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6. 2019年3月23日(土)⑤

 夕方5時半。東京へとんぼ帰りした二人に、暮れゆく都会を享受(きょうじゅ)する時間はなかった。


「丸多さんお腹空かないんですか」北原は助手席と同化しそうなほど身をうずめている。

「ああ、何か食べるのすっかり忘れてました」

「明日美さん、食事でも出してくれませんかね。寿司三人前くらい、あの人ならどうってことないですよね」

 手垢のついたこの北原の冗談を、丸多はきっぱりと言って捨てた。

「いや、むしろ出してもらわない方がいいです。今日に限っては」


 北区の皆川邸は一週間前と変わらず、暴力的な絢爛(けんらん)さを放っている。個々に見れば十分に上等といえる近所の住宅も、その要塞(ようさい)が際立つよう、何かしらの圧で縮小させられたように見える。


 丸多は北原をそこで降ろし、近くのコインパーキングに車を停め、徒歩でまた戻ってきた。

「今日は駐車場使わせてもらわないんですか」

 北原が吐き出す疑問は煙のように、その顔の周りにも漂っていた。丸多は北原の目に視線を固定し、そして口に人差し指を当てた。「北原さん、相談があります。静かに聞いてください」


 この日、白い門は閉じられていた。門柱の、目の高さよりもやや低い位置に、以前玄関で見たのとは違う型のインターホンが取り付けられている。

「丸多さん、押しますか」北原は声を低めて言った。


 丸多は迷った。そのインターホンにはカメラが内蔵されている。先週入ったとき、このカメラの撮影範囲までは確認しなかった。また、他の見えない箇所にも監視カメラが設置してあるかもしれない。


「北原さん、ちょっと待ってもらっていいですか」丸多は車道を見渡してから、再び北原に向き直った。「玄関で明日美さんと会うときは、さっき言ったように対応してください。そして私は一旦、向こうの角まで引っ込みます。明日美さんが出て、門が開いたら合図をしてください。一切声を出さず、こちらも見ずに」

「もし他に誰かいないか訊かれたら、一人で来た、って言った方がいいですよね」

「もちろんです」


 丸多は最も近い交差点まで小走りで行った。そして、角の住宅に半身を隠し、北原の動作を観察した。北原がインターホンを押した。汗でぬめる首筋を()く風は、妙にぬるく感じられた。

 

 それから北原は顔を突き出して何事かを語りかけた。門扉が自動で内側に開くところを丸多の位置からも確認できた。北原の手による合図よりも一瞬早く、丸多は駆け出した。


 整然として生活感のない庭も以前と変わらない。陽は傾いているが、身を溶かせるほどの闇はまだそこにはない。窓から明日美が外を眺めることも考えられる。北原が通常通りタイルの上を歩く一方、丸多は野鼠(のねずみ)のようにして壁伝いを進んだ。


 北原が玄関口についたとき、丸多は彼の横を素早く横切った。そして速度を落とさず、壁と家に挟まれた細い通路に潜り込んだ。奥には、前回帰り際に少しだけ見た裏庭が部分的に覗いている。丸多の無言の合図の後、北原は玄関のインターホンを押した。


「北原さん、お久しぶりです」

「お久しぶりです。すみません、何度も」

 二人の形式的な挨拶を、丸多はすぐ脇で聞いていた。普段から陽がささないであろうその細道には、丈の長い雑草が伸びたまま放置されている。少しでも脚を動かせば自身の存在を知らせてしまうことになる。彼は石としての体をそこに置き、彼らの会話が流れ去るのを待った。


「昨日お電話した件なんですけど、丸多さんにお願いされて」北原の芝居は悪くなかった。少なくとも、事情を知らない者を信じ込ませるくらいの自然さは備わっていた。


「ハンカチを忘れたんですよね」明日美ははきはきと応対した。声からして、機嫌は良さそうであった。

「丸多さんは、今日は来られないんですか」明日美が訊いた。

「はい、今日は何か用事があるみたいで」

「そうですか。ちょっと待っててください。今取って来ますね」


 玄関のドアが閉じられる音はしなかった。明日美が奥へ戻る足音を聞いて、丸多は草を出来るだけ踏まないようにして、細い通路を進んだ。


 前回に見たあの物置きのような物体から、およそ七八歩のところまで近づいた。丸多の体はまだ通路の出口付近にある。家の影になっていて、そこから家人に見られることはない。


 彼は家の白い壁に耳を当て、内部の様子を探った。リビングを歩き回る微かな足音。どうやら他に来客はないようだった。


 物体は前回のまま灰色の幕で厳重に覆われている。かなり近い距離にいるが、丸多にはまだそれが何なのか見当もつかない。


 家の奥で声がした。「北原さん、これでしょうか」明日美が再び玄関口に行ったのに違いなかった。丸多はそれこそ脱兎(だっと)のように飛び出し、物体の裏側へと回った。息はあがらなかったが、心臓は警鐘のように肋骨(ろっこつ)を何度も叩いた。


 裏手にある民家の二階から自身の姿が丸見えであることに気付いた。見られた場合、家人の許可を得ていない者と認識されてはならない。丸多はズボンのポケットにわざとらしく片手を突っ込み、いかにもそれが妥当な動作であるような気安い態度を取り始めた。


 ゆっくりしてはいられない。会話の内容は聞き取れないが、まだ向こうで北原と明日美が話しているのが小さく聞こえる。

 北原はおそらく「ラーメンとパスタどちらが好きか」という質問よりはいくらかましな話題によって、彼女を引き留めてくれているはずである。


 丸多は探し当てた幕の切れ目に手を差し入れ、慎重かつ大胆に開いてみた。

 物体の正体は巨大な鉄格子であった。西日の残光が、暗い内部を遠慮がちに示した。内部にあるものの形状が、彼の視界に飛び込んで……


「丸多さん」

 心臓が跳ね上がる、という表現があるが、このときまさに丸多のそれは、糸で急激に引っ張られたように鼓動のペースを乱した。余りの驚きにより、彼の下顎と二本の脚は文字通り震えた。


「ハンカチにアイロンをかけておきました」

 明日美は微笑をたたえて、鉄格子の横に立っていた。丸多の眼は彼女の凛とした姿を捉え、そのまま動こうとしなかった。丸多は息さえ出来なくなった口を意味もなく動かした。言葉は一切出てこなかった。明日美はゆったりと丸多に近づき、(のり)のきいたハンカチを丸多に握らせた。

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