「お前は既に四回死んでいる」と氷の皇帝が私を脅してくる
大陸一の領土を誇る西大帝国の皇帝は、周辺諸国の王女達から密かにこう呼ばれていた。
「大陸一、結婚相手にしたくない君主」と。
もっとも、皇帝は大変な美丈夫だ。
輝く黄金の髪にエメラルドのような瞳。
非の打ち所がない立派な体格。
発する声もオペラ歌手の渾身のバリトンのごとく甘さのある重低音で、彼は完璧な美を備えている。
その上、皇帝は氷の魔力にも恵まれていた。彼はひと睨みするだけで一瞬にして、睨んだものを氷漬けにできるのだという。
だがそんな神の贔屓を一身に受けたような皇帝にも、ぬぐいがたい欠点があった。
西大帝国の皇帝は、代々「呪われてるんじゃないか」と思えるほどに、異様に早死にだったのだ。
先代の皇帝は50歳で、先先代は40歳で、その前は36歳で亡くなっていた。
そう、圧倒的な軍事力と経済政策で瞬く間に大陸一の領土と富を得た西大帝国だったが、皇帝が短命なことから周辺王家からは結婚相手として敬遠されがちだった。
だがセルパ王国のウジェニー王女は、今日不運にもその皇帝の妃となった。そして今まさにこの瞬間、なぜ彼が嫁ぎ先として不人気なのか、新たにもう一つ理由がわかった気がした。
豪華な結婚式が終わり、初夜を迎えて緊張でいっぱいのウジェニーが待つ寝室に登場するなり、皇帝はこう言い放ったのだ。
「お前はすでに、四回死んでいる」と。
何を言っているのだろう、とウジェニーが硬まる。
ウジェニーは広い寝台に腰掛けたまま、頭をフル回転させて皇帝のトンチキな発言の意図を探ろうとした。
皇帝流の冗談だろうか。でも正直面白くないし、彼の目は怖いくらい真剣だ。
「ええと、僭越ながら……死んだ覚えはございませんが……」
「だろうな。お前が理解できるとは思っていない。だが俺たちが会うのはこれで五回目で、すでに五回結婚している」
「それはどういうことでございましょうか。――私はこれが初婚なのですが」
「今度こそ勝手に死なれては困る」
聞いちゃいない。
ウジェニーは「困ったわ。この皇帝、見た目だけはすごく素敵なのに、頭の中が本格的にイカれてらっしゃるんだわ。だから各国の王女達が避けていたのね」と思いつつ、真剣に話を聞くふりを続ける。
「俺も勇気を出して今、お前に真実を伝えている。たとえ新婚早々に『頭のおかしい男』だと思われようと、こうしてお前に忠告しているんだ」
(あら、発言がおかしい自覚はあるのね……)
「すぐ妃に死なれるのは、もう真っ平だ。この俺が言うのもなんだが、お前は毎回早死にしすぎだろ」
「すみません」と一応謝ってみるが、なんの謝罪なのかウジェニー自身もわからない。
初夜を迎え、皇帝を寝室で待つ間にこれ以上はないというくらいドキドキしていた。でも今は「まずいわ。西大帝国の皇帝は優秀で頭の切れる方だと聞いていたけれど、頭の中身もキレてしまわれてるなんて」と、別のドキドキで胸が苦しくなっている。
ウジェニーは一言で言えば、とんだハズレくじを引いた思いだった。
皇帝が無駄に美しい顔を傲岸にそらし、両手を腰に当ててウジェニーに命じる。
「いいか、ウジェニー。今回はなんとしても生き延びてみせろ」
「は、はぁ」
皇帝は寝室の柱時計を一瞥すると「よし、十一時を過ぎたな」と呟き、大きく頷いた。
「一度目のお前は丁度この時間に五階の寝室の窓から飛び降りて死んだ。よかったな、今回は生き延びたぞ。褒めてつかわす」
「お褒めに預かり恐縮です」
「今度こそ絶対死ぬなよ。死んだら、殺してやる」
(な、なんていう脅迫なの……)
相槌の気力がない。突っ込みどころが多すぎる。
「言っておくが、三階以上には行くな。一度目のお前は五階から飛び降りて、人生という舞台からも飛び降りた。あと、毒見の済んでいないものは口にするな。覚えていないだろうが、二度目のお前は庭園の立食パーティーでフルーツポンチを食べて噴水のように血を吐いたんだ。庭園の湖に近寄るのも禁ずる。三度目はそこで溺れ死んだからな。――念の為、この三つの禁止事項を復唱してみせろ」
