2. 2019年3年2日(土)⑨
舌が回り始めた北原の様子を見つつ、丸多は黙って話の続きを待った。すると予想通り北原はコーヒーを一口飲んだ後、滑らかに話し出した。
「丸多さんがさっき確認した通り、美礼が怪我の動画を上げたのが、約二年前の5月です。確か5月の初めだったと思いますが、シルバが深刻な顔をしてアパートに帰って来ました」
「その頃北原さんは、シルバさんと同居してたんですか」
「いえ、そういう訳じゃないです。僕は編集作業などするために、基本的には自宅からシルバの部屋に自転車で通ってました。忙しいときに泊まらせてもらうこともありましたけど、そんなに毎日毎日入り浸っていたということはないです。
その日も僕はシルバの部屋で動画の編集をしてたんです。十時過ぎくらいでしたかね、夜の。シルバは入って来るなり大きなため息をついて、畳の上に座り込みました。しばらくしても何も言わないので、僕から『どうした』って聞いたんですが、『お前は関係ない、心配しなくていい』と取り合ってくれませんでした。そして深夜、日付の変わる頃に、あの美礼の動画が上げられました」
「美礼さんは『階段から落ちた』と言っていました」
「はい。翌朝自宅でそれを初めて観たんですが、そのとき僕はパソコンの前で凍りついて、しばらく動けませんでした」
「何か二人の間であったんじゃないか、と」
「ええ、それと怪我のインパクトも大きかったですし、ふさぎ込んでいたシルバの様子を考えれば、何事かあったのは明らかでした。
それから僕はすぐにアパートに行って、直接あいつに問いただしました。本人も動画を観て、前日と同じように暗い様子でいましたが、受け答えははっきりしていて、割と素直に、怪我をした美礼と前日一緒にいたことを打ち明けてくれました」
「具体的に二人の間に、何があったんでしょうか」
北原は一呼吸置き、つぶやくように言った。
「さあ。あの頃あいつは落ち込んだり、いきなり喋り出したり、と情緒不安定でしたから。とても『実際、美礼と何があったの』なんて気安く聞けませんでした」
「そうでしたか」
「そうこうしているうちに、美礼が死んでしまったんです」
ここで二人は継ぎ足す言葉を失った。丸多は、むしろ一瞬間を置いた方がいいだろう、と思った。北原の様子を観察したが、大きな動揺はなさそうだった。それから丸多は考え込むふうにしてから、慎重に言い始めた。
「一ヵ月後くらいでしたよね、たしか。美礼さんが最後の動画を上げてから」
「そうです」
「お腹付近の内臓から出血して、それが原因で亡くなった、と聞きました」
「そうみたいですね」
「怪我と死の因果関係はあるんでしょうか。ええと、なんて言ったらいいんでしょう」
「ええ、ええ」
北原は丸多の問いたいことを察したようで、丸多が言うに合わせて小刻みに頷いた。そして答えた。
「美礼の死の直接の原因が、あの17年5月の怪我だったのか、ということですよね」
「そういうことです。そしてまた、そうでなかったとしたら、美礼さんは死までの一ヶ月の間、何か別のトラブルに巻き込まれたんだろうか、っていう」
「なるほど」
北原は、また少し間を空けたあと答えた。「美礼が亡くなる直前に誰かに襲われた、とかいう話は聞いたことないですね。僕らの周りに限っていえば、どちらかというと穏やかなものでした。シルバは美礼が怪我をした後、介抱のために積極的に彼女の自宅に通っていたみたいです。
ただ、それも虚しく、彼女は自宅で息を引き取りました。これは後になってシルバから伝え聞いたことですが、自室のベッドで冷たくなっている美礼を、同居していたお姉さんが最初に発見したんだそうです。17年6月のことですね。
すぐに救急車を呼んだけど、もう手遅れでした。救急隊員が到着したときにはもう帰らぬ人になっていました。質問の答えになってないかもしれませんが、美礼が死んだ時期について僕が知っているのは、大体そんなところです」
「わかりました、ありがとうございます」
そこで、約束されたような沈黙が自然と降りてきた。既に骸になった美礼がベッドに横たわる光景が、それまで美礼の死を一つの事実としてしか見ていなかった丸多の頭に生々しく浮かんだ。
かつて多くの観衆の視線を束ねたあの驚くべきエネルギーは、その肉体から完全に消滅してしまった。非業の死が運命に基づくものなのか、または、単に偶発的に起こる不運な事象の連鎖によるものなのかは誰にもわからない。どちらにせよ、一人の人間が残酷な結末を迎えたことに変わりなく、丸多は、抗いがたい万物の無慈悲な流れを思い、一時沈痛な感情に身を浸した。
「丸多さん」この空気の中、先に口を開いたのは北原だった。「ここまでで、何かこう、感想はありますか」北原は、先ほど丸多がしたのと同じ形式の質問をした。それに対しわずかな滑稽さを感じ、丸多はその場違いな笑いを噛み殺した。
「そうですね、美礼さんが亡くなった経緯はわかりました。今更ながら、惜しい人を亡くしたな、と面識がないながらも思いますね。ところで」
丸多に〈美礼〉の死を軽んじる思いは一切なかった。しかし一方で、そこから先へ進みたい衝動に消し難い強固さが伴っていた。
「また、別に確認したいことが一つあるんです」丸多は再びタブレットを取った。「北原さんが観たいものではないと思いますが」
画面には、丸多の操作によって一つの動画の再生画面が表示されている。
「北原さん、これ観たことありますか」
丸多が先ほど北原を待つ間に観た、あの金髪の男による暴行の場面を映した映像である。北原は丸多が意外に思うほど、一切顔色を変えずにそれを眺めた。そして、端末を返しながら、まるで論外とまで言いたげな口調で言った。
「ありましたね、そんな動画も」
「ここに映ってる男女二人は、やはりシルバさん、美礼さんではなく、全くの別人でしょうか」
北原は迷いのない動作でコーヒーを含んでから、答えた。「シルバが美礼に暴力を振るったとは、到底考えられないです。あいつは確かに口が達者なホストみたいな格好してましたけど、人に暴力を振るうような奴ではなかったです。なので、まあ正直僕もそういう動画の出どころはよくわかりませんけど、個人的に言わせてもらえば、多分そこに映ってる男女はそれぞれ、シルバでも美礼でもないと思いますね」
「そうですよね、失礼しました」
「いえ、実を言うと、そのことについて僕ら、一度だけ警察から事情聴取を受けたんです」
丸多は顔を上げ、北原の顔を見つめた。またしても吐き出される予想外の言葉に面食らううち、北原が先に言葉を継いだ。
「美礼が死んだ一週間くらい後に、もうその動画が出ていたみたいで、まずシルバが警察署に呼ばれました。あいつの場合半日くらいかかってましたかね、事情聴取に」
「そこでシルバさんが話した内容は」
「大まかなことはあいつから聞きました。ただ、今僕が丸多さんに話した以上のことはなかったはずです。もし別にシルバに過失があって、さらにそれをあいつが喋ってたんだとしたら、あいつは最悪、逮捕されていたでしょうから。でも実際そうはなりませんでした」
「確かにそうですね」
「それから僕の場合は短くて、確か二時間もかからなかったんじゃないかと思います。話す内容も、それこそ今話したことと一緒です。違うところといえば、同じ質問を何度も繰り返しされたこと、くらいですかね」
丸多の聞きたかったことがこれで一段落した。丸多は腕を組み、肺の空気を入れ替えようと、椅子の背にもたれた。時間をおいて眺めた店内は空いていて、一日の終わりが近いことを示していた。




