迷走回廊
昭和42年(1967年)正月、吉岡昇平は故郷、群馬の実家で新年を迎えた。初日は両親と兄弟の家族5人で、お節料理をいただいてから、兄弟で近くの神明神社と諏訪神社に初詣に出掛けた。昇平は、そこで出会った顔見知りの幼馴染み、岩井三郎、上原茂夫、中島史郎たちと、衆議院選挙についての話をして、尾形憲三代議士に一票を投じてくれるようお願いした。2日には森木圭一と中山高志と会って、彼らと一緒に知人巡りをした。川島冬樹や小野克彦にも会い、尾形代議士の応援を頼んだ。金井智久の所に立ち寄った後、小池早苗の家の近くを通り、計らずも早苗と出くわした。そこで、彼女にも尾形代議士への投票を依頼し、4日の正午、高崎で会う約束をした。3日の日には、前橋に嫁いでいる姉、好子が夫の河合正治と車に乗って新年の挨拶に来たので、家族と一緒に、その相手をした。その為、選挙活動をすることが出来なかった。姉夫婦は夕方になると、ライトバンに乗って、前橋に帰って行った。そんなこんなして、あっという間に正月休みの最終日の4日となった。昇平は、午前中、両親に東京へ戻る挨拶をして、実家を離れ、正午に高崎駅の改札口に行き、小池早苗と合流し、喫茶店『プランタン』に入り、近況を語り合った。早苗と話すのは1年ぶりだった。横浜の『オリエント機械』に勤める昇平と、高崎の『F電気』に勤める早苗との互いを慕う気持ちは続いていても、その燃え上がり様は時間の経過と距離感によって、弱火に変化していた。早苗が昇平に確認した。
「会社の仕事、慣れましたか?」
「うん。営業の仕事に少しずつ慣れて、出張も多くなった。今年は遠くへの出張が増えそうだ」
「順調にいっているのね」
「まあね」
「ところで1年前、私が東京に行く話をしたけど、1年間、昇平さん、何の便りもくれなかったから、私、どうしたら良いのか、ずっと悩んで来たわ。東京へ行ったら駄目かしら」
「早苗ちゃんは東京の厳しさを知ってる筈だ。僕はまだ横浜のちっぽけな会社に就職して、1年目を過ぎようとしているけど、自分1人で食べて行くのがやっとこささ。2人暮らしを始めて共稼ぎしても、飢え死にするかもしれない。僕が2人暮らしをする力を得るには、まだまだ時間が必要だ」
「そうは言っても、結婚適齢期と言われている25歳までに、結婚したいわ」
「それは早苗ちゃんのことだ。早苗ちゃんの勤めている会社には、早苗ちゃんを奥さんにしたい包容力のある男がいて、きっと早苗ちゃんに声をかけるだろうよ。結婚を急ぐなら、地元で自分を可愛がってくれる良い男を捕まえるんだな」
「捕まえるなんて、私には出来ないわ」
「なら待てば良い。早苗ちゃんなら、プロポーズして来る男がいっぱいいる。その男たちのうちの1人を自分の都合で見極め、自分の都合で、結婚相手として決めれば良いんだ」
「何、言ってるのよ。昇平さんは結婚する気が無いの」
「今の自分には、まだ結婚という将来の夢を抱くことが出来ない」
「意気地なしね」
「ああ、僕は意気地なしさ。そんなこと昔から知つているじゃあないか」
「そうね」
早苗は昇平から視線を外し、それ以上、何も話さなかった。言葉を発したら泣き出してしまいそうだった。昇平もゆっくりとコーヒーを飲み、黙っていた。沈黙の時間が過ぎ、昇平は時計を見た。東京へ戻る電車の時間が迫って来ているので、早苗に声をかけた。
「そろそろ、ここから出よう。電車に乗らないと、帰りが遅くなるから」
すると何時も笑顔の早苗がきつい顔をして言った。
「私、知っているのよ。昇平さん、東京に恋人がいるんでしょう」
「恋人なんかいないよ。こんな貧弱な男を誰が好きになるものか」
「なら良いけど。いずれ温かくなったら、私、東京に遊びに行くから、その時は付き合ってね」
「うん。待っているよ」
「ではお別れね」
昇平と早苗は『プランタン』での話を終えると、高崎駅前で別れた。昇平はコンコースへの階段を上り、コンコースの土産店に立ち寄り、磯部煎餅の手土産を数個、買った。そして駅のホームに移動し、上野駅行きの電車に乗った。上野に着いてから、山手線の電車に乗り、浜松町駅で下車し、麻布の深澤家に立ち寄り、新年の挨拶をして、手土産を渡したり、田舎の話をして、夜遅く『春風荘』に帰った。
〇
1月5日、吉岡昇平は、新年明け、初めて『オリエント機械』に出勤した。会社に入るなり、職場の上司や目上の人に新年の挨拶をして回った。その後、食堂に社員全員が集合し、磯部社長の新年の挨拶を聞いた。今期の経営計画と目標達成の核となる社員の信念について、磯部社長は語られた。昇平は兎に角、営業が全社員を牽引して行かなければならないと思った。食堂での磯部社長の挨拶が終わってから営業部に戻ると、川内部長から営業部員に訓示があった。成長に向けた受注への挑戦、新市場の開拓、技術革新についてなど、川内部長は熱っぽく語った。昇平は川内部長の熱い訓示に感動した。その訓示が終わると、部員一同、平常の仕事につき、昇平は親しい客先担当に電話で挨拶したりした。昼は再び食堂に集まり、仕出し弁当に酒の新年会を行い、ダルマに目を入れたりした。その後は和服姿の女性社員もいるので、解散。昇平は製造部の高野課長に誘われ、浜田課長、原田隆夫たちと麻雀屋に行き、麻雀ゲームをした。その麻雀屋には遠藤常務、岩崎部長、川内部長、岡田課長なども移動して来ていて、まるで社内にいるような雰囲気だった。麻雀は特攻隊の生き残りの高野課長の1人勝ちだった。総務部の浜田課長が大負けした。麻雀好きの遠藤常務や川内部長たちは夢中になって麻雀をしているが、昇平たちは適当なところで麻雀を終わりにして、バー『カトレア』へ飲みに行った。大負けした浜田課長が、先に帰った為、高野課長と原田隆夫と3人で、『カトレア』に入って行くと、ママの金田律子をはじめ、小松真由、及川綾乃、瀬戸胡桃たちが、3人を歓迎してくれた。麻雀で大勝した高野課長は上機嫌で、律子ママや真由たちを相手にテーブル席で、新年の乾杯をした。今年も高野課長が店に通ってくれることを期待し、律子ママは高野課長にお世辞を言って持ち上げた。真由も高野課長にぴったり寄り添い、甘え声でいちゃついた。正月から見ていられなかった。原田隆夫も高野課長を真似て、綾乃といちゃついた。昇平は胡桃を相手に、宮田輝アナウンサーと歌手のペギー葉山が司会を務めた『NHK紅白歌合戦』の思い出話をした。紅組の応援団長は南田洋子、白組の応援団長は長門裕之だった。紅組の歌手は美空ひばり、島倉千代子、江利チエミ、吉永小百合たちだった。白組の歌手は春日八郎、フランク永井、三波春夫、橋幸夫たちだった。すると律子ママや高野課長も昇平と胡桃の話に乗って来て、律子ママは何といっても美空ひばりの『悲しい酒』が一番だったと言った、高野課長は田代美代子の『ここが良いのよ』が男を燃え上がらせる歌だったと言った。真由と原田は加山雄三の『君といつまでも』が素晴らしかったと言った。綾乃は島和彦の『雨の夜、あなたは帰る』が胸にジンと来たと言った。胡桃は江利チエミの『私だけのあなた』が良かったと言った。昇平は岸洋子の『想い出のソレンツァーラ』が素晴らしかったと話した。そんな『NHK紅白歌合戦』の話の後、瀬戸胡桃は菊名のアパートに姉と住んでいて、日中は菊名駅近くの『東急ストア』で働いていると昇平に話した。姉に恋人が出来たので、姉と離れて一人暮らししたいなどと言った。それを耳にした高野課長が、無責任なことを口走った。
「なら、ヨッちゃんの所に転がり込んだら良いよ。1人暮らしで不自由していることが多いのだから」
「まあっ、ヨッちゃん、1人暮らしなの?」
「そうですけど、管理人がうるさいから、女性の出入りは禁止だよ」
昇平はきつい声をして、きっぱりと転がり込まれるのを拒否した。胡桃は疑いをもって昇平に確認した。
「そんなこと無いんでしょう。既に彼女と同棲しているのと違うの」
「同棲なんかしていないよ。僕は1人暮らしが好きなんだ」
「嘘よ。嘘」
