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1. 2019年3月2日(土)①

 特殊な夜の予感がし始めていた。


 我ながら思い切ったことをしたものだ、と丸多好景(まるたよしかげ)はそれまでの経緯を思い返した。目の前の丸テーブルには、冷めたコーヒーのマグカップが一つ。

 二百円で入れる新宿のカフェ。

 女子大生らしい二人組は次に行くスノーボード旅行の話を無邪気に響かせ、ビジネスマン風の男は薄いラップトップPCをにらみながら、熱心にキーボードを叩いている。


 俺が喫茶店に人を呼びつけるなんて、何年ぶりだろう。それも一度しか会ったことのない、ほぼ初対面といっていい人を。電車内の広告を飾る流行りの女優や、ブリーフケースを提げた大企業の採用担当がやって来るわけではない。来るのは五千人ほどのSNSフォロワーを抱える、いわば「半人気者」である。

 過度の気おくれは無用であると知りつつも、丸多の心臓は時間の奔流(ほんりゅう)に伴い、律動の間隔を徐々にせばめていった。


 丸多は他の多くの客がそうしているように、自前のタブレット端末を取り出し、その画面を眺めることにした。

 先ほど北原遊矢(きたはらゆうや)から、三十分ほど遅れるという旨のダイレクトメッセージが届いた。北原も北原で随分律儀(りちぎ)だった。

「丸多好景さん、大変申し訳ありません。家のダックスフンドが具合悪くしてしまいまして、三十分くらい遅刻します。申し訳ないです」


 丸多のフルネームをわざわざ打ち込み、さらに「申し訳ない」を二度も繰り返している。その上、文面の最後には汗のイラストの柔和(にゅうわ)な絵文字まで添えられていた。

 予想した通り温厚な人物であろう、と丸多はこれを読んでわずかながら安堵(あんど)した。だが、漠然とした懸念が完全に取り除かれたかというと、そうでもなかった。

 北原は本当に来るだろうか。丸多は刑事でも私立探偵でもなく、一介の会社員に過ぎない。情報提供の点においては、向こうが優位でいるのは明らかなのである。


「丸多さん、ごめんなさい、ダックスフンドを連れて行く病院が都内にはありません。遠方の病院を探さなくてはならなくなりました。だから、今日は行けません。また会いましょう。さようなら」というメールが来るのではないか、という不安はまだ、丸多の脳の奥にしつこくこびりついていたのである。


 これまでの経緯の「復習」というと大げさだが、北原が現れるまでの時間潰しのため、丸多は動画投稿サイトを開き「シルバ」で検索をした。そしてタブレットに、持参したイヤフォンを取り付けてから、出現したいくつものサムネイルのうち「背中が汚れていたら、通行人は知らせてくれるのか」と題したものを選択した。


 動画クリエイター[*1]の〈シルバ〉が路上に降り立つしぐさをするところから、その動画は始まる。

 サラリーマンとは一線を画するブリーチされた金髪。日焼けサロン通いを物語るムラのない茶色の肌。ふざける準備が整った薄ら笑い。ジャスティン・デイビス風のシルバーネックレス。ピアス。黒のTシャツ。金髪。


 この男を形容するキャッチコピーとして「私服を着た、毎日が日曜日のホスト」という文言が挙げられたとすれば、これほどふさわしいものはない。

 画面に上半身を収めた〈シルバ〉は、とある繁華街の一角においてやたらと大きな声で話し始める。


「はい、こんちは、シルバです。皆さん、服が汚れたまま歩いている人って見たことありますか?え、ない?」


 ここで〈シルバ〉が大げさに顔をしかめ、突然モノクロになった画面が大きく揺れた。また、この瞬間の効果音として、ピアノの鍵盤を一斉に押すことで出る、あの耳障りな低音が採用されている。編集ソフトによるこれらのたわいない演出のあと、〈シルバ〉が同じ調子で話し続ける。


「見たことありますよね、服が汚れたまま歩いている人を。僕、この前電車に乗ってたんですけど、ジャケットの(そで)に乾いたご飯粒いっぱいつけてる女の人を見かけたんですよ。あれって、自分ではなかなか気づかないんですよね。モデルみたいに綺麗な人だったんで、尚さらもったいないと思いました。そこで」


 〈シルバ〉が上体をのけ反らせて、一呼吸おく。そして、声を一段と大きくして言った。

「服に汚れをつけて街なかを歩いたら、誰か優しい人が知らせてくれるのか。気になります。やってみましょう」


 場面が切り替わり、歩道を一人で歩く〈シルバ〉が映し出される。動画のテーマ通り〈シルバ〉が着るTシャツの後ろに、食べかけのクリームパンが丸々一個くっついている。また、その中身であろう白いクリームが、肩から(すそ)にかけてべったりと付着している。パンは糸ででも縫い付けてあるのだろう、シャツの布地にぴったりと固定されている。


