救い出し、人々の幸せを奪うこの怪物たちと戦えるだけの強さだ!
そのとき、手の甲にある刻印が突如、強い光を放ち始めた。まるで遠山凛の願いを感知したかのように——。彼女は手の甲の刻印を見つめ、何か悟ったように目を細めた。
「あなたが私をここへ導いてくれたのね。きっと、何か大切な役割を果たすために……。私は、困っている人たちを助けるために、この力を貸してください!どうか、彼らを守る力を与えてください!」
遠山凛は刻印に向かって、自身の決意と祈りを込めて誓った。
涙を拭い去り、彼女は心に決めた。涙だけでは明日を創れない。明日を切り開くのは、内なる勇気と、現実を変えようとする強い決意だと。
すると、手の甲の刻印が今までにないほど鮮やかな輝きを放ち、一筋の光弾が迸った。それが正確に、今まさにシャオ・シャンヤを刺そうとしていた触手を貫いたのだ。
辛うじて致命的な一撃を避けたシャオ・シャンヤだったが、あまりの衝撃に再び意識を失い、その場に崩れ落ちてしまった。
蝕刻の姬は、突然の攻撃に激昂した。恐怖の巨口を遠山凛に向けて、耳を劈くような咆哮を響かせると、そのままシャオ・シャンヤを残して奇妙な足取りでゆっくりと彼女へと迫り出した。
手の甲の刻印はさらに強い光を放ち、その純粋で清廉な輝きが、蝕刻の姬に自然な抑止力を与えたかのように、後退りながら苦しげな悲鳴を上げた。
だが、一瞬の閃光が過ぎ去った後、遠山凛が目を開けたとき、何事も起こっていないことに気づいた。
「一体、どういうこと?なぜ何も起きなかったの……?」
遠山凛は困惑しながら、胸の中で問い続けた。
一方、その様子を見ていた蝕刻の姬は、先ほどの攻撃が単なる死に際のあがきにすぎないと判断し、再び鋭い咆哮を響かせて嘲笑い始めた。
「なぜだ……なぜ私の願いに応えてくれないんだ!」
すでに遠山凛を仕留めようと、二本の触手を勢いよく振り下ろそうとしていたその時——。突然、天から降り注いだ聖なる光が、飛んできた触手を断ち切った。その衝撃で傷ついた蝕刻の姬は、痛みに耐え切れず、悲痛な叫びを上げた。
それでもなお、再生能力を使って傷ついた触手を修復しようとしたが、なぜか完全には回復できなかった。
やがて虚界の空に静かに裂け目が広がり、そこから一振りの剣が舞い降りてきた。鋭い刀身が静寂を切り裂き、音もなく大地へと突き刺さった。その護手の中心には、一つの隻眼が埋め込まれていた。少し異様な印象を与えるものの、全体的に見る限り、古風でありながらも雅やかな雰囲気が漂う美しい剣だった。
その隻眼が突然、目覚めたかのように遠山凛を見つめ、彼女に戦い続けるべき使命を与えているかのようだった。遠山凛は剣を握りしめ、孤独ながらも恐るべき怪物に立ち向かった。
これ以上、同じ悲劇を繰り返させないために——彼女は戦い続けなければならないのだった。




