1. 2019年3月2日(土)③
丸多はタブレットを一旦置き、店内を見回した。
北原はまだ来ない。
マグカップにまだ半分ほど残っているコーヒーをすすり、タブレットに表示されたメールボックスを開いてみる。人差し指で受信ボックスの画面を素早く下に滑らせ、アップデートをかけてみたが、追加されるのは見飽きた広告ばかり載せたメールマガジンばかりで、その中に期待された北原からの新着メールは見当たらなかった。
今頼れるのは北原しかいない。丸多には誰か〈シルバ〉の知り合いが必要であった。ネットの情報だけで形作られる事件の概要は、何とも浅はかで物足りなかった。
北原が自身の現在地を発信しているはずはなかったが、一応、短文投稿サイト[*2]の彼のアカウントも覗いてみる。
最新の投稿は、約一カ月前の「学校帰り。友人たちと焼き肉なう」という無邪気かつ無意味なもので、これが今までずっと更新されていないことを丸多は知っている。
鼻から細いため息を放つと、ブラウザのアイコンを指の関節で叩き、再び〈シルバ〉の動画のサムネイルが並ぶ画面を開いた。
別の動画でも物色しようと、画面をスクロールするとそこに、動画に対する大量のコメントが出現した。
〈シルバ〉のチャンネルは今なお残されていて、未だにそこへ視聴者からのコメントが寄せられるようである。内容は、「お悔やみ申し上げます」、「シルバさん、早すぎますよ」といった素直に追悼の意を表すものがほとんどで、あからさまに故人を侮蔑するような文言は見当たらない。
中には「スターになるに値する男だった」、「才能は十分あったのに、無念」など、熱心な投稿もあり、それらを読むうち、丸多の目頭は自然と潤んだ。
そう、〈シルバ〉は死んでしまった。
感傷的な気分は、〈シルバ〉の事件に先立って起きたある別の事故を思い出させた。丸多は画面に触れ、「美礼」で検索をかけた。
膨大に出てくるメイク関連動画のサムネイルを、上へスクロールすると―――あった。
動画のタイトルは「【やや閲覧注意】美人クリエイターの顔面崩壊」。
通常〈美礼〉の動画は「皆さん、こんにちは、こんばんは、美礼です」と、定型句の挨拶から始まり、彼女が得意とする「愛されメイク」の紹介や、自作の踊りを披露するなどの内容へと移るのだが、この回だけは様子が違う。
薄茶色の巻き髪をツインテールにした女性が一人、椅子に座りながら画面に向けて弱々しく手を振っている。
本来、「憂いをたたえながら相手のどんな虚飾も見晴かすような大きな黒い瞳」、「少し横向くだけでその先端が描く曲線が強調されるような、細くて高い鼻」、「きっ、と真横に結ばれた小さく赤い唇」、という形容も滑稽ではなくなるような美人なのだが、今は眼帯とマスクによって顔の大部分が隠されてしまっている。
数秒間の沈黙ののち、〈美礼〉が一言かすれた声で言い放つ。
「階段から落ちちゃいました」ここで、眼帯とマスクが同時に外された。口元を少し緩めているが、目は笑っていない。
白いガーゼがあてがわれていた片方の目の周りは、インクでも注入されたように青黒く変色している。唇の左端は膨れ上がり、鮮血を拭き取られた後らしい裂傷が細く走っている。
撮影はこれらの傷を受けた直後に行われたようで、その痛々しさは想像力を駆使せずとも本能的に伝わってくる。
動画はそこで唐突に終わった。再生時間二十五秒という短い内容だった。
これは、国内有数の人気女性クリエイターだった〈美礼〉が、最後に残した動画である。〈美礼〉のチャンネルに上げられた後、直ぐに削除されたが、衝撃的な内容であるためか、今なおネット上に拡散された状態にある。
〈美礼〉はこの動画を投稿した一ヶ月後の2017年6月、腹腔内臓器損傷によって、つまり腹部に位置する内臓に負った傷が原因で夭折した。22歳の若さだった。
〈美礼〉は当時、大手動画クリエイター専門事務所「UMORE」に在籍していて、百万人以上のチャンネル登録者を獲得した、国内で指折りのスタークリエイターとして注目されていた。
彼女の死に関するニュースは、その頃動画を観る習慣をほとんど持たなかった丸多の耳にも届いた。そのときは、誰か有名な動画投稿者が死んだんだな、というごく軽い感想しか持たなかった。
しかし〈シルバ〉の事件以降、ネットを調べることで、二人が恋人関係にあったことを知った。すると当然ながら、丸多の意識は〈美礼〉が死んだ事実にも向くようになった。
そして、まだある―――
「失礼します」声がして、丸多は顔を上げた。
見ると何のことはない、ストライプのシャツを着た男性店員が、空いた隣のテーブルを拭きに来ただけだった。
反射的に記憶している北原の顔と照らし合わせたが、似ても似つかない。男性店員は垢抜けた、いかにも都会然とした好青年で、どちらかといえばもったりとした印象を与える北原とは対照的であった。
北原がまだ来ない事実を容易に受け入れられなかったからなのか自身でも判断がつかなかったが、丸多は横に向けた首をそのままにして、男性店員の所作をぼんやりと眺めた。やがて視線に気づいた店員が丸多の方を向こうとしたので、丸多はそこでまた前に向き直った。
親しくもない人物をこれほど待ちわびる感覚は、甚だおかしなものであった。しかし、事件の闇に霞む途方もない異常性を再度意識することですぐに、その悪辣を追究する極めて能動的な衝動がそれに取って代わった。北原に聞きたいことは山ほどある。
[*2]: 半角280文字のメッセージ、また画像や動画などを投稿できるサービス「Twitter(X)」などが流行した。