胡桃たちホステスは、あれやこれや喋って、男性客たちとの会話を楽しんだ。酒に弱い昇平は、ホステスたちに飲まされて、フラフラになり、お先に失礼しますと高野課長と原田隆夫に言い、2人を『カトレア』に残し、綱島駅から東横線の電車に乗り、祐天寺駅まで行って下車し、『春風荘』に転がり込んだ。そしてバタンキュー。それでも翌日は2日酔いであるが、『オリエント機械』に出社した後、午後から遠藤常務、川内部長や岡田課長たちと日本橋の『オリエント貿易』に行き、大野常務や機械部の太田部長、山崎次長、石本課長や郡司、浅田、藤木、島崎、小林といった面々と新年の挨拶を交わし、その後、麻雀をする者と麻雀屋に行き、適当なメンバーの組み合わせで、麻雀ゲームを楽しんだ。昇平は『М大学』の学生時代、授業をさぼって、小平義之や松崎利男や下村正明に教えてもらった麻雀が、社会に出て、こんなに役立つとは思わなかった。こうして昇平の新年の仕事は始まった。
〇
1月7日、昨年の黒い霧問題で解散した衆議院議員総選挙の各選挙区での立候補者名が公示された。選挙制度は中選挙区制で、昇平の応援する尾形先生の地区では、相変わらず大物政治家が立候補し、大変だった。更に社会党や共産党の追い上げが心配され、厳しい選挙戦に突入した。立候補者の中の4位以内に入らなければ落選となる。一体どうなるのだろうか。そんな心配事をしている昇平のことなど知らず、日曜日になると『A電気』の菊池係長、広沢良夫、永井秀雄の麻雀メンバーが『春風荘』にやって来た。断りたいところであるが、麻雀道具が『春風荘』に広沢が運び込んだ広沢の所有物であり、『モエテル』の連中と『春風荘』で麻雀する時も、その道具を使わせてもらっているので、昇平としては断り難かった。『A電気』の気心知れた連中との麻雀は楽しかったが、貧乏生活をしている昇平は負ける訳には行かなかった。『オリエント機械』の客先や上司との麻雀には手心を加えたりするが、『A電気』のメンバーや『モエテル』の連中との勝負には厳しく対応した。結局、この日の勝負は菊池係長と昇平が勝ち、広沢と永井が負けた。麻雀が終わると、何時ものように中目黒駅近くの東横線ガード脇の居酒屋『秀次郎』で、店主の料理をいただき、酒を飲みながら、『A電気』の社内事情などを聴いたりした。菊池係長は、4月から、厚木事業所に移動する計画でいるとのことだった。広沢と永井は技術者で無いので、麻布本社に残るかどうか検討中で、どちらかというと転職したい様子だった。昇平は『A電気』の3人と飲んでいて、彼らが『春風荘』に遊びにやって来るのが、彼らの鬱憤晴らしであると分かった。そんな麻雀遊びの日曜日が終わると、昇平は『オリエント機械』の客先への挨拶回りを始めた。『オリエント貿易』の営業マン、藤木、島崎、小林といったメンバーと作った挨拶回りの計画表を基に、彼らと一緒に客先に同行した。昇平が新年の客先回りをしている間、田舎では、父の従弟の上原正義叔父や昇平の再従兄弟の吉岡恭司が、尾形先生の応援の為、走り回っていた。正義叔父は農閑期だし、恭司は郵便配達がてら、チラシを配ってくれていた。尾形先生には何としても、当選していただかねばならなかった。昇平は客先への挨拶回りの途中に神社を見つけると、必ず、そこへ行って、尾形先生の当選を祈願した。かくて1月29日の日曜日、第31回衆議院議員総選挙が行われ、その結果、昇平のような大勢の支援者たちの力によって、29歳の尾形憲三先生は選挙地区で3位の6万1千5百数票の得票数を獲得し、地区3位で当選した。4位当選は社会党の山口議員の5万票だった。前社会党議員の栗原氏と共産党の堤氏は落選した。翌30日の月曜日、昇平は『オリエント機械』に出社した後、午後から都内に出張し、公衆電話を使って、衆議院第二議員会館の『尾形憲三事務所』の矢野秘書たちに祝いの電話を入れたり、群馬の協力者たちに電話したりした。電話に出た者、皆が、尾形代議士の当選を喜び、政界での活躍に期待していると言ってくれたので、昇平はホッとした。ところが翌日、『オリエント機械』に出社すると別の悩みが発生した。川内営業部長が突然、朝一番で岡田課長以下、田浦係長、宗方主任と昇平の男性営業部員を会議室に集めた。川内部長の顔つきは何時もと違っていた。言葉を発する前から目に涙を溢れさせ、それを拭って言った。
「突然で申し訳ないが、一身上の都合で、明日いっぱいで会社を辞めることになりました。去年、営業部発足とともに営業部のトップとして諸君と一緒に営業活動に専念して来て、年初には受注目標を立て、成長に向けた受注への挑戦、新市場開拓など、共に頑張ろうと言っていたのに申し訳無い。その目標に向かって共に活動出来なくなり、誠に残念でならない。会社を辞める私の勝手を許して欲しい」
その突然の言葉を聞いて、昇平たちは驚いた。何も知らされていなかった岡田課長が川内部長に、会社を辞める理由を問いただした。
「ええっ。それはどういう事ですか。一身上の都合とは何ですか。何で辞めるのですか?」
すると川内部長は、少し落ち着き、『オリエント機械』を辞める理由を、岡田課長以下の営業部員に説明した。
「実は新井設計部長が、月末の臨時株主総会において取締役を剝奪されたからです。その為、新井部長の妹を妻にしている私も辞めることにしました。義弟の私としては会社を辞めさせられた義兄の新井部長を1人ぽっちにさせる事は出来ません。その為、皆さんとの新年の約束を裏切ることになりますが、明日でお別れになりますので、承知おき下さい。新井部長も私も全社員の前での挨拶は致しません。社員に私が辞めた理由を訊かれたら、連座で辞めたのだと言って構いません。『オリエント機械』はこれから発展する市場を相手にしています。皆さん、希望を持って頑張って下さい。岡田課長、後をよろしくお願いします」
「分かりました」
岡田課長は、それ以上、追及しなかった。川内部長は静かに言った。
「では、席に戻って、通常の仕事を始めて下さい」
川内部長が辞める話を聞いた岡田課長以下、昇平たち営業部メンバーは顔色を蒼白にして営業部の自分の席に戻った。向井静子や宮本知子が、会議室から戻った男性社員たちに何か訊きたいみたいだったが、皆、沈黙を守り、月末の伝票整理などの仕事に取り組んだ。異様な雰囲気の1日が過ぎ、翌日、川内部長は出社しなかった。岡田課長が営業部の女性社員、向井静子や宮本知子、受付の浅岡陽子らに川内部長が辞めたことを伝えた。しかし女性社員たちは驚かなかった。新井部長と川内部長のニュースは昨日の時点で、たちまち広がったらしい。昇平は会社員が会社を辞める時とは、こんなにも呆気ないものかと虚しさを感じた。川内部長には入社以来、いろんなことを教えてもらい、可愛がってもらった。その川内部長が、目の前から去って行ってしまうとは、残念でならなかった。
〇
2月1日、『オリエント機械』の月初の朝礼が、2階の大会議室兼社員食堂で行われた。社是社訓を唱和した後、磯部社長が挨拶し、日本経済の動向を語った後、新井設計部長と川内営業部長が退職したことを、社員に伝えた。そして司会の浜田課長から後任の部長の紹介があった。後任に就かれた部長はいずれも『オリエント貿易』出身で、設計部長が機械部にいた石本栄一課長、営業部長は合成樹脂部にいた伊藤琢也課長だったので、昇平は驚いた。浜田課長の隣に立っていた2人は、浜田課長から紹介を受けると、それぞれに挨拶した。その後、大野副社長が、社員に2人の就任について語った。
「先ほど磯部社長より、新井部長と川内部長が我が社から抜けた報告がありましたが、皆さん。心配しないで下さい。只今、紹介のありました2人の方に今日から設計部と営業部の要になってもらいます。設計部をまとめられる石本部長は『W大』工学部の出身で、機械設計に詳しい方です。営業部をまとめられる伊藤部長は『O大』の経済学部の出身で、今まで合成樹脂販売の営業をして来られましたので、今までと客先も重なり、営業部の皆さんを引っ張ってくれます。有能な両名を迎え、私は心強く思っております。安心して下さい。皆さん両名をよろしくお願いします」
昇平には商社出身の両名が、もと三菱重工出身の新井部長や日本電気出身の川内部長のように、プラスチック機械製造に関する深い知識があるようには思えなかった。自分が会社存亡の危機の渦中にいるのだと自覚した。群馬の山村から上京し、苦労して大学を卒業し、やっと手に入れた職場を失う訳には行かなかった。肝心な設計部長と営業部長が抜けた状態でも、客先に働きかけ、受注活動に邁進せねばならないと思った。また自分が受注してくれば有能な同期入社の設計者たちが対応してくれると信じ行動することにした。朝礼が終わると遠藤常務が伊藤部長を営業部に連れて来て、伊藤部長に営業部員を紹介した。伊藤琢也部長は営業部員にこう挨拶した。