四度目の話はなぜ省くのだろう、と疑問に思いってウジェニーがつい首を傾げる。とはいえ下手に反抗して、睨まれて氷漬けにはされたくないので、従順に指示に従う。
「三階以上には行かず、毒見の済んでないものは口にしません。庭園の湖には近寄りません」
「よし、では今夜は眠らせないからな。覚悟してくれ」
いよいよ新婚夫婦がするべきことをするのだろう、とウジェニーは皇帝に身を捧げる覚悟を決めた。だがその後の展開は、彼女の想像を超えていた。
翌朝、レースのカーテン越しに差し込む朝日を浴びてウジェニーは一瞬で目を覚ました。
(しまったわ! 私ったらいつの間に寝てしまったのかしら⁉︎)
昨夜、皇帝は寝台に座ると彼女の「すぐ死んだ今までの人生」について詳細に語り始めた。初めは懸命に真面目に耳を傾けていたウジェニーだったが、途中で抗い難い睡魔に襲われ、聞きながら寝てしまったのだ。
「おい、まさか寝ようとしてるのか?」「嘘だろ、これ初夜だぞ」と呆れた皇帝の呟きを最後に、記憶がない。寝てはならない、起きなければと思いつつも、意識が昏倒していくような凄まじい眠気に勝てなかった。
恐る恐る寝返りを打って周りの様子を窺う。
「誰も……いない?」
ウジェニーはそろそろと上半身を起こした。皇帝はもう出て行った後らしく、寝室には自分しかいない。柱時計の針は七時半を指している。
(お城の人たちに、寝坊助の妃だなんて思われたくないわ。早く起きて朝の支度をしなくちゃ……)
寝台の脇机には侍女を呼ぶためのベルがある。セルパから連れてきた侍女を呼ぶため、急いで手を伸ばしてベルを振る。
チリンチリン、と涼やかな金属音が鳴るなり、扉が開いて寝室に現れたのはまさかの人物だった。
「呼んだか?」
「皇帝を呼んだつもりはない」という言葉を必死に呑み込み、ウジェニーは寝台を降りて膝を折り、頭を下げて朝の挨拶をする。
「陛下、おはようございます。――そ、その……昨夜は大変失礼いたしました。陛下のお話の途中で不覚にも寝てしまうなど……。あの、ところでセルパから一緒にきた私の侍女のライラは、廊下におりませんでしたか?」
「ああ、あの黒髪の侍女なら国に帰したぞ。不穏分子は早めに除去するのが一番だからな。今ごろ丁度帝都を出ているところだろう」
(えっ? なになに? 帰したですって? 私に唯一ついてきてくれたライラを、わたしに無断で?)
ウジェニーはセルパの王宮で厄介ものとして育った。正妃の唯一の王女だったが、母を早くに亡くした。物心ついた頃には国王と後妻の妃、そして彼らの間に生まれた王太子の間には仲睦まじい三人家族の絆ができており、ウジェニーは完全に邪魔な存在だった。
国王と後妻に忖度したのか、女官や侍女たちは皆、ウジェニーに冷たかった。そんな中、二年もウジェニーの侍女として勤め続けてくれて、しかもウジェニーとおしゃべりをしてくれるのは、ライラだけだった。だから今回、ライラが一緒に来てくれたことにとても感謝していたのだ。
「ライラは西大帝国まで唯一ついてきてくれた、大切な同郷の存在です。どうかお考え直しいただけませんか?」
「初夜を迎える花嫁に睡眠薬を盛る侍女は、本当に大切な存在か? その認識は改めた方がお前の生存確率を高めるぞ」
「えっ? 睡眠薬……?」
ウジェニーは自分の頭を抱えた。睡眠薬とライラが彼女の中でつながらない。だが昨夜の急で猛烈な眠気は、たしかに異常だった。
思い返せば、皇帝がやってくる直前にウジェニーに「緊張をほぐすワイン」を差し出したのは、ライラだ。
混乱するウジェニーを尻目に、皇帝が言う。
「危険分子をひとつ俺が取り除いたとはいえ、まだ油断するなよ。侍女など、どうせ単なる伏兵に過ぎない。金を握らせでもした黒幕が、いるはずだからな。俺達が一番警戒しなければならんのは、その黒幕だ。――聞いてるか?」
「まさか、ライラが……。でも私、頭のネジが飛んでらっしゃる陛下と、二年も私に仕えてくれたライラのどちらを信じるべきなの? ああ、まさかあのライラが!」
