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4. 2019年3月16日(土)④

 高速道路を東京へ抜けると15時を過ぎた。都内で一般道に出た途端、運転の難易度が上がり、ハンドルを握る丸多の手に汗がにじむ。そこで優秀なナビへと変身した北原に道順を確認しつつ、慎重に車を進めた。


 北区の落ち着いた住宅地の一角に、皆川明日美(みながわあすみ)の住む家はあった。

「さすが、立派な家ですね」丸多は運転席から、〈美礼〉の遺産であるその邸宅を見やった。

「僕もこんな家住んでみたいです」北原の羨望(せんぼう)の眼を見ると、その陳腐な決まり文句が、豪奢(ごうしゃ)な家の門を開ける間抜けな合言葉のように聞こえた。

 

 しかし、白い門扉(もんぴ)はすでに開いていて、すっかり矮小(わいしょう)になった二人に対し、不必要なほどの寛容さで進入を促していた。


「来客用の駐車スペースがあるのは、本当に助かりますね」丸多は言いながらバックで敷地に入り、黒光りするミニバンの横でエンジンを切った。


 玄関まで敷き詰められた白いタイルの上を、二人は落ち着かなげに歩いた。二段あるポーチをのぼりインターホンを押すと、スピーカーを通じて若い女性が応答した。


「丸多と申します」

「北原です」

 息の合わない漫才師のように二人が声を投げかけ、その後、バロック風の重そうな扉が控えめに開いた。


 〈美礼〉の生き写しと言ってもよい、体の隅々まで洗練さの行き渡る女性が姿を見せた。

 ロングドレスにファーのショールといういでたちでこそないものの、黒いスキニージーンズの曲線、薄青いチュニックの幅広いネックライン、そしてそこから覗くキャミソールの細い肩紐、これらが自然に組み合わさり、素朴ななまめかしさを(かも)し出している。


 上に反ったまつげで強調された瞳には確かに、画面越しにささやかな悦楽を送る頃の〈美礼〉の面影があった。疲労からくるらしいやつれた表情も、常に厭世(えんせい)的で(はかな)い面立ちでいたあの妹の姿と重なった。


「すみません、若干遅れてしまって」丸多が詫びると、皆川明日美は「どうぞ、私一人しかいませんので」と寂しげな口調で言った。


 重苦しい雰囲気を二人は事前から予期していた。決して、毎週一緒にバーベキューをする間柄でない女性を前に、丸多らは「お邪魔します」とだけ言い、(つつし)み深い様子で前に出た。


 ここでもやはり二人はリビングに通され、一対の白いソファーの片方に座らされた。目前のガラス製の低いテーブル、そこに敷かれた毛の長い絨毯(じゅうたん)、そして頭上の軽薄なほど豪華なシャンデリア、それらを前に凡庸ななりの二人は圧倒されかけた。

 丸多は広い空間を見回しながら、自分の(つたな)い話術でも、そこいらの家具についての評価だけで、相手を数時間はおだて続けることができる、などと考えた。


 ドイツ製の紅茶でも出てきそうなそれまでの運びだったが、出されたのは意外にも炭酸水のペットボトルや缶ジュースなど親しみやすいものばかりだった。

「すみません、余り物で」皆川明日美は、空いている方のソファーに腰かけた。


「いえ、お構いなく」〈美礼〉の姉と形式的なやり取りをする間、丸多の脳内で「ここで炭酸水を一気に飲み干せば、少しでも相手がほほ笑むかもしれない」という案が浮かんだ。しかし、相手は当然初対面の女性であり、また、胃から逆流する二酸化炭素を制御できない自身の姿も思い浮かべ、そのデメリットの多い博打をやめることにした。