「お早うございます。『オリエント貿易』から出向して来た伊藤琢也です。今日から私が営業部長として仕事を引き継ぎます。私は文系の出身であり、機械の構造などについては、全くの無知です。従って分からないことが多々あるかと思いますが、皆さん、私に教えて下さい。でも『オリエント貿易』に入社以来、営業畑の仕事をして来ましたので、客先との交渉は慣れております。皆さんと一緒に力を合わせ受注活動に頑張りますので、ご協力の程、よろしくお願い申し上げます」
その挨拶が終わると、遠藤常務が常務席に戻り、岡田課長が伊藤部長を窓際の営業部長席に案内し、2月1日の業務が始まった。月初めの仕事は前月の伝票整理など、向井静子や宮本知子とのやりとりで、一日中、忙しかった。あっという間に1日の勤務時間が終わり、昇平は同期入社の田中俊明と宮里敦司と声を掛け合い、3人で武蔵小杉の喫茶店『ブラジル』に行った。そこで、機械メーカーの大黒柱ともいうべき、新井設計部長と川内営業部長が辞めて、『オリエント貿易』から素人のような部長が派遣されて来て、『オリエント機械』は大丈夫なのだろうかという話になった。まずは田中が言った。
「僕は去年4月から新井部長の下で働いて来たが、あの人は三菱重工で零戦の設計をしていただけあって、その設計能力と現場指導力には、誰も太刀打ち出来ない。『オリエント貿易』から来た石本部長に同様な実戦力があるとは思えない。僕は数年で『オリエント機械』を辞めるつもりだが、君たちはどうするつもりだ?」
「俺は新井部長の後、斎藤次長が部長になり、俺の『Y大』の先輩、本間課長が設計次長になるのが常道だと思う。何も分からぬ商社マンが来て、設計部をまとめられるとは思えない。吉岡は、どう思う?」
宮里の問いに昇平は日頃、思っていることを、2人に言った。
「うん。僕も宮里君の考えに賛成だね。確かに新井部長は優秀で、ちゃんと設計した機械の試運転にも立ち会ってくれて、出来上がった機械に愛情を持って接している。しかし、その試運転に僕が加わり、製品にシワが出たり、不具合が発生すると、その原因が試運転を手伝っている僕の所為にしたりするので、僕は、それが嫌いだ。不具合点を素直に認め、改良すれば良いことなのに、自分の失敗が分かっていて、他人の所為にする。悪い性格だ。多分、その悪い性格の為に役員を剥奪されたんじゃあないかな」
「ところで吉岡のいる営業部の方はどうなんだ」
「川内部長は、もともと電気設計をしていた人で、機械や電気のことを、詳しく指導してくれて、僕には有難い上司だったよ。川内部長の後は上が抜けたのだから岡田課長が部長になり、田浦さんが課長になれば、それで良かったのではないかと思っている。しかし、上層部は岡田課長は若いから、『オリエント貿易』の伊藤部長を据えたのさ。『オリエント機械』の人事が『オリエント貿易』によって左右されるのは気に食わないね」
「そうだよな。でも俺も吉岡君も田中君と違って、直ぐ辞めるわけには行かないので、様子見ってところだよな。なあ吉岡君」
「うん」
昇平は頷いた。宮里の言うように様子見するしか仕方なかった。そんな不安を語り終えてから、昇平は2人と武蔵小杉駅前で別れ、東横線の電車に乗り、祐天寺に向かった。駅に降りてから、何時もの大衆食堂『信濃屋』に行こうとすると、何と祐天寺駅の改札口で川内部長が待っていた。
「あっ、川内部長」
「待っていたよ。何処かで話さないか」
「はい。今から、そこの食堂に入るところでしたので、そこの食堂で良いですか?」
「ああ、良いよ。そこへ行こう」
昇平は川内部長の了解を得ると、川内部長を連れて『信濃屋』に入った。すると店主の滝沢夫婦や丸山松雄、早坂桐子が、中年過ぎの川内部長を連れて来た昇平の姿を見て驚いた。昇平は何時もより大きな態度で桐子に言った。
「桐ちゃん。ビールと牛すじ大根、湯豆腐、焼き鳥、かまぼこ、お新香を頼むよ」
「はい、分かりました」
桐子は、そう答えると、店主夫婦たちのいるカウンターに行って、昇平から注文をいただいた品名を店主たちに伝えた。そして直ぐにビール瓶とグラスを盆に載せて運んで来て、2人を見つめ、どうぞと言って、2人のグラスにビールを注いだ。そのビールが注がれたグラスを手にして、川内部長が静かに言った。
「ありがとう。では乾杯しようか」
「はい」
昇平は何の乾杯かと思いながら、川内部長とグラスをぶつけ合い、ビールを口にした。その様子を滝沢店主はカウンターの中から、女房の勝江や板前の松男や桐子と視線を交わしながら、何事かと観察した。昇平が連れて来た川内部長は乾杯のビールをゴクッと一飲みすると、昇平の目を見つめて言った。
「実は、新井部長が、新会社を設立することを決めたんだ。従って私も、その会社で働くことにした。そこで、今、従業員の募集をしている。まだ秘密だが経理は設計にいた金子久子さんにお願いしている。設計は永田課長と米山係長から了解をもらっている。製造は横山君、矢崎君、沢田君の3名と交渉している。また技術サービスは相沢君、大松君、資材は加藤君と交渉している。ほぼオッケーだ。足りないのは営業だ。そこで吉岡君に是非、新会社のスタートに協力してもらいたいんだ。どうだろうか。給料は今の1,5倍出すから・・・」
「新会社ですか。なら僕のような若造で無く、岡田課長を誘ったらどうなんです?」
「岡田君は遠藤常務の親戚だ。遠藤常務が新会社に移って来ない限り、誘っても来んよ。どうかね、吉岡君。うちの会社に来ないか?」
「川内部長も御存知と思いますが、僕は叔父から紹介していただき、『オリエント機械』に縁故入社しました。そして叔父から、3年経過するまで、会社を辞めてはならないと釘を刺されています。ですので、申し訳ありませんが、無理です」
「そうは言わず、何とか協力してくれ。君が抜群の営業能力を持っていることは一緒に働いて来て良く知っている。新井部長も当てにしている」
「そうは言われましても」
「分かった。では新井部長と萩原さんの所へ行って、相談してみる。それから、もう1度、話し合おう」
「はい」
「じゃあ、楽しく飲もう」
川内部長はそう言って、何とも言えぬ笑顔で昇平と酒を飲んだ。川内部長はかってインドネシアに出張した時、インドネシアの女が股間を団扇で煽ぎ、男を誘う話などをして昇平を笑わせた。昇平は輸出に力を注ごうとしていた川内部長がいなくなって、『オリエント機械』の輸出は自分が頑張らないと継続出来ないと思った。そんな川内部長の話を聞きながら、川内部長が余りにも酒が強いので、その相手をするのに一苦労した。昇平は適当な時間を見計らって川内部長に言った。
「川内部長。遅くなりますから、もう帰りましょう。奥さんが心配されておられます」
「うん、そうだな。では、そろそろ帰ろうか。勘定。勘定」
「いえ、僕が払います」
「何、言っているんだ。安月給のくせに」
川内部長は、そう言って、『信濃屋』の勘定を、桐子に支払った。昇平は、店主や桐子に苦笑いして川内部長と外に出た。祐天寺駅の灯りが眩しかった。駅の改札口に入り、ふらふらして帰っていく元上司を見送り、昇平は何故か、男の哀愁を感じた。
〇
2月中旬、『モエテル』の仲間との会合が、銀座であった。昇平は都内出張を画策して、夕方、『モエテル』の集合場所の喫茶店『パリシェ』に行った。階段を上り2階にある『パリシェ』入って行くと、生命保険会社勤務の船木省三と音響機器メーカーに勤める岩野義孝、人工皮革靴販売会社勤務の細木逸郎の3人が、現在、勤務している職場での不満をぶちまけていた。3人とも現在、勤務している会社の職場が、自分と相性が悪いので悩んでいるとのボヤキだった。昇平もその席に加わり、自分が勤めている『オリエント機械』の上司が突然、会社を辞めて、新会社を設立するので、新会社に入らないかと誘われているが、どうしたものかと迷っていると話した。勤務1年目の昇平たちが悩み事を話していると、手塚、久保、梅沢、菊島、小平がやって来て、『パリシェ』の予約席は賑やかになった。そこへ『NA石油』の畑中鈴子、橋本美智子、林田絹子が現れると、更に騒々しくなった。昇平は何故、手塚や久保や梅沢が、グループ交際を行うのか理解出来なかった。大勢で集まって、喫茶店でコーヒーを飲み、長話して、スパゲッティを食べて帰る男女交際は、それなりに楽しかったが、その行く末を懸念した。いずれ、誰かが傷つき、グループ交際を終了し、解散するに違いないと思った。昇平は、そんなグループ交際でも、まあいいかと、時間がある時は、会合に顔出しした。女性3人の中で、1番人気のあるのは橋本美智子だった。彼女は身長が少し高めで、色っぽくて美人だったから、久保や梅沢や岩野が彼女に好意を持った。女性3人に男9人が群がるグループ交際は男が多すぎて奇異な交際だった。昇平が参加したその日の『パリシェ』での会合は、9時前に終了した。帰り際、昇平は畑中鈴子から声をかけられた。