「うろたえすぎて、思考が声に出てしまってるぞ。無礼すぎて訂正する気にもならん」
こうして誰が敵なのか味方なのか分からない中、ウジェニーの新生活が始まった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
皇帝の命令は絶対だった。
三階以上へ上がる階段の前には衛兵が配置され、ウジェニーは通れなかった。
そして予想外なことに、皇帝はどこに行くにもついてきた。
謁見や視察の時は当然として、空いた時間に庭園を散歩するときも、果ては図書室に本を取りに行くときですら、彼はウジェニーについてきた。
皇帝の単独公務が長引いた時に、たまには一人ででかけたいウジェニーがこれ幸いと宮殿内の散歩に出掛けてみれば、なんと皇帝は汗だくで彼女を追いかけてきた。
「どこにいくんだ? 今日の予定表に載っていなかったぞ」
「たまには予定を変えることもございますわ。城内を散歩しておりますの。大き過ぎてどこに何があるのか、全然覚えられませんので。陛下こそ、先ほどまで大臣と会議中だったはずでは……」
「俺と離れるんじゃない。何しろ我が宮殿は、広大だ。いくら女官と一緒でも、迷う時はあるだろ。三回目のお前は嫁いで五日後に湖に沈んでいたんだ」
皇帝は終始こんな調子だった。
いつも見張られているようで嫌になったウジェニーは、ある時早めに朝食を済ませて皇帝を置いて宮殿の外に買い物に出かけようとした。侍女もいるし、衛兵だっている。何も危険はない。
だが皇帝はパンを口にくわえたまま、ウジェニーを追いかけて彼女の買い物に合流した。
ここまでくると、流石にウジェニーもなんだか皇帝が気の毒になって、勝手に行動するのは諦めた。
一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、ウジェニーには皇帝の口癖が分かってきた。彼はすぐに「退屈だ」と言うのだ。
そして同時に、やはり噂通り皇帝が非常に有能な男だともわかった。
会議では気だるそうに皆の話を聞いていると思いきや、最後に的を射たことを言う。反抗的な王国に対しては、先回りして反乱軍を討伐する。経済政策は専門家よりも的確で、他国の企業であれ倒産をピタリと当てた。
(もしかして。やっぱりこれは、ご自身が未来を知っているからなのかしら? 本当に四回も未来を経験してきたのかしら?)
だとすれば合点がいくし、皇帝の口癖も説明がつく。五回も同じ人生を繰り返していれば、何事も退屈で仕方ないだろう。
ウジェニーは半信半疑ながら、皇帝の言うことが事実かもしれない、と受け止めはじめていた。
ウジェニーは妃として宮殿内での人間関係も深めていった。
お茶会を通して西大帝国の貴婦人たちの友人も徐々に増やしていく。
とりわけウジェニーに親切で気が合ったのは、皇帝の従姉妹のユリアだった。
ユリアは月の女神のような銀色の髪をしていて、一緒にいるだけでうっとりしてしまうような美しさだった。
人参のような赤毛に鉄のような灰色の目にコンプレックスを持っていたウジェニーは、ユリアと話していると前向きな気分が伝染して、自信を持てる気がした。
意外なことに、皇帝の弟は気さくで良い人だった。
皇帝の母の誕生パーティーで皇弟のジュリアンと楽しく歓談した日の夜。
ウジェニーは皇帝と二人で夕食を食べながら、思わず感想を漏らした。
「不思議ですわ。陛下とお顔の作りは似てらっしゃるのに、言動がまるで違うからか、ジュリアン殿下と陛下がご兄弟だというのがいまだに信じられません」
「おお、そうか。ジュリアンはどんな奴に見えるんだ?」
「ジュリアン殿下はお優しくて、春の日のようにあたたかな男性に見えます」
分厚いステーキにザクッとナイフを入れながら、皇帝は美しく微笑んだ。
「なるほどな。つまり俺は意地悪で、冬の夜のように冷たい男に見える、ということか」
己の失言にウジェニーが蒼白になる。場の空気が氷点下に落ち込み、皇帝がひと睨みしたからか、彼女が飲んでいたシチューが一瞬で凍りつく。
(なんて魔力なの。この人、本当に人間?)
