8. 2019年3月30日(土)①
この一週間、丸多の気分を多少なりとも前向きにしたものといえば、〈シルバ〉のチャンネルに届くコメント群だけだった。あれから数百件のコメントが集まり、〈シルバ〉の意志を存続させようとする動きは、ネットの片隅でくすぶるような盛り上がりを見せていた。
事件の方は全く進展しなかった。集めた情報をなぞれば毎回、嫌がらせのような袋小路の壁が立ちはだかった。〈キャプテン〉から聞いた話のどこにもほつれは見当たらず、また、残された謎は未だ謎のままだった。
ふさぎ込んでいた女がいきなり上機嫌で走り回るようになったり、あるいは、友人が突然何も告げずどこかへ引っ越したり、といった現象は人の理解の範疇を軽く超える。こういった模範解答のない難題は、己の思考の限界と孤独を再確認させるだけだ、と丸多は感じて始めていた。
犯人以外で、事件の真相に最も近いのは誰か。それは自分である気もするし、そうでない気もする。
誰か真相を知っている者はいるのか。
「シルバを殺した犯人は誰か」その質問は妄想の中でこだまのように響き、結局何の処理もされないまま、自分の元へ戻って来るのだった。
PCの画面では、桜並木の道を自撮りしながら歩く〈シルバ〉の様子が流れている。今週の夜は、ネットに残りかすのように浮く〈シルバ〉の映像を観て過ごした。断片的に切り出されたそれらは、事件を解く上で最後の砦となるはずだった。
しかし、そこに新たなヒントを見つけることは出来なかった。
〈シルバ〉は寝ている後輩を起こさず、その額にカナブンを何匹置けるか検証していた。また、別の場面では、上裸の後輩の胸で、ローションに浸した真ダコを這わせていた。いずれも、子供の頃の遊びの延長のようであった。彼らが楽しそうであればあるほど、丸多の胸の隙間は寂寥で満たされるのだった。
桜の道を散策する場面もそういった児戯の一つだろう、と何の期待もせずに眺めた。しかし、あるところで丸多の注意が向いた。
ここは見たことがあるな。
そうだ、上野公園だ。十日ほど前に行ったばかりで、すぐに思い出すことができた。〈シルバ〉の後を〈東京スプレッド〉の五人が悠々とした足どりでついて行く。
「シルバさん」〈キャプテン〉が後ろから声をかけた。「何で、自分で撮ってるんですか」
「遊矢が忙しいって言うから」
「俺が代わりましょうか」
〈キャプテン〉の申し出に対し、〈シルバ〉は「いや、いい」と言って、そのまま自分で撮影を続けた。
「『博物館にはどう行ったらいいんですか』って英語で何ていうの?」〈シルバ〉が後ろを振り返った。
「 “How do I get to the museum?”じゃないですか」〈モジャ〉がスマートフォンを見ながら答えた。
「お前、頭いいね」〈シルバ〉が言うと、〈モジャ〉は「いや、今ネットで調べただけです」と返した。
「Excuse me,」〈シルバ〉は、通りがかりの女性二人組に、習ったばかりの英語で声をかけた。「How do I get to the museum?」
口に手を当てまごつく女性らに対し、彼は同じフレーズを繰り返した。
「ミュージカル?え、何?わかんない」
戸惑う二人に対し〈シルバ〉は日本語に切り替え、「俺も日本人ですけどね」と言った。女性らは手を叩いて笑った。
〈シルバ〉もあの辺りを歩いていたんだな。
丸多は〈ナンバー4〉と待ち合わせたあの日を思い返し、覚えている道筋だけでも頭でなぞってみた。
また場面は変わり、今度は光沢のある緑の三角帽をかぶった〈キャプテン〉が映った。「これでいいかな」
丸多にも見覚えのある室内。これもきっと〈シルバ〉の部屋だろう。〈キャプテン〉が大きめの紙箱を片手で支え、余った手で蓋を不器用に抑えている。
「もっときつく」横に立つ〈ニック〉も蓋に太い手を添えた。そして〈モジャ〉が箱に赤いリボンを丁寧に巻き付けた。
「シルバさん、メリークリスマス」〈キャプテン〉が呼ぶと、〈シルバ〉が枠の外から現れた。
「何それ」〈シルバ〉が箱を指差し、くだらない物を見る目で言った。実際にそれは「くだらない物」であった。彼は箱を受け取り、リボンを解いた。
中には、落書きの顔が描かれたバレーボールが入っていた。ボールの下方には、螺旋状の針金がガムテープで取り付けられている。
「何これ、びっくり箱?」〈シルバ〉は冷静だった。
「はい」〈キャプテン〉が言い訳を始めた。「閉じたら、バネにくせがついちゃって、それでうまく飛び出なかったみたいです」
〈キャプテン〉がちょうど言い終わる頃に〈シルバ〉は窓を開け、それを箱ごと外に放り投げた。
もう切りがない。丸多は動画サイトを閉じ、PCの電源も切った。そして、大きなため息を一つついた。ベッドに放り出しておいた携帯を見たが、誰からの着信もなかった。
外は晴れている。青空の下で健全になれるのは、元々健全である人だけだ。不健全な者の鬱屈はその青では浄化されず、却ってその性質を色濃くする。純色のワイシャツと色落ちしたジーンズが不釣り合いであるように、爽やか過ぎる空の色が沈み気味の気分との調和をなさないのである。
こんな気持ちの受け皿となるような場所が、どこかにあるだろうか。澄んだ空の下、どこぞの高級な飼い犬までくつろぎだすテラスで、ゆったりとコーヒーを飲みたくなる気分ではない。あるとすれば……
14時か。早くもなく、遅くもない。丸多はスマートフォンを取り、通話するのでなく、テキストメッセージを北原に送った。