「吉岡さん。一緒に帰りましょうか」
「そうだね。同じ東横線だからね。船木も途中まで一緒に帰ろう」
昇平はちょっと派手な東京生まれで奔放な畑中鈴子と1対1で帰るのが怖くて、船木を誘った。船木は鈴子に興味があるらしく簡単に同意した。すると梅沢がそれを真似て、橋本美智子に声をかけた。
「なら橋本さん。僕が橋本さんを送って行って上げるよ」
「まあ、嬉しい。じゃあ、丸の内線で帰りましょう」
その様子を見て、菊島と岩野が林田絹子に声をかけた。
「林田さんは僕たちが送って行って上げるよ」
その素早さに手塚と久保は呆気にとられ、ポカンとして、別の所に行って、飲み直すことにした。『モエテル』の連中は『パリシェ』前で解散した。昇平と船木と畑中鈴子は、それから銀座線の電車に乗り、渋谷まで出て、東横線の電車に乗り、畑中鈴子の下車する学芸大学駅まで行った。船木は鈴子に興味があるのであろう、彼女に甘い言葉を投げかけた。
「ここまで来たんだから、家まで送ってやるよ。美人の夜道の1人歩きは物騒だから」
「ありがとう。船木さんて優しいのね」
「船木が優しいの畑中さんだからだよ」
「まあっ」
昇平は船木を持ち上げ、船木と一緒に、五本木商店街に住む鈴子の家まで彼女を送り届けてやった。鈴子の家は岩野の実家と同じ、店舗などの外装業をしている看板を掲げていた。鈴子を送り届けてから、昇平は船木を連れて、五本木商店街から、『春風荘』まで歩いた。そして船木を『春風荘』に泊めた。船木は、『パリシェ』で話していた勤務先への不満を、布団に入ってから、再び語った。彼が悩んでいることが分かった。昇平も川内部長から誘われている新会社に移るか、悩んでいると話した。深夜過ぎまで悩みをぶちまけ、眠ったのは翌日の1時だった。目が覚めれば、もう朝日がカーテンの隙間から四畳半に射し込んでいた。船木は、昇平とココアを飲み、食パンにイチゴジャムを塗って食べ、リンゴをかじって、『春風荘』から出て行った。
「じゃあ、またな」
「お互い良く考えてから行動しようぜ」
「そうだな。ではまた」
船木は悩みを吐露してスッキリしたのか、元気な足取りで去って行った。昇平は、それから部屋掃除をしたり、洗濯をしたりして、午前中を過ごした。そして午後から、同人誌『新生』の夏季号に載せる小説の構想を練った。『新生』も『中央文学』と同じで、同人費の他に自分の作品を掲載すれば、その掲載料を支払わなければならないので、可能な限り、原稿用紙の枚数が少ない作品を書こうと構想を巡らせた。コタツ板の上に、ノートを置くと、2人の女のことが頭に浮かんだ。1人は大衆食堂『信濃屋』でアルバイトをしている早坂桐子、もう1人は『若菜病院』の看護婦、大橋花江。この2人の女性のイメージを持った2人の女性を登場させ、小説の執筆に入った。書き始めると物語は勝手に動き出す。そんな調子に乗ってペンを走らせていると、突然、1階にあるピンク電話が鳴り、それを受けた管理人の石川百合ママが昇平に声をかけた。
「吉岡さん、電話ですよ。吉岡さん、電話ですよ」
「は~い。今、行きます」
誰からだろう。昇平は部屋から出て、2階から階段を降りて、1階廊下の奥にあるピンク電話の置かれたテーブルの上の受話器を取った。
「もしもし、吉岡です」
「私、晴美です。寺川晴美」
「ああ、晴美ちゃん」
「昇平さん。今から、そちらにお伺いして、よろしいですか?」
「えっ。ここへ。何故?」
「お会いして相談したいことがあるの」
「そう言われても困るな」
「何故?」
「晴美ちゃんから別れの手紙をもらって、長い期間、君をわすれようと努力して来て、ようやく忘れられたのに、何んで今頃になって。それは困るよ」
昇平は冷たい返事をした。昇平が、そう突っぱねたが、それでも晴美は昇平に会いたがった。街の公衆電話から、自分に電話している晴美の姿が目に浮かんだ。晴美は執拗だった。
「お願い。冷たいことを言わずに、私と会って。どうしても会いたいの」
晴美の声は今にも泣き出しそうな声だった。彼女の身に何があったのか。昇平は晴美が真剣な声で夢中になって、お願いするので、仕方なく、彼女の要望に応えることにした。
「なら今から渋谷に行くよ。渋谷の『東急パンテオン』の近くにある喫茶店『フランセ』で待っていてくれ」
昇平は、そう言って電話を切り、小説の執筆を取り止め、背広姿に着替え、トレンチコートを引掛け、『春風荘』を出た。何時の間にか外は曇っていた。祐天寺駅から電車に乗り、渋谷駅に行き、東横線の改札口を出て、『東横デパート』と『東急文化会館』を結ぶ陸橋を渡り、『高野フルーツパーラー』の前を通り抜け、喫茶店『フランセ』に行った。晴美は、そこの2階席で昇平を待っていた。
「お久しぶり」
昇平が、声をかけると、晴美は頷き、大きく息を吸ってから言った。
「ごめんなさい。休み中に呼び出したりして」
「驚いたよ。晴美ちゃんから連絡して来るなんて。もう会うことはないと思っていたのに・・」
晴美は、そんな昇平の言葉に、勇気を得たようだった。昇平の懐かしい笑みを見て、緊張感がほぐれたらしく少し明るくなって昇平と話した。
「昇平さん、元気そうですね。私、変わったでしょう」
「そんなに変わっていないよ。でも、また会えたなんて夢のようだ」
「私も。勇気を出して、電話して良かったわ」
「僕の住所、良く分かったね」
「だって昇平さん、高校時代のあっちこっちの知り合いに、尾形憲三代議士をよろしくって、年賀ハガキを送ったでしょう。そのハガキを見せてもらって、現住所が何処なのか知ったの」
「ふ~ん。そうなんだ。ところで相談したいことって何?」
昇平が、そう質問すると、晴美の顔が瞬時に緊張した顔になった。昇平の顔をまっすぐに見つめて訊いた。
「また交際してもらえませんか。大学を卒業して、料理教室の助手として働いているのだけれど、友達が少ないから・・・」
「晴美ちゃん。何を言っているの。勝手すぎるよ。電話でも話したように、僕は君の別れの手紙に従い、君を忘れようと努力して来たんだ。私のことは忘れて下さい。君のあの手紙の文字を読んだ時の僕の胸は張り裂けそうだった。僕はあんな悲痛な経験を2度としたくない。『K大』の彼氏とうまく行っているんじゃあなかったのかい」
「私、迷っているの。彼に冷たくされて、別れを切り出されて」
「迷うことなんか無いよ。自分の人生は自分でしか面倒見られないのだから、自分で新しい道を見つければ良いのさ」
昇平は冷たく突っ撥ねた。
「今になって、貴男と、あのままでいれば良かったのにと反省しているわ」
「それが、良かったかどうかは分からないよ」
「だって、そうでしょう。そうだったら今頃、結婚について相談していたかも」
「何を言うの。今の僕は勤務先の会社の役員が分裂し、会社が倒産するかもしれないんだ。今の自分には、晴美ちゃんの希望に応えられる余裕など全く無いよ」
「だって、あの頃、将来、結婚したいって言っていたでしょう」
「うん。だが今は違う。自分の誇りを求めて、自分の道を行くことにしている」
「まだ作家になる夢を抱いているの?」
「まあ、そんなところだ。だから晴美ちゃんには自分の新しい道を探し出し、自信を持って、その道を進んで欲しい。そこには必ず新しい喜びが生まれる筈だから」
「分かったわ。その代わり、私が手紙に書いた、私のことを忘れて下さいは撤回するわ。私のことを忘れないでね」
「うん。分かった。忘れないよ」
「ごめんなさいね。休みなのに呼び出したりして」