スプーンが刺さったままのシチューの皿をゆっくりとテーブルの隅に追いやってから、ウジェニーは小動物のように震えながら引き攣る笑顔を浮かべる。
「滅相もありません。――いえ、最初は陛下のことを……本当は少し怖い方だと思いましたけれど。でも今はちょっぴり思い直しまして、いつも私を気にかけてくださる方なんだと思っています」
皇帝のナイフが止まり、続きを促すかのようにエメラルドの瞳がひたとウジェニーに向けられる。
「それで?」
「そうですね、最初は頭のおかし……ゴホッ、いえ、一風変わった方だと思いましたけれど、今はお茶目な方なんだと思いこむようにして……じゃなくて、思っておりますの」
「ふん。必死に取り繕っても、遅いぞ。せいぜい最善を尽くして生き延びるんだな」
不機嫌そうに鼻をフンと鳴らした皇帝だったが、口角が少しだけ上がり、どこか嬉しそうだった。
ウジェニーはバカ正直なほど、素直で嘘がつけない女だと彼は知っている。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
結婚して一月が経つ頃。
皇帝はウジェニーに指輪を贈った。
彼女の髪の色に合うように、ルビーの指輪を。
皇帝は玉座にふんぞり返り、長い足を組んで傲慢そうに髪をかきあげつつ、言った。
「今回のお前は新記録を達成したぞ。三回目までのお前は、いつも一月以内に死んだからな」
もはやこの種の発言に動揺するウジェニーではない。むしろ最近では、皇帝は四回目の死についてだけ、なぜ頑なに話そうとしないのかが気になって仕方がない。
彼女はビロード張りの箱の中の指輪を、目を輝かせて見つめた。
「私の髪の色にそろえてくださったなんて、私のためだけの指輪という気がして、光栄ですわ。結婚式以外で指輪を人からプレゼントされるのは、初めてですもの。嬉しいです……」
照れているのか、皇帝は首の後ろをかいて目を彷徨わせた。
(本当に綺麗な指輪だわ。ずっと眺めていたいくらい。不出来な私に、どうしてこんなに素敵なものをくださるのかしら?)
ウジェニーは皇帝が自分をどう思っているのか、分からなかった。四回も結婚生活で早くに死に別れたのなら、皇帝は今回の人生では妃として別の女性を選べばよかった気もする。でも、彼はそうしなかった。
ウジェニーはなぜ皇帝が五回目の人生でもまた自分を選んだのか、気になった。
そしてもしかしたら皇帝は「ウジェニー」以外の女性とは結婚するつもりがないのかもしれない、と考えた。
というのも、皇帝は出会った日から理解しがたい点ばかりではあったものの、夜は情熱的だった。少なくとも寝台でウジェニーを見つめる彼の目は、ひと睨みで凍らせるどころか、ウジェニーが溶けてしまいそうなほど、深い愛情を感じたのだ。
(今の私に皇帝がこんなに想いを寄せるはずがないわ。身に覚えがない愛情は、きっと四回目までのウジェニーとの間に芽生えたものよね……)
三回目までは超特急で死んだらしいので、愛を二人が育んだとすれば四回目だろう。
皇帝はきっと四回目のウジェニーと、それなりに仲むつまじくしていたに違いない。
ウジェニーの胸がチクリと痛む。
(嫌だわ。やっぱりちょっと悔しい。私ったら、四回目の自分とやらにやきもちを焼いているなんて……)
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どこに行くにも二人でいた皇帝夫妻だったが、結婚して二月が過ぎたある日。
初めて皇帝が激怒してウジェニーを怒鳴りつけた。
皇帝に黙って町中に出掛け、宝石店にいるところを皇帝の命令を受けた衛兵たちに連れ戻されたのだ。
一緒に出掛けていたユリア共々、ウジェニーは執務室で震え上がった。
「勝手に宮殿の外にウジェニーと出かけるとは。皇帝の妃を単身連れ出すなど、どんな了見だ!」
「申し訳ございません。全て私の責任です。我が国をもっとお見せしたくて、お忍びの外出を計画してしまいました」
皇帝も子どもの頃から親しいユリアをそれ以上詰問するつもりはないのか、ウジェニーに矛先を向ける。
「お前は死にたいのか!」
まさか、五回も死ぬつもりはないと言いたいが、皇帝とウジェニーは二人きりの時にしかこの話題を出さないようにしているので、ただひたすら首を横にふる。