 丸多はひとまず「いただきます」と炭酸水をとり、一口飲んだ。そして、言った。

「お姉さんにとって、あまり嬉しくない訪問かもしれません。美礼さんが亡くなられてから時間が経ったとはいえ、まだ悲しみは完全に癒えてないと思いますので」


 皆川の何も答えない様子を見て、丸多はそのまま続けた。

「北原さんと私は、シルバさん、つまり中田銀さんの友人でして」

 丸多はそれまでの経緯をかいつまんで説明した。〈シルバ〉、北原との出会い、〈東京スプレッド〉との接触、そして事件現場へと直接(おもむ)いたこと。


 すると、皆川は素人探偵を見下すふうでもなく、むしろ彼の話に感嘆した様子でいた。

「中田さんのことは、よく覚えてます。ここで何度か、彼と妹と三人で食事をしたこともあります」

「明日美さんが北原さんと会うのは」丸多が尋ねた。

「今日が初めてです。でも、お話で北原さんについて聞いたことはありました」

 北原は照れ笑いするだけで、何事かを口に出そうとはしなかった。


「それで」丸多が本題を切り出す。「こういったことを訊くのは大変失礼であるのは承知していますが、美礼さんは2017年5月に、怪我をした姿を映す動画をアップロードしました。傷は生々しくて、非常に衝撃的な内容でした。彼女はそのとき『階段から落ちた』と言っていました」


「そうですね、確かにおととしの5月の夜だったと思いますけど、その日妹は酒に酔った状態で帰ってきました。中田さんにタクシーで送ってもらった、と本人は言ってました」

「そのとき、美礼さんはシルバさんと一緒だったんですか」

「ええ、新宿あたりで二人で食事をして、それで一緒に家までタクシーで帰ってきたそうです。中田さんが泥酔した美礼を支えて、そこの玄関まで運んでくれました。私は中田さんにお礼を言って、その後彼はすぐに、待たせておいたタクシーに再び乗って自宅に引き上げました」


 丸多と北原は黙って、皆川の口から出る言葉を聞き続けた。

「妹を引き取った後、私はあの子をこのリビングまで引っ張っていこうとしました。でも『一人で歩ける』と言って、何度も私の手を払っていました」

「以前から」と丸多。「美礼さんが泥酔して帰宅することはあったんですか」


 皆川は少し考えるしぐさをした後、言った。「何とも言えません。お酒を外で飲んで帰ってくることは何度もありました。ただ、そのときはいつもよりも深く酔っていたように思います」

「そして、上に上がろうとして、階段で転倒してしまった」

「はい、私がちゃんとついていれば良かったんです。上にあの子の部屋があったんですけど、あの子は朦朧(もうろう)としながら、上の自室に行こうとしました。そのとき私は大ごとになるとも思わずに、一階のキッチンで水を汲もうとしていました。そしたら」


 美礼の姉の目は、はっきりとうるんでいた。丸多がかける言葉を見つけられないうちに、また皆川が話し出した。

「すごい音がして。固いものに何度もぶつかるような音でした。私びっくりして、慌てて階段の方に行きました。そこであの子が、ぐったりしてうつぶせで倒れてました」


 丸多は聞きながら、当時〈美礼〉が上げた怪我の動画を思い出していた。

「救急車は呼ばなかったんですか」

「ええ」皆川は気丈な様子を保っていた。「私はすぐに救急車を呼ぼうとしたんです。でも、あの子は『平気』と言って聞きませんでした」

「意識はあったんですね」

「はい、意識ははっきりとしてました」

「顔には傷を負ってしまった」

「はい。あの子の顔の怪我を見て、私、気が動転してしまいました。救急車で病院に行くようにしつこく説得しましたが、何を強がってるのか、あの子(がん)として首を縦に振りませんでした」

「結局、救急車も呼ばず、病院にも行かなかったんですか」

「はい。しばらくしたら酔いも覚めてきたのか、おぼつかない足取りでまた二階に上がって行きました。部屋に入った後は、どのように過ごしていたかは」

「あの動画を上げましたよね」丸多が冷静に言った。

「ええ、そうです。私は、もう知らないと思って、ここで座りながら雑誌を広げていました。静かになったので、その日は私も二階の私の部屋で就寝しました。その間にあの子は部屋であの動画を撮って、アップロードしたんだと思います」