「では、お互い元気に頑張ろう」
昇平は、そう言って寺川晴美を励まし、喫茶店『フランセ』を出た。昇平は『東急文化会館』の前で、彼女と別れ、その後、渋谷の街をふらついた。女心は分からない。
〇
3月になった。昇平は『オリエント機械』に勤務しながら、川内部長から耳にしている転職予定者の動向を窺った。昇平には彼らが昇平の様子を窺っている事も分かった。『オリエント機械』内には疑心暗鬼の雰囲気が漂い、状況によっては、社内が真っ二つに割れるかも知れない状況だった。だが昇平は入社して1年で会社を辞めたくなかった。社歴10年以上を積み重ねて蓄積して来た『オリエント機械』の実績は貴重なものだ。昇平は田端の俊夫叔父との約束通り、何としても、3年間、務めてみることにした。石の上にも3年。現在の状況が、どんなに辛くても、辛抱し、努力を続ければ、やがて好機が訪れると昔から言われているではないか。どんなに冷たい石の上でも、その上に、じっと居座っていれば、石の方が自然と温まって来る筈だ。昇平は自分のひ弱さや頼り無さから、自分の前から女が大勢去って行くのを見送り、自分は女にもてない男なのだと失望して来たが、それが自分の優柔不断さから来るものであると、何となく分かっていた。その優柔不断さは、恋愛においては、在っても仕方ないことであるが、サラリーマン生活においては許されぬことだと自覚していた。いずれにせよ、昇平は『オリエント機械』に居座り、会社の動向を見極めることにした。その為、昇平は万が一のことを考えておく必要があった。会社が倒産するような最悪のことを考え、経費節減の為、『恵比寿ダンス教室』でのダンスの練習を中止することにした。ダンス教室の女性教師、夏目綾香先生は、昇平が辞めるのを残念がったが、止むを得なかった。引地俊子も野球選手との交際が始まったということで、3月いっぱいで辞めるとの話だった。そうこうしているうちに月末になった。『オリエント機械』では24日の給料をもらってから、10人程が、退職願を提出して、会社を辞めた。彼らが3月24日に新井実臣社長が設立した『クリエイト機械』に移籍することは明白だった。そして4月になると、新卒者たちだけでなく、『クリエイト機械』に流出した者たちの穴埋めとして募集した中途採用者が『オリエント機械』に入社して来た。昇平たちは急に後輩が増え、何故か明るい気分になり、余裕も出来た。昇平は仕事を終えてから、同期の田中俊明や宮里敦司たちと、声を掛け合い、遊びに出かけた。田中は東京育ちなのに、遊びを知らなかった。その田中に比べ、『Y大』出身の宮里は昇平同様、麻雀もダンスも得意だった。だから昇平は田中が用事があって一緒でない時など宮里と新宿まで足を延ばし、『コマダンス』で女性を軟派したりして、楽しんだ。身長の大きい宮里は、湯便局に勤める身長の高い水木皆世と知り合い、昇平は『N女子体育大』の小野京子と親しくなったりした。『オリエント機械』が潰れるのではないかと心配していたが、設計部も営業部も正常に戻りつつあることから、昇平も宮里たちも安堵した。そんな昇平たちに、社内の女性たちから誘いがあったが、昇平たちは、東京へ行く用事があるのでと言って、断った。宮里は水木皆世と昇平は小野京子とのデートを楽しんだ。4月半ば過ぎになると、『モエテル』の連中から会合の知らせが入った。5月のゴールデンウイークに、『モエテル』の連中と『NA石油』のメンバーで1泊旅行を計画しているので、その為の会合だから、出席して欲しいとのことだった。昇平は、その会合に出席する為、銀座の喫茶店『パリシェ』に行った。昇平が『パリシェ』に入った後、『NA石油』の女性たち3人も現れ、ほとんどのメンバーが集まり、リーダーの手塚が、5月の長野への旅行を切り出すと、突然、橋本美智子が、思わぬ発言をした。
「5月の旅行は男性たちだけで出かけて下さい。私たちは参加しません」
その言葉を聞いて、旅行を計画していた手塚や久保はびっくりした。
「どうしたの急に?」
「私たちは今日、3人で相談して、皆さんとのグループ交際は今日で終わりにすることにしました。個人個人の付き合いは勝手ですが、グループでの交際は、今日で終わりにします」
「何でですか」
「私たちの仲間、樋口夏子さんが九州に帰ってしまい、私たち3人だけでは、貴男たち大勢を相手にグループ交際をするには無理があります。ですから、ごめんなさい。長野への旅行には参加出来ません。今日で終わりにして下さい」
「でも」
橋本美智子と親しい久保が、何か言いかけようとすると、畑中鈴子が、それを遮った。
「ミコちゃんが皆さんに伝えたことは、私たち3人で決めたことなの。女性たちと旅行したいなら、他のグループに声をかけてよ。皆さんの社内にも、いっぱい女性がいるのでしょうから」
畑中鈴子に、そう言われると、『モエテル』の男たちは何も言えなくなった。とても気まずい暗い雰囲気になった。それに耐えきれず、『NA石油』の女性たちは、お先に失礼しますと言って、『パリシェ』から出て行った。『モエテル』の連中は、どうしたのだろうかと、首を傾げた。結果、5月の連休に、グループで長野に出かける計画は中止になり、昇平は、手塚や岩野たちとの長野行きに参加しないことにした。他の連中も女性たちがいないのではと、半分以上が不参加を表明した。『パリシェ』での会合が終わってから、『モエテル』の連中は銀座のバー『アモーレ』に飲みに行ったが、昇平は酒が弱いし、金も無いので、用事があるからと言って、『パリシェ』の前で、仲間と別れた。それから新橋に移動し、地下鉄の新橋駅から渋谷に向かった。銀座線の電車内は大勢の人たちで混雑していて、渋谷駅に降りるとホッとした。そして銀座線改札口から東横線の改札口に移動した。と、何と、その東横線の改札口で畑中鈴子と林田絹子が、昇平が現れるのを待っていた。驚く昇平に鈴子が言った。
「お疲れ様でした」
「こちらこそ」
「皆さん、どうされました?」
「うん。がっかりして、飲みに行ったよ。僕は飲めないから先に帰って来た」
「そう。ちょっと良い。私たちのこと、誤解されるといけないから、吉岡さんに伝えておきたいの」
「うん。良いよ。何?」
「ここでは話せないから、喫茶店で話しましょう」
そう言われ、昇平は鈴子たちの指示に従った。鈴子は昇平と絹子を連れて、渋谷駅からハチ公前を通り、交差点を渡り、原宿方面に向かった地下にある喫茶店『らんぶる』に案内した。遅い時刻なのに、店内は混雑していた。そこでコーヒーを飲みながら、鈴子が、グループ交際中止の理由を語った。
「実は、ミコちゃんがグループ交際に大反対なのよ。理由は、この前の会合の帰り、ミコちゃんが梅沢さんに送ってもらうことになったでしょう。その電車に乗る前にミコちゃんは梅沢さんに散歩しようと誘われて、日比谷公園に行って変な事になりそうになって、逃げて帰ったらしいの。ご存知かも知れないけど、ミコちゃんは久保さんが好きなのよ。久保さんだって、ミコちゃんのことが好きなんじゃないかと思うの。でも梅沢さんもミコちゃんに気があるし、グループ交際しているとこんがらがっちゃうから、『モエテル』の皆さんと別れることにしたの。これが吉岡さんに伝えたかったこと」
「ありがとう。グループ交際中止の理由、分かったよ」
昇平は鈴子の話を聞いて、梅沢哲夫と橋本美智子との間に揉め事があったことを知った。誠実に見える都庁勤めの梅沢にも、女性を手籠めにしようとする欲望があっても不思議ではない。梅沢だって男なのだ。昇平は女に嫌われる梅沢を気の毒に思った。
「でも私たちは船木さんや吉岡さんと、今まで通り、付き合って欲しいわ」
「うん、分かった。ところで、林田さん、こんな時刻に渋谷になんかいて良いの。最終電車が無くなるよ」
「今夜はスズちゃんの家に泊めてもらうことになっているから大丈夫よ」
「そうなんだ。僕は麻布の家に居候していた時、外泊して、さんざ叱られたよ」
昇平が、居候時代の話をすると、鈴子が昇平をからかった。
「まあっ、そうなの。彼女の所に泊まったりするからよ」
「いや、違うんだ。松崎や船木の所に行って、麻雀したり酒を飲んだりしていたんだ」