黙っていると皇帝が余計に怒りを募らせると察したユリアが、胸に手を当て頭を下げる。
「お妃様に外出を提案したのは私です。お怒りはどうか私にだけお向けください」
ユリアは嘘をついていた。そしてそれがわかるのは、ウジェニーだけだ。黙っていたら一生後悔すると思った彼女は、ユリアを庇うように立ちはだかり、事実を話す。
「ユリアは私を庇ってくれているだけなのです。本当は私が外に出かけたいと彼女にお願いしました」
「なぜだ!」
鼓膜が震えるほどの低音で尋ねる皇帝の怒りが恐ろしく、ウジェニーは肩をすぼめてできるだけ小さくなって答えた。
「陛下に、ブローチを買いたかったのです……。私に指輪をくださったお礼がしたくて……。おそろいのルビーのものを」
皇帝は絶句した。そしてひとこと、こう言った。
「もういい。大きな声を出して悪かった」
急にしゅんとして大人しくなった皇帝を前に、ウジェニーとユリアはやや困惑して顔を見合わせた。
ウジェニーの足が震えていることに気づいたユリアが彼女をなだめるように、腕をそっと撫でる。
皇帝が玉座に深くもたれ、肘掛けに肘をついて額を支える。俯く皇帝がこの時ユリアの様子をじっと観察していることには、誰も気づかなかった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
西大帝国の皇帝が結婚して、五ヶ月目。
二人は天から最高の贈りものを授かった。
ウジェニーのお腹に新しい命が宿ったのだ。
皇帝はウジェニーが妊娠を教えると、ソファーに座る彼女の前に静かに膝をつき、膝の上に重ねられた手をそっと握った。
ウジェニーが意外に感じたことに、皇帝の反応はとても静かで厳粛だった。
皇帝がウジェニーの手の甲に唇を寄せ、つぶやく。
「ありがとう、ウジェニー。俺達の子どもが生まれるのが、とても嬉しい」
「私もとても嬉しいですわ。健康で元気な赤ちゃんを産めるように、頑張ります」
ピクリ、と皇帝の頬が引き攣る。彼は薄い唇を引き結び、無言でウジェニーの腰に両腕を回して彼女を抱き寄せた。
「子どもの名前を考えなければなりませんね。気が早いかもしれませんけれど」
「――ルイだ」
「はい?」
「俺たちの子は、ルイにしよう」
なぜ即答できるのだろう。それにルイは男の子の名前だ。
性別もわからないのに具体的な名前を皇帝が挙げたことに、ウジェニーは違和感を覚えた。
「良い名前ですわね。私もルイという名前が好きですわ」
もしかしたら、皇帝にはルイという子がいたのかもしれない。ウジェニーが教えてもらっていない、四度目の人生で。
けれど皇帝が静かな喜びと同時に、どこか怯えてみえるのはなぜなのか。
皇帝が首を伸ばし、まだ平らなウジェニーのお腹に顔を近づけて、優しくキスをする。
「ウジェニーと小さなルイ。――今度こそ、お前達を死なせはしない……」
(ああ、死んだのね……。四回目の私は皇帝との間に皇子を産んだんだわ。けれど、きっと私と皇子はまもなく一緒に死んでしまった)
皇帝がかつてライラに黒幕がいる、と言ったからには四回にわたったウジェニーの死は、実際のところ事故ではなく他殺だったのだろう。そして皇帝はなんとかして、ウジェニーとルイを今世では守ろうとしている。
今皇帝が必死に抱きしめている妃と子は、かつて彼の腕の中から脆くもすり抜けていってしまった。
ウジェニーはパンをくわえたまま自分を追いかけてきた皇帝の姿を思い出した。あまりに滑稽で、せっかくの美貌が台無しだった。だが彼は間違いなく、あの時真剣だったのだ。
ずっと謎だった四回目のウジェニーの死は、皇帝にとって語ることもできないほど、悲しい出来事だったのかもしれない。
「陛下。私を守ろうとしてくださって、ありがとうございます」
「礼を言うくらいなら、今度こそ死ぬな。本当に、俺をおいていったら許さんぞ」
強気な発言内容のわりに、皇帝の声は震えている。
ウジェニーは微かに震えている皇帝の長い腕に視線を向けながら、彼の肩に手をそっとのせた。
愛されている。自分は間違いなく、この男に愛されているのだと感じられた。
