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4. 2019年3月16日(土)⑥

「北原さんはもう帰るんですよね」皆川邸を出た後、信号待ちの車内で丸多が言った。

「はい。学校の課題が溜まっていて」


 最寄り駅の停車場で車を停めると、助手席の北原は礼を言った。

「丸多さん、チョイスによろしく言っといてください」

「もちろんそうします。会えればですけど」

「じゃあ、頑張ってください」

「はは、ありがとうございます」丸多は、顎が外れそうなほどのあくびをした。休日に朝5時に起きたのは何年ぶりだろうか。よほど重要な用事がなければ、彼は大体その時間、花粉に鼻を詰まらせながら夢を見ている。


 土曜だが、スーツ姿で駅に吸い込まれていく人の姿も案外多い。丸多はスマートフォンを取り出し、マップアプリの画面を北原に見せた。

「一応確認なんですけど、ここで間違いないですか」

 画面には、埼玉の郊外のある地点と、「橋井工務店」の文字が表示されている。

「多分それで合ってると思います。何しろ、行ったのがもう三年以上前で、記憶が曖昧で。でも僕も数日前ネットのビュー機能でその辺を確認して、そしたら見覚えのある街並みが出てきたんで、きっと大丈夫でしょう。間違ってたらすいません」

「いえ、ダメで元々なんで。助かりました。こちらこそ、ありがとうございました」


 東京から北へ、一時間ほど孤独なドライブをした。東京から遠ざかるにつれ、大きな布で丸ごと磨いたような高層ビルは減っていく。代わりにホームセンターや、国産車のショールームなど丈の低い身近な建物が目立ち始める。大宮市の東端に着くと、午後7時を過ぎた。


 大きめの公園の隣に廃病院を見つけ、丸多はその前で車を一時停車させた。スマートフォンのロックを外し、メッセンジャーアプリのアイコンを見つめる。山梨県の店員らから目撃情報が届いていないか期待したが、それが示す新着メッセージの件数はゼロであった。


 目的の一軒家の一階は幅広のシャッターで閉じられていた。街灯に照らされ、「橋井工務店」の文字をはっきりと読むことができる。丸多は店舗の側面に、トタン屋根付きの階段が(しつら)えられているのを見て、それを静かにのぼった。


 扉の禿げた赤い塗装と、さびでざらついたドアノブが、もはや不可逆な家全体の衰えを物語っている。家主が粗暴に振る舞うことで、同居人をストレスのはけ口にする。内面の傷がいかに治癒し難いものであるかも知らずに。神経をすり減らした家人は徐々に()え、その姿に影響を受けた家主の気力もどんどん低下していく。家主はさらに不満、鬱屈(うっくつ)を抱え、家人を前よりも一層邪険に扱う。このサイクルの中でその家の活力は、再び浮上させるのに多大な手間のかかるレベルまで落ち込んでいく。

 丸多は扉の前に立ちながら、そういった気の滅入る悪循環を勝手に想像した。


 インターホンはかろうじて生きているようで、それを鳴らし応答を待った。丸多の立つところから切り取ったような小窓が見え、そこから味気ない蛍光灯の光が漏れている。足音が近づいてきて、扉が手のひらほど開いた。内側のチェーンはかけられたままだった。


「夜分遅く恐れ入ります」丸多はすき間に向かって、顔を傾けた。

 薄暗がりの中、髪を後ろで束ねた中年女性と目が合った。

「どちらさま」普段顧客対応もするためだろう、明らかに(いぶか)しんではいるが、完全に突き放すような態度でもない。くたびれの現れ始めた顔は〈ちょいす〉に似ていなかったが、気の強そうな口調には、生配信動画で聞いた音調が含まれている気がした。


「私、中田銀さんの知人で、丸多好景と申します」

「はい?」〈ちょいす〉の母親であろう女性は、愛想のかけらも見せずにそう聞き返した。

 丸多は同じセリフを繰り返し、「中田銀さんのことで、まどかさんに大事な話がありまして」と鷹揚(おうよう)に言った。すると一旦ドアは閉じられ、足音は遠ざかっていった。耳を澄ますと、「あんた、誰か来てるよ」「誰」「知らない男の人」という淡白な会話が聞こえた。

 丸多はそれを聞いて、「『中田銀の知人』だと、二回言っただろ」と心の中で不平を言った。


 若い女性が戸口に立った。白いマスクをかけているが、動画で見た〈ちょいす〉に間違いなかった。上下グレーのスウェットを着て、肩までの黒髪はほんのりと濡れている。風呂から上がったばかりなのか、押し売りのような濃いシャンプーの匂いが丸多の鼻腔(びこう)をついた。

 ウェブページで確認したプロフィールが正しければ、今彼女は21才のはずである。見たところ、学校に通っている様子も、会社に勤務している様子もない。


 〈ちょいす〉は丸多の自己紹介も待たず、口を開いた。「アンチなら帰ってくれますか」

 丸多は慌てて、顔の前で手を振った。「違います。私はアンチじゃありません。私は丸多好景と言いまして、中田さんの友人です」

「誰」

「中田銀さんです。去年までシルバという名前で、動画クリエイターをしていた人です」

「ああ、銀ね。それで、何?」


 いつまでも臆病な犬のような態度を崩さない女に、丸多は東京の豪邸で最初したのと同じ内容の話をした。

「お電話だと、それこそ」丸多はさらに付け足した。「アンチだと思われて一蹴されると思いまして、それでここまで直接参りました。ご迷惑なら、すぐに帰りますが」

「迷惑です」

 丸多は、「お前もシルバを見習って、『ポップ路線に切り替えた』らどうだ」という指摘を思いついた。しかし、自身の立場を考えた上、それは口に出さず、あくまで企業面接のような波風立てない姿勢を保つことにした。


「ネット上に上がっている【GN過去動画】というのを観まして」

「もごもご言ってて、何言ってるかわかんないんですけど」

「橋井さん、あの、高校生のときにシルバさんと喧嘩凸やってましたよね。あれ楽しく拝見し」

「あいつのこと話す気分じゃないんです。いい加減にしてもらっていいですか。そろそろ警察呼びますよ」


 扉は閉まり、その直後鍵を閉める乾いた音が響いた。それは当てつけに違いなかった。いつか〈シルバ〉が言っていた「お前は鼻毛を出すレベルの女だ」という意味の言葉に、あやうく同意してしまうところだった。


 丸多は車のボンネットに手をつき、大きく伸びをした。路上で、キャスター付きの買い物バッグを引く老婆が、通り過ぎざまに丸多の顔を珍しそうに覗いた。

 丸多は思った。素人が木に登り、一気に二つも三つも果実をもごうとしても仕方がない。十分に上出来ではないか。最後は不発に終わったが、それでも木の実一個半は地面に落とせた気がしていた。

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