3人は、そんな話を済ませてから、喫茶店を出て、渋谷駅に行き、東横線の電車に乗って帰った。昇平は祐天寺駅で下車し、隣り駅で下車する2人を見送った。翌日、東京都知事選だったが、昇平は住所移転していなかったので、都内に暮らしながら都知事選とは関係なかった。都知事には革新の美濃部亮吉が選ばれ、昇平の予想とは異なった。
〇
5月になり、昇平は5月3日から7日までのゴールデンウイークを『モエテル』の連中との長野旅行に参加せず、群馬の田舎にも帰らず、都内で過ごした。3日の憲法記念日は小野京子と、新宿で過ごした。京子は『N女子体育大』の学生で、将来、中学の体育の教師になることを目指していた。小鹿のような可愛い女子大生は、何故か妹のようだった。彼女は川口にある自動車修理会社の娘で、両親と2人の兄と暮らしていた。その兄の1人がボクシングに憧れ、ジムに通っているというので、何故か乱暴な家族の1人娘のような気がして昇平は腰を引きながら、彼女と付き合った。彼女は、ダンスを上手に踊りたくて、ダンスの出来る昇平と一緒に『コマダンス』や『新宿ステレオホール』で踊った。『コマダンス』のダンス曲はクラッシック曲が多かったが、『新宿ステレオホール』は有馬徹とノーチェ・クバーナなどのバンド演奏によるジャズやラテンのリズミカルな曲が多かった。京子と昇平の交際は火遊びのようなものだった。5日には大橋花江と渋谷の『ハッピーバレー』で踊った。大橋花江とのダンスは小野京子とのダンスと違って、ゆったりと踊っていられるので、緊張せずに済んだ。彼女のリードに従っていれば、それで良かった。ダンスの後、花江が『春風荘』に来たがったが、昇平は、それを断った。
「ゴールデンウイーク中、管理人のママが、中目黒のバー『百合』を休みにしているので、そのママが従業員ホステスたちを僕のアパートに集めて、ポーカーゲームなどしているから、僕の部屋の利用は無理だよ」
「そう。なら渋谷で過ごすしかないわね」
大橋花江は、そう言って、昇平の前に立って、道玄坂のラブホテル『ムーンリバー』に向かった。そこへ向かう途中の道路は『東急デパート』本店の建設中で歩き辛かった。やっと辿り着いた『ムーンリバー』は、ゴールデンウィーク最中とあって、満室だった。昇平と花江は仕方なく、ラブホテル街の部屋を探し回り、ようやく『ハピネス』の部屋を探し当てた。昇平と花江は久しぶりに会い、『ハピネス』の鏡付きの部屋で、もつれ合った。花江は相変わらず大胆だった。花江は昇平を迎え入れると激しく腰を上下させて昇平を喜ばせるとともに、昇平の物体を受け入れての気持ち良さに、ヒイヒイ喜悦の声を張り上げた。昇平に攻撃されて、その快感にのたうつ花江の狂態は、たちまちにして昇平を燃え上がらせ、昇平の若々しい精力を、2度も奪い取った。そして、『ハピネス』で満足して外に出ると、花江は昇平を寿司屋に連れて行ってくれた。花江の奢りだった。見とれるような鮮やかさで、若い職人が差し出してくれる鮨が、花江と共に頑張った所為か、昇平の食欲をそそった。2人は今日の遊びにも食事にも満足して渋谷駅前で別れた。昇平は花江と別れて、東横線の電車に揺られ、車窓に流れる灯りを見送りながら、故郷の小池早苗やあの寺川晴美はどうしているのだろうかと思った。2人とも新しい恋人が出来て、昇平のことなど忘れているに相違なかった。昇平は祐天寺駅で下車して、『春風荘』に戻ると、直ぐに書きかけの小説の執筆に着手した。
〈 ①
大学3年生の春、山口健太郎は川崎一郎、中西直樹、関根鉄平たちクラスの仲間から、伊豆大島に遊びに行こうと誘われた。しかし健太郎は大勢で馬鹿話をしながら、何日も過ごすのが嫌いで、彼らと一緒に旅行に行く気になれなかった。それよりも一人で美しい自然の中で野鳥のさえずりでも聴いていた方が良かった。そんなクラスの仲間からの旅行の誘いを教室で断っている健太郎を見て、服部珠代、田村蒔絵、岡上冴子たち女性陣が笑った。
「山口君て、何で皆とのお付き合いが出来ないのかしら」
服部玉代の質問に田村蒔絵が答えた。
「母親離れが出来ないでいるのじゃあないの」
「そんなこと無いんじゃあないの。むしろ1人でいるのが好きなんじゃあないの」
「それとも、何処かに彼女がいたりして」
「まさか」
「じゃあ、私が声をかけてみようかしら」
「それは面白いわね。やってみたら」
服部珠代と岡上冴子に後押しされ、健太郎に興味を持つ田村蒔絵は数日後、健太郎に声をかけた。
「山口君。私、5月の連休、暇なの。私と一緒に何処かへ行かない?」
「突然、何だよ。びっくりするじゃあないか」
「だって、貴男、川崎君たちとの伊豆大島行き、断ったでしょう」
「うん。俺、団体行動、嫌いなんだ」
「だったら、私と付き合って」
「ごめん。俺、連休中にしたいことがあるんだ」
「したいことって何よ」
「それは言えないよ」
「まさか」
「まさかって何だよ」
「だってさ。男のしたいことって、想像つくから」
「馬鹿な事、言うのじゃあないよ」
健太郎は、そう言って怒った顔をした。だが内心では田村蒔絵が、粘着くような色っぽい態度で、自分に話しかけて来てくれたことが嬉しかった。そんな言い寄って来た蒔絵を突っぱねた事を、健太郎は後になって、惜しいことをしたと思った。その2日後、今度は岡上冴子が健太郎に声をかけて来た。
「山口君。田村マキちゃんの誘い、断ったのですってね」
「あいつ、そんな事を君に話したのか。それが、どうしたっていうんだ?」
「私、連休、軽井沢で過ごすの。何時もなら家族で行くのだけれど、お父さんの仕事が忙しくて、母も行けないので、私が1人で、山荘の掃除をするの。もし都合つけられるのなら、山荘の掃除、手伝ってもらえないかな」
「うん、そうだな。2日間程度なら手伝えるよ。何時、行けば良い?」
「3日が良いかな」
「分かった。軽井沢の住所と電話番号、ここに書いてくれ」
健太郎は、そう言って、カバンからノートを取り出し、そこに軽井沢の山荘の地図と住所、電話番号などを書かせた。それから神保町の喫茶店に入り、2人でコーヒーを飲んで軽井沢の話などをした。
②
山口健太郎は5月3日、上野から信越線の汽車に乗って軽井沢に行った。駅から地図を頼りに、岡上家の『モミの木山荘』に行った。辿り着いた『モミの木山荘』の庭には、クローバーが白い花を咲かせており、リラの薄紫の花も咲いていた。春の若葉は健太郎に若々しい香りを送った。岡上家の山荘の庭は広く驚くほど美しい。白いYシャツ姿の健太郎はその庭の中をまるで紳士のように胸を張って、玄関に向かって歩いた。珍しい若者の来訪に名も知らぬ野鳥が、近くの梢に来てさえずり、健太郎は一瞬、足を止めたが、直ぐに思い出したように山荘の玄関に向かった。真紅のバラが咲く玄関前に立つと、あたりはひっそりしていて、まるで留守のようだった。庭の右側にある芝生の中の枯れた噴水の畔では、赤い三毛猫が涼んでいた。その三毛猫は健太郎を見て、1度だけ、ニヤーンと啼いただけで、それ以上、啼こうとしなかった。大きなモミの木の下の冷んやりした木陰の中には、白い鉄製のテーブルと椅子が忘れられたように置かれてあった。健太郎は、こんな森の中の赤い屋根の山荘で、岡上冴子と会うのが急に恥ずかしくなった。山荘の脇には森の奥から流れて来る小川があり、そのせせらぎが、何故か哀愁曲のように聞こえた。健太郎は、その音にもまた足を止められたが、勇気を出して玄関ドアに手をかけた。金属製の握りは春になっているのに冷たかった。その握りを引いて健太郎が玄関ドアを開けようとしたが、ドアは開かなかった。健太郎はどうしたことかと、泥棒のように辺りを見渡した。先ほど一啼きした猫は、素知らぬ顔で眠っている。健太郎は玄関の右上に呼び出しブザーがあるのを見つけ、そのボタンを押した。そして鳴ったブザーの音は何故かくたびれたような音だったが、健太郎と約束した岡上冴子が、玄関ドアを開けた。彼女は健太郎の顔を見て、にっこりとほほ笑んだ。
「ボンジュール。アントレ(お入りなさい)」
彼女は2年間、第2外国語で勉強したフランス語で言った。すると噴水の畔で居眠りをしていた三毛猫が、冴子を見て、ニヤーンと啼いた。冴子は猫の方に手を伸ばした。
「ルイ、ルイ。アントレ」
冴子が三毛猫の名を呼ぶと、三毛猫は緑に輝く芝生の上を走り、真紅のバラの脇を通り、玄関に立つ、冴子の細い足にまとわりつき、今まで、日光浴で温めていた背中を、冴子の足にこすりつけた。すると冴子は、しゃがんで、その小さな三毛猫を細く白い手で、まるで洗濯物を洗濯機から取り出すような格好で持ち上げ、その胸に抱いた。