そしてウジェニーもそんな真っ直ぐな皇帝を愛しいと思い、彼の金色の頭に優しくキスをした。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
庭園の木々が赤く色づき、頬を撫でる風が日ごとに冷たくなっていく。
季節は秋を迎えていた。
西大帝国の皇帝は誕生日を迎え、宮殿で盛大なパーティーが開かれた。
謁見の間には各王国から王族が駆けつけ、皇帝に挨拶をするために列を成す。大広間には華やかに正装した王侯貴族が集い、西大帝国の明るく希望に満ちた未来について歓談する。
庭園の木々はリボンで飾られ、温室で栽培された大輪の花々がこの日のためにわざわざ花壇に植えられており、この世の花を全て集めたかのように彩りに溢れていた。
「あまりにたくさんの人達が宮殿に来ていて、さすがに人酔いしてしまうわね。陛下は今お召し替え中だから、その間だけでも人の少ない所で休みたいわ」
ウジェニーは侍女と庭園を散策した。そして時折吹き付ける冷たい風に、眉根を寄せる。
「思ったより寒いわね。ここで待っているから、ストールを取ってきてくれるかしら?」
妊娠中の妃が体を冷やしては一大事だ。「かしこまりました」と丁重に頭を下げるなり、侍女が建物の中に駆け戻っていく。
(やっと久しぶりに一人になれたわ。――さぁ、来るなら来なさい。今世で最大のチャンスを与えてあげる)
木々の間に侍女の後ろ姿が見えなくなるまで立っていたウジェニーは、すぐにその場を離れてぐんぐんと奥へ進む。
庭園の奥は花々が絶え、飾り付けのない木々ばかりになり、パーティーの喧騒が嘘のような静寂に包まれている。
カサッと音を立ててウジェニーの靴の下で落ち葉が潰れる。
まだそれほどお腹は出てきていないが、ウジェニーはヒールのない平たい靴底の靴を履いて、安全に注意を払っている。
一定の間隔で設置されたランプの根本でリンドウが花を咲かせていることに気付き、ウジェニーは屈んでその可愛らしい白い花を見つめた。
「可憐で清楚な、まるで貴女のような花ですね」
物音ひとつ立てず、ウジェニーの背後にある人物が現れる。
ウジェニーは予想でもしていたのか、微笑を浮かべてゆっくりと後ろを振り返った。
純白のジャケットに身を包んだ、皇弟のジュリアンがそこにはいた。
「大広間を出て行かれるのを拝見して、こちらまで追いかけてきてしまいました。実はお義姉様に差し上げたいものがありまして」
ジュリアンは両手に持っている赤いラッピングのされた箱を差し出す。
「ご懐妊、おめでとうございます。お好みに合うかわかりませんが、ベビー服をプレゼントさせてください」
「まぁ、ありがとうジュリアン」
ウジェニーが両手で受け取った刹那。
ジュリアンの右手が動くのと同時に、ウジェニーは大きく後ろへ下がって距離を取った。
ザシュッ!!という大きな音とととに、白銀の剣がウジェニーの持っていた箱に刺さる。
箱は無惨に貫かれ、隙間から黄色の精緻なレースが飛び出す。ウジェニーが避けなければ、刺されていたのは箱ではなく彼女自身だっただろう。
剣の柄を握りしめたまま、ジュリアンは言った。
「あーあ。失敗した。妊婦のくせに、機敏に動くじゃねーか」
普段からは想像できないような、冷酷な声だった。
背筋がゾッとするような低温の瞳を向け、ジュリアンが続ける。
「まさかと思うけど、もしや俺のこと疑ってた? 俺に命を狙われてると、気づいてたのか?」
ウジェニーは慎重に辺りを見回しながら、後ずさった。
「ええ。貴方は私を殺したがっている人物の候補の一人ではあったわ。私、妙に親切な方は信用しないようにしているの。ユリアのように友情が感じられる場合を除いて」
ジュリアンは口の端を歪めて笑った。
「王女とは思えない処世術だなぁ。――もしやお前も皇帝から時を巻き戻す回帰術について、何か話しを聞いたのか?」
「私達が人生をやり直しているのは知っているけれど。でも回帰術とは初耳だわ。意図的に時を戻せる魔術があるということ?」
ジュリアンが剣を握りしめたまま、声を立てて笑う。
「なんだ、兄上から肝心なことは教わってねーな。回帰術は西大帝国の皇帝から皇太子にだけ伝えられる、一子相伝の魔術さ。時間を巻き戻した皇帝本人だけが、記憶を持ったまま過去に戻れるんだ。ズルいだろう?」
「皇帝が、巻き戻す……?」