「あの動画を公開した理由はやはり、事務所に関連したことでしょうか。美礼さんは当時、人気クリエイターらを揃えていたUMOREに在籍していました」

 ここでも皆川は少しの間沈黙した。そして、ふうっと息を吐き出してから言った。


「多分そうだと思います。だけど、私にははっきりとしたことは言えません。丸多さんがおっしゃる通り、あの子は怪我したことをすぐに自分のファンたちに伝えようと思ったんじゃないかと思います」

「対応に迷うところですよね。確かに、美礼さんの立場からすれば」

「そうなんです。あの顔のままだったらしばらく動画を上げられなくなりますし、そうしたら日本全国にいるあの子のファンが心配するでしょうし。かと言って、怪我の様子をすぐに公開していいものなのか、判断には迷ったと思います」

「お酒に酔っていたから正常な判断ができなかった、ということも考えられますしね」

「動画を上げる前に、事務所の人に連絡はしたそうです。もちろん自室から携帯で」

「そのとき、事務所の方がどういう指示を出したかご存知ですか」

「ええ、確か『怪我をした事実は、できるだけ早くにファンに伝えるように』ということをあの子に言ってたはずです。後になって妹から口づてに聞いたことですけど」


 そこまで聞き丸多は、視線を上に向けながらソファーに背をもたせかけた。ここで〈美礼〉と〈シルバ〉それぞれに似た人物が映る、あの暴行動画を出そうか迷った。しかし、破られうる均衡(きんこう)があるとすれば、まだそれを破りたくない思いもあった。どのみち、刺激的な質問を避けることはできないのだが。


「そして」丸多が恐る恐る言う。「それから約一ヶ月後、美礼さんは亡くなってしまいました。気の毒に思いますし、ふさわしい言葉が見つかりません」

 皆川は丸多の気遣いを十分察したようで、今度は自らその成り行きを説明した。

「あの子の傷は、想像よりもずっと重いものでした。顔の怪我の回復は早いように見えましたので、私は事故以降、あの子の容体にあまり注意を払いませんでした。ですが内臓も傷ついていたのでしょう、それから腹痛を訴える日が何日かあって、一ヶ月後」


 その先はわかっていたので、丸多は何度か頷き、話の方向をわずかに変えた。

「すると、やはり美礼さんの死因は、階段からの転落だった」

「はい」皆川の語気には鋭さがあった。

「美礼さんはその5月の転落から、外出などされましたか。あるいは、誰か訪問者など」

「いえ、怪我をしてからは動画撮影を一切控えて、家にこもってました。その間、生活に必要な物は一揃い私が買ってきました。お見舞いには、中田さんや、UMOREのスタッフの方々が来てくださいました。特に中田さんは、とても熱心にここに通ってらっしゃいました。よほど、あの子のことが心配だったんだと思います」

「じゃあ」丸多は頃合いを見計らい、スマートフォンを出した。「この動画は全くの出鱈目なんですね」


 例の、金髪の男が茶髪の女に暴行を加える短い動画。皆川は、身を乗り出してそれを一瞥(いちべつ)した後、つまらなそうに言った。

「話になりません。中田さんは本当に穏やかで優しい人でした。私、中田さんが美礼に暴力をふるっているところは見たことありません。それに、あの子が中田さんから暴行を受けたなんてことも、聞いたことがないです」

「シルバさんは、動画では軽はずみな言動をする人物を演じてましたけど、裏では品行方正でいたんですね」

「そうです」

 皆川はやにわに立ち上がり、リビングを横切った。

「どうぞ、おうちの中をご覧になってください。シルバさんの事件の解決につながるような物があれば、こちらからお見せしたいほどです」

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