「ジュテーム・ルイ」
冴子に、そう声をかけられると、猫はニヤーンと啼いた。ルイはフランスの男の名前だった。冴子はルイに頬摺りしながら健太郎を部屋に招き入れた。健太郎は、そんな彼女が進んで行く廊下を、黙って彼女の後をついて行った。冴子は最初に1階のリビングルームに案内し、健太郎を食卓の椅子に座らせた。それからルイを放し、紅茶を淹れてくれた。山荘の中は山荘の庭よりもヒンヤリしていた。健太郎は軽井沢駅前の商店街で買ったイチゴを冴子に渡しながら言った。
「随分、片付いているじゃあないか」
「ええ、家の中は私が掃除したから。問題は裏庭なの。冬の枯れ枝が散乱していて、大変なの」
「分かった。どう片づけるか、俺に指示してくれ」
「ええ、ゆっくり紅茶を飲んでからね」
健太郎は、冴子に、そう言われて、ゆっくりとカステラをいただき、紅茶を飲みながら窓の外の景色を眺めた。山荘を囲む森の緑が輝き、都会の喧騒から離れた自然の美しさは、貧乏学生の健太郎が日々、感じている重圧から解放してくれた。紅茶を飲み終えると、健太郎は東京から持ってきた作業着に着替え、冴子と裏庭に足を運んだ。山荘の裏庭は、それ程、広くないが、山の斜面に桜や椿や楓やマユミなどの樹木が勝手に枝を伸ばしていて、その根元の茨の生えた草むらの中に、冬場の雪などで落下した枯れ枝が散乱していた。結構、太い枝もあった。健太郎は軍手をはめ、それらの枯れ枝を斜面から平地に運び出し、太いものはノコギリを使って、40センチ程度に切断し、細い枝は手で折って、裏の倉庫脇に積み重ねた。冴子もその積み重ね作業を手伝い、夕方前に裏庭の作業を終えた。部屋に戻ると、冴子はリビングルームの薪ストーブに火を点けながら言った。
「夜は、寒いから、ストーブを焚くのよ。山口君のお陰で、沢山、薪が出来て助かったわ」
「ふうん。5月になっても、ストーブを焚くんだ」
「そうよ。軽井沢は寒いの」
冴子は、こまめに良く動いた。健太郎が、テレビを見ている間、風呂に火を点け、カレーライスを作り、野菜サラダ、ハムエッグ、スープも準備した。健太郎を山荘に迎える為に、あらかじめ用意していたらしい。そして食事の準備が整うと、シャンパンをワイングラスに注ぎ、健太郎に声をかけた。
「では、いただきましょう。乾杯」
「乾杯」
何に乾杯なのか、健太郎には分からなかったが、兎に角、冴子と乾杯をした。それから将来の夢について語り合った。健太郎は大手商社に入社し、海外勤務を経験したいと話した。冴子は航空会社に勤め、スチュワーデスになりたいと語った。美味しい夕食が終わると、2人は健太郎が持参したイチゴを食後のデザートとして口にした。
「まあっ、甘い」
そんな甘い夕食が済むと、冴子は山荘の2階がどうなっているか健太郎を案内した。リビングルームの脇から階段を上がったところの2階には部屋が3つとトイレがあり、まるで『春風荘』のような、部屋の配置だった。彼女の部屋は2階の隅の部屋で、部屋のドアが開けっぱ放しになっていた。健太郎は、冴子に連れられ、その部屋に入った。六畳ほどの部屋で東と南に窓があった。その東の窓のすぐ外にはリラの薄紫の花を咲かせた枝が誰かを慕うように窓に向かって伸びて来ていた。南の窓からは、『モミの木山荘』の絨毯のようなグリーンの芝生の庭と、黄昏の森と、町の灯りが眺められた。部屋のカーテンは冴子が選んだのか、小さな草花が散りばめて描かれているピンクとグリーンとブルーの混交した色のカーテンだった。部屋の白い壁には、冴子が描いた作品であろうか、湖の背後に浅間山が薄煙を吐く油絵が飾られていた。健太郎は冴子の部屋の隅々まで目を通した。押し入れ、クローゼット、ベットの他、脇机に置かれている人形や時計やカレンダーまでも確認した。冴子は小猫を抱き、部屋の中央に立ち、小猫を愛撫しながら、自分の裕福な生活を自慢するかのように笑っていた。健太郎は部屋の内部の見学を終えると、東の窓から顔を突き出し、目の前にあるリラの花の香を嗅いだ。そして窓から手を伸ばして、そのリラの枝を手折った。健太郎に手折られたリラの枝の花は、『モミの木山荘』の庭に吹き込んで来た風の中で震えた。冴子は花の匂いを嗅ぐ健太郎をちらっと見て言った。
「素敵な匂いでしょう」
「うん。何とも言えない匂いだ」
「リラの花言葉は『初恋の香り』とか、『愛の芽生え』って言うのよ」
冴子は色っぽいうるんだ目をして健太郎を見つめた。その言葉を受けて、健太郎は冴子に接近し、彼女の後ろに回り、リラの花の香を嗅がせる為に、彼女の背後からリラの花枝を差し出した。冴子はそのリラの花の香を嗅ぎ、健太郎を身近に感じた。ところが冴子の腕に抱かれた小猫は違った。小猫は怒るようにリラの花を引っ搔いた。薄紫のリラの花が部屋の中にこぼれた。それを見た冴子は驚いて、小猫のレオを手放した。その冴子を健太郎は正面から抱きしめた。冴子は健太郎の腕の中に抱かれながら部屋にこぼれたリラの花を見つめた。健太郎は腕に力を入れ、リラの花では無く、自分を見つめさせた。小猫は窓辺の脇机の所に移動し、そんな2人の様子を、ニャンとも啼かず窺った。健太郎は戸惑っている冴子の花びらのような唇の上に自分の厚い唇を重ねた。冴子は健太郎の胸に抱かれ、何かを祈るように肩を縮めた。
「愛の芽生えとは良い花言葉だ」
健太郎は冴子の耳元で、そう囁き、冴子を片手で抱かえたまま、一方の手を彼女の懐に入れ、彼女の白い乳房に触れた。冴子は健太郎に乳房を触れられ、真っ赤になり、健太郎の誘導に従った。やがて冴子の着ていたワンピースは関節を外したように、すっぽりと肩から外された。健太郎が弄ぶ二つの白い乳房の間には、真珠のような汗が、数個、転がっていた。健太郎は、その真珠の汗を吸うように、その乳房の谷間を舌でなぞった。冴子は健太郎の愛技をこらえて、まるで呼吸が止まっているようだった。続いて健太郎は風船のような乳房に挑んだ。その柔らかな風船から跳び出ている乳首を健太郎が吸うと、彼女はあえぐように胸を突き出し、自ら自分のベットの上に健太郎を誘い込み、仰向けに寝転んだ。健太郎は冴子に導かれるまま、彼女の上に覆い被さった。健太郎は重い自分の身体が、華奢な冴子を押し潰しはしないかと心配した。冴子が唇を求めた。健太郎は求めに応じ、そっと唇を重ねた。その様子をキョトンと見ていた三毛猫、ルイが突然、ベットの上に跳び上がって来て健太郎の足の踵に噛み付き、ふくらはぎを引っ掻いた。健太郎は、そのルイを蹴飛ばした。するとルイが怒って、冴子の足にじゃれついた。冴子は、それを適当に足蹴りして追い払った。健太郎はルイが邪魔するので、冴子との行為に熱中、出来ず、冴子の上から離れ、立ち上がると、ルイを部屋から蹴り出した。そして部屋のドアを閉めて、ベットの上で裸で寝ている冴子を見た。健太郎の熱い接吻を受けて、既に興奮状態に入っている冴子は、その健太郎を見て瞼をほんのり染めて、哀願した。
「行かないで。行かないで。お願い」
「心配するな。俺は何処にも行かないよ。今夜は君と一緒だ」
健太郎は邪魔な三毛猫を部屋から追い出すと、再び冴子の上に重なった。そして足の爪先から頭のてっぺんまで愛欲に燃えている冴子に再び接吻した。健太郎には何故か彼女の唇が震えているのを感じた。その震えの中で冴子がまだ哀願の言葉を繰り返しているように思われた。
「行かないで。行かないで。お願い」