「そう。なんでこの帝国が強大になったか知ってるか? 皇帝が何度もやり直せるからだよ」
「つ、つまり……これは皇帝が代々時間を巻き戻して、自分に都合がいい未来を選んできた結果だということ?」
「その通り。俺はさ、兄上が有能すぎるのが気になっていたんだ。この俺の人生は、絶対兄上が未来を覗いてきて何度も巻き戻した末の結果なんだと、気づいたわけさ」
突如勢いよくジュリアンが剣を突き出し、辛くもウジェニーがよける。だが武芸を嗜まない彼女にできることはけっして多くなく、彼の剣はウジェニーの左腕を切り裂いた。
「アアアアッ!」とあまりの痛みにウジェニーが叫び、よろめいて背後の木にぶつかる。
木によりかかるようにしてなんとか転倒を免れ、ウジェニーが左腕を押さえる。
腕は凄まじく熱を持って痛み、血が溢れだす。
ジュリアンは舌なめずりをして、さらに一方前へ踏み込んだ。
「俺はユリアを愛しているんだ。でも、知ってるか? ユリアは兄上に想いを寄せている」
「それは知らなかったわ」と言いつつ、ウジェニーは本心では薄っすら気づいていた。時折りユリアが皇帝に向ける目に、密かな熱がこもっていたことに。
でも、それ以上に彼女と交流が深まるにつれ、友情が大きくなっていった。そして二人が仲良くなるのに比例して、皇帝に向けるユリアの熱が冷めていったのも分かったのだ。
それでもウジェニーは保険をかけた。
ユリアとお忍びで宮殿の外に出かけた日。
ユリアはウジェニーが皇帝に贈るブローチを共に一生懸命、真剣に選んでくれた。
ユリアの言動は、間違いなく自分の初恋よりウジェニーとの友情を重んじていると感じさせるものだった。
あの日、ウジェニーは――おそらく皇帝も、ユリアを妃の殺害容疑者リストから、外した。
「ジュリアン、貴方はユリアのために私を殺したいの?」
「もちろん。ユリアは子どもの頃、兄上の妃になりたいとよく言っていたんだぜ。なのに、兄上はお前なんかを娶った。俺はユリアが悲しむのを見たくないんだ。高貴なユリアがお前に頭を下げないといけないのも、おかしいだろ? ユリアの幸せは俺の幸せなんだ」
恍惚とそう宣言するジュリアンは、自分の愛に酔いしれているようだった。興奮しているのか、顔が上気し目が爛々と輝いている。
「お前が死ねば、きっとユリアが妃になる。そうなればどれほどユリアは喜ぶだろう。俺に感謝してくれて、俺とユリアは特別な絆で結ばれるんだ!」
「私が死んでも、ユリアは絶対に喜ばないわ。私たちは友達だもの」
「それはいただけねーな。ユリアにとって一番信用できる友人は俺であるべきだ。そのためにも、やはりお前には消えてもらう」
ジュリアンが剣を振り上げ、銀色の刃をウジェニーに向けて素早く薙ぎ払う。彼は柄を通して、ウジェニーの胸から腹にかけて確かな手応えを感じた。
ドレスが裂け、表面に縫われていたビジューがパラパラと音を立てて庭園の芝の上に落ちていく。
衝撃に耐えられず、ウジェニーが木の下に座り込む。ウジェニーに致命傷を与えたことを確信したジュリアンは、己の剣をハンカチで念入りに拭き始めた。
「今日の宮殿は皇帝の誕生祝いのために、人の出入りが激しいからな。犯人を見つけるのは至難の業だろう。恨むならこの結婚を決めた自分の実家を恨めよ」
ウジェニーは血で濡れた手を地面について、風に髪を靡かせながらジュリアンを見上げる。
「何度私を殺しても、陛下はきっと人生をやり直すわ」
「ハハッ! バカだな、何も知らなくて幸せなこった」
ジュリアンは痛みに悶えるウジェニーの前に膝をつき、彼女にとっておきの秘密を打ち明けるようにささやく。
「冥土の土産に、なぜ西大帝国の皇帝が異常に短命なのか、教えてやろう。回帰術の力の源は、皇帝の寿命なんだ。時を一度巻き戻すたび、三年の寿命を奪われるという」
ウジェニーは血の気の引いた真っ青な顔でジュリアンの話を聞いた。
「なん……ですって……? それでは、陛下は」
「だから何度も回帰術を起こさせて、あいつが早死にすれば玉座ごとユリアが俺の元に転がり込んでくるかもな」
皇帝はウジェニーのために、既に四度回帰術を行った。つまり、彼は十二年分の寿命を失っているのだ。
(だめよ、だめ。もうこれ以上、私なんかのために、陛下の命を削ることはできない!)