 〈シルバ〉は故意に速度を落として歩いていたが、彼を追い抜いていく人々の中から「汚れ」を指摘する者はなかなか現れなかった。時折〈シルバ〉が「なんか背中に違和感あるなあ、気のせいかなあ」とわざとらしく独り言を発したが、それでも声をかける人は出てこなかった。


 しばらく同様の状況が続いたらしく、動画は自動的に早送りされ、〈シルバ〉が信号待ちする場面で再び動画は通常に戻った。憂鬱(ゆううつ)そうな横顔を見せながら振り向く〈シルバ〉の姿とともに、画面下には「声をかけてもらえない26才(無職)」というテロップが表示された。


「ユウヤ、近づき過ぎ。もっと離れて」〈シルバ〉が撮影者にそう言うと、画面が素早く引いた。撮影者が距離を取った直後、画面端から現れた男性が唐突に声をかけた。


「すみません、背中に何かついてますよ」

「え、今なんて?」


 〈シルバ〉にとっても予想外だったらしく、その声はうわずっていた。言いながら〈シルバ〉は再び撮影者を呼ぶため慌てて手招きした。


「パンですよね、それ。背中についてるの」答えるこの男性が、実は丸多なのである。

「僕の背中が」〈シルバ〉が重ねて言った。「汚れてるの、教えてくれたんですか」

「ええ、まあ」


 〈シルバ〉は抑え気味の笑顔を浮かべたあと、自然界の新法則でもさぐり当てたような叫び声をあげた。

「教えてくれた!みんな、集合!優しい人が、俺の背中汚れてるの教えてくれた!」


 〈シルバ〉のこの合図と同時に、きっと無数にいる〈シルバ〉の後輩たちであろう、暇を持て余したような連中が画面の両脇からぞろぞろと湧き出てきた。そして、状況を飲み込めずにいる丸多はたちまち、彼らに取り囲まれた。


「あなたは優しい人です」〈シルバ〉がそう言うと、丸多の周囲の者たちはまばらな拍手を彼へ向けた。丸多はというと(かす)かに笑ってはいるものの、未だ困惑した様子で立ちすくんでいる。


「すいません」〈シルバ〉が丸多に尋ねた。「動画撮ってるんですけど、顏出しオーケーですか?」

「ああ、はい。構いませんけど」

 こうして改めて見ると、自分には覇気のかけらもないな、と丸多はタブレットを抱えながら自虐的に思った。


「何で」と〈シルバ〉。「僕の背中が汚れているって教えてくれたんですか?」

「いや、気づいてなかったら、かわいそうだなと思って」丸多は蚊が鳴くような声で言った。

「Tシャツのバックプリントだって思いませんでした?」

 思うわけねえだろう。丸多はこのとき、心の中でそう呟いたが、彼らと初対面ということもあり口には出さず、代わりに当たり障りのない返答をした。

「だって、パンまでくっついてますからね」


 再び場面が変わり、今度はいかにも満足した様子の〈シルバ〉が画面に現れた。最初の場所からは離れているようだが、今度も繁華街の外れの路上である。


「僕も歩いてる途中、このまま死ぬまでパンをつけたままでいないといけないんじゃないかと思いました。だけど、声をかけてくれる人が現れましたし、撮れ高もあって本当に良かったです。

 さっき名前を聞いたところ、マルタさんという方らしいですが、みんなもね、さっきのマルタさんみたいに、明らかに服の汚れに気づいていない人を見たらちゃんと教えてあげましょう。いいことしたら気持ちいいはずですし、そういうことを繰り返していけば多分、世の中から戦争はなくなります」


 〈シルバ〉は手に持っていたパンをかじり、締めくくった。「次回の動画では、ユウヤに寝起きドッキリで、腸内洗浄を仕掛けようと思ってます。じゃあまたな」

 撮影者である北原遊矢がこれに反応したが「俺にドッキリってバラしたら意味な」と、その音声は途中で切られた。そして、そのまま動画は終了した。



[*1]: 2010年代、インターネットの動画投稿サイトに自ら制作した動画を投稿し、広告収入を得る人々が出現した。特に、当時世界最大の動画サービス「youtube」を利用するクリエイターは「ユーチューバー」などと呼ばれた。

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― 新着の感想 ―
まだ1話目しか読ませてもらっていませんが、とても素敵な言い回しが多く、すぐにどんな状況か分かります!こんな素敵な作品を読ませていただきありがとうございました!
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