勝利を確信し、ウジェニーが生き絶えるのを待っていたジュリアンが、ふと真顔に戻る。
ウジェニーは左腕を負傷し血を流しているものの、腹や胸からは全く出血していないことに気づいたのだ。
よく見れば、ドレスの下に銀色の金属製の板が覗いているではないか。
「お前! クソッ、騙された。生意気にも、ドレスの下に甲冑を着けてたのか⁉︎」
ウジェニーが赤い髪を振り払い、キッとジュリアンを睨み上げる。
「もう二度と、貴方に私を殺させはしないわ。この命は誰の自由にもできない、私だけのものよ!」
ジュリアンが再び立ち上がり、剣を頭上に掲げる。
だがその直後、彼は奇妙なものを見た。自分の喉から突然、何か細いものが地面と平行に飛び出してきたのだ。
なんだ、コレは……と視線だけ下ろして確認してみれば、喉から突き出ているのは鋭利な矢尻だった。背後から何者かに矢を放たれ、喉に刺さったのだと認識した直後、猛烈な痛みが喉を襲う。
同時にもはや声を出すことはおろか、呼吸をすることもできなくなっている自分に気がついた。
頭上に振り上げていた剣が手から滑り落ち、地面に積もっていた落ち葉を巻き上げる。
ジュリアンの体が人形のように倒れ、その後ろにはこちらへ走ってくる皇帝が見えた。
「ウジェニー! 無事かっ⁉︎」
皇帝は左手に持っていた弓を放りだし、ウジェニーのそばにしゃがみ込んだ。そうして素早く彼女の怪我を確認すると、遅れてゾロゾロ走ってくる衛兵に「医師を呼べ!」と叫んだ。
ウジェニーの腕を高く上げ、止血のために強く押さえながら皇帝が叫ぶ。
「なぜ、どうして勝手にこんな庭園の奥まで来たんだ!」
「陛下に守っていただくだけでは、申し訳なかったんですもの。私も何かしなくては、と」
「ああ、こんなに腕を切られて! クソッ、ジュリアンめ、殺してやる!」
「もう死んでいますから、それは無理ですわ」
「ウジェニー、剣を構えるジュリアンとお前の姿を見た時、俺がどんな思いだったと? 今度こそ、お前とルイを守らせてくれ。ルイが歩くのを見たい。お前が、それを見て笑顔になるのを見たいんだ!」
「陛下。私も貴方を守りたかったんです。だから私、あえて無防備な姿を見せて、犯人を誘き寄せることにしたんです」
「動くな、ウジェニー。今医師が来るから」
「約束してください、陛下。もう二度と回帰術を使わないと」
皇帝がエメラルドの目を見開く。
ウジェニーは手を伸ばして皇帝の頬に触れ、左腕の痛みを堪えて微笑んだ。
「ご自分のお命も大切になさってください。私と何度目かではない、新鮮な毎日をこれからたくさん、何年も何十年も一緒に過ごすために。――陛下、貴方を愛しています。皇帝陛下……私のルシアン様」
初めて己の名を呼ばれ、皇帝が感極まって目を潤ませる。愛しい妃に名を呼ばれるのは、胸の奥を柔らかな羽毛で撫でられるようなくすぐったさがあった。
「お前は、何度でも俺を恋に落とすんだな。しかもいつも前よりも、俺を夢中にさせるんだ。……何度でも、愛している。ウジェニー……」
皇帝は医師が駆けつけるまで、そうして両腕でウジェニーを抱きしめた。
セルパ王国の王女が西大帝国皇帝に嫁いでしばらく経ってから。
西大帝国の皇帝が呪われているという噂は、誰も口にしなくなった。
現皇帝は病気ひとつせず、父や祖父の年齢を飛び越えたから。
皇帝と妃のウジェニーの間には、5人の子が生まれた。やがていつのまにか、皇帝の「退屈だ」という口癖もなくなっていたという。皇帝は妃との約束を守り通したのだ。
そして次の皇帝となったルイも長生きだった。皇帝ルシアンは皇太子になった息子のルイに、回帰術を伝えなかったのだ。
だからルイの世代になると、なぜ呪いが消えたのかを誰も知らなかった。
それこそが、ルシアンが息子に示した愛の形だった。