その声は母親の胎内から抜け出し、母親の母体の乳房から離れて成長し、自分の乳房を子供に与えようとする女の叫びみたいだった。母性を欲する愛欲の叫びのようだった。健太郎はそんな母性本能に目覚めた冴子の総てを、始原的陶酔、自己感覚に任せた。これが冴子のクラスメイト、田村蒔絵や服部珠代たちが、嫌やらしいと非難する異性との行為なのか。動物と同様、人間が有する本能的な異性との始原的行為、神聖な行為は、そんなに醜い行為なのであろうか。健太郎には冴子が自分を『モミの木山荘』に誘った感情が今まで分からなかった。分からなかったどころか、その本性に気づき、欲情の行為に没入しながら、その没入の最中において、彼女の企みを蔑視した。その反面、現実的自己存在と、現実的死と現実的蘇生を知覚させてくれる冴子に対して、深い愛着を感じた。この故知れぬ情欲がもたらす霧のような混沌が冴子の肉体の何処から湧いて来るのだろうか。健太郎は這い蹲って、その霧の発生源を探した。何と、その情欲の霧は冴子が開脚する股間の亀裂の奥の泉から湧き上がっていた。健太郎は探り当て目にした泉の淵が、まるで溶岩流のようにドロドロと赤く光っているを凝視して、死を予感した。その死を恐れる健太郎の心に、種を蒔かなければ、自己生命を継続させられないというような使命感が生じた。健太郎は植物が自らの枝を揺すり、大地に種を蒔く理由を理解した。植物の蒔種と同様、自らも天地間の上下変動によって、相手と呼吸を合わせ、調和し、結合し、種蒔きすべきだと考えた。健太郎は反復運動を繰り返す大地のうねりに揺すられ、大地に振り飛ばされないように、一層、強くしがみついた。大地はそれを喜び、燃えて浮動した。健太郎は、その浮動の波に巻き込まれ、気を失った。総ての物を放出し、深い深い暗黒の中に落ち込んで行った。それは一瞬の死だった。気が付けば部屋の中に薄紫のリラの花びらがまだ散乱していた。ドアの外では、三毛猫のルイがニャンニャン啼いていた。恍惚の表情をして寝ている冴子は、健太郎の横で、のたうち、まだ夢見心地のままだった。健太郎はじっと動かず、部屋の天井を見つめ、行為の虚しさを感じた。それは燃えた後の虚しさだった。自己喪失後の虚しさだった。だが冴子は違った。得るものを得て、満足し、更に愛の恵みを欲しがっているようだった。健太郎は空虚な眼差しで、冴子を見下ろし、改めて部屋に散ったリラの花を美しく愛しく感じた。それは永遠の繰り返しを象徴する『愛の芽生え』の美しさだった。総ての花が含有している生存への美しさだった。
➂
翌朝、健太郎は、冴子とまた同じことを繰り返した。その後、風呂に入り、身を清めてから、ゆっくりと朝食をいただいた。食堂でコーヒーを飲み、バターをこってり塗ったパンをかじり、野菜たっぷりのサラダをいただきながら、部屋の中から、『モミの木山荘』の庭を眺めた。緑の芝生が朝露を浴びて光っている。健太郎は、昨日のことを思い出し、胸の内で呟いた。
「俺はあの庭を通って、訪ねて来たのだ。山荘には冴子以外に誰もいなかった。強いて言えば、小猫のルイと高原の小鳥と蝶々がいたくらいだ」
そんな健太郎を見て、冴子が訊ねた。
「ぼんやりして、何、考えてるの」
「うん。午前中に、あの白樺の枝の手入れをして上げようかと思って」
「まあっ、ありがとう。あの白樺の木は私の小学校入学の年に植えた記念樹なのよ」
「そうなんだ。大切な木なんだね」
「私と一緒に成長しているの」
「なるほど」
健太郎が、そう言って笑うと、冴子は何よという顔をした。健太郎は、朝食を済ませると、作業服に着替え、庭の白樺の木の剪定を行った。その後、庭と森との境の雑草を草刈鎌で刈った。昼近くになると、庭作業をする健太郎に冴子が、声をかけた。
「そろそろ時間よ
「そうだね。じゃあ、帰る準備をさせてもらうか」
健太郎は、玄関脇に移動し、作業服を脱ぎ、Yシャツ姿に着替えて、部屋に入った。『モミの木山荘』に来る時、持って来た作業服などをボストンバックに詰め込み、帰り支度をした。冴子も白いブラウスに水色のスカートに着替えた。総てが整い、健太郎が玄関から出て、冴子が玄関ドアの鍵を閉めると、玄関先で、ルイがニャーンと啼いた。その泣き声を聞いて、健太郎は、何故かルイに対してとても悪いことをしてしまったような背徳感に襲われた。
「ルイを置いて行って良いのかな?」
「うん。ルイはうちの猫じゃあないの。森の向こうの広田さんの家の猫なの。でも私が山荘に来ると、何時も遊びに来てくれるの」
「そうなんだ。ルイも男だな」
「何、言ってるの。では出かけましょう」
冴子は、そう言って、健太郎に自転車を渡した。健太郎は高校生時代、自転車通学していたので、自転車乗りには自信があった。冴子を自転車の後ろに載せて、緑の林道を軽井沢駅へと向かった。そして駅近くのレストラン『白樺館』に行って、昼食を食べた。冴子が、ここのミラノ風ポークカツレツが美味しいというので、同じもの食べた。サクサクッとして、とても美味しかった。食事の後、まだ時間があったので、2人はコーヒーを、追加注文して、いろんなことを話した。冴子は2日後に東京に戻ると言った。レストランでの会話が終わると、健太郎は軽井沢駅に行って、冴子と別れた。冴子は健太郎が乗った汽車が、ホームから消え去るまで健太郎を見送ってくれた。健太郎は上野に向かう汽車に乗りながら、白いブラウスに水色のスカート姿の冴子が、高原の風に髪をなびかせて自転車を走らせる、健康で爽やかな姿と浅間山の風景を想像してほほ笑んだ。健太郎にとって、思いもよらぬゴールデンウイークだった。
終わり 〉
昇平は試行錯誤して、やっと書きかけの小説を、作品らしくまとめ上げた。もっと続きを書きたかったが、一旦、終わりにした、何故なら、『中央文学』時代の同人誌規定と同じく、『新生』でも、作品の掲載には、当該作品の原稿用紙枚数により、掲載料が積算され、請求を受けるからだった。貧乏な文学青年の昇平には、その掲載料負担は辛かった。昇平は作品のペンを置くと、腕組みし、沈思黙考し、その作品のタイトルを考えた。そして、その作品のタイトルを『リラの花咲く山荘』とした。
〇
ゴールデンウイークを自由奔放に過ごした後の『オリエント機械』での仕事は多忙だった。昇平の直属の上司、岡田高弘課長が暮らす溝ノ口に、新しくプラスチック業界に参入した『ID石油化学』が研究所を開設したからである。昇平は岡田課長と2人で、その研究所向けに受注した機械の納入に関する打合せや追加設備の仕様打合せ、見積作業などで、てんてこ舞いだった。そんな忙しい時に、突然、『モエテル』の仲間、船木省三が、予告も無しに昇平の職場に午後の4時過ぎに訪ねて来た。昇平は勤務中なので、船木を応接室に通し、仕事が終わるまで、ここで待っていろと伝え、仕事に取り組んだ。昇平が岡田課長と熱心に書類確認したり、見積り計算をしている間、船木は受付嬢の浅岡陽子にお茶を出してもらい、彼女に昇平の働きぶりを訊いたりした。陽子は陽子で『М大』卒の船木に興味を抱いたらしく、受付の席に戻らず、向井静子が、応接室に様子見に行ったりした。そうこうしているうちに終業時刻になった。昇平は船木が来ているので早く帰りたかったが、明日までにまとめなければならない見積があり、岡田課長に任せて帰れる訳がなかった。友達が来ているから早く帰りたいなどと言ったら、仕事に厳しい岡田課長に怒鳴られるに決まっているので、昇平は、応接室に行って、船木の誘いを断った。
「折角、来てもらったのに悪いな。今日中にまとめなければならない仕事があるんで、残業するから、今日は付き合えないよ」
「そうか。お前と横浜の海岸通りをドライブしようと思って、車を運転して来たのに残念だな」
船木は昇平と陽子がいる前で残念そうな顔をした。昇平は船木が運転免許を取得したことを知らなかったから、船木が本当に自分で車を運転して来たのか疑った。
「何。お前が本当に車を運転して来たのか」
「うん。日産自動車の『サニー』だよ」
「まあっ、『サニー』なの」
昇平よりも陽子の方が驚いた。応接室の窓を直ぐに開けて、外を見た。何と磯部社長の専用車の隣りに、『サニー』が停められていた。磯部社長のお抱え運転手の黒岩運転手が、磯部社長が出て来るのを待っていた。陽子は、それを見て、慌てて応接室から外に出て、玄関で磯部社長を見送った。その受付の仕事を終えると、陽子は応接室に戻って来て、昇平に言った。
「吉岡さん。私に任せておいて。私が船木さんを横浜に案内して上げるから」
「申し訳ない。そうしてもらえれば有難い。本当に助かる」
「では、船木さん、私を横浜に乗せて行って頂戴」
「うん。助手席に座るのは吉岡より浅岡さんの方が俺に似合っているからね」
「まあっ」
浅岡陽子は顔を赤くして、直ぐに着替えに行った。昇平は応接室から船木と外に出て、正門横の駐車場に行き、『サニー』を眺めながら、浅岡陽子が来るのを待った。陽子は急いで玄関から跳び出して来ると、船木の運転する『サニー』に乗り込んで、昇平にバイバイした。昇平は車で去って行く船木と陽子を見送り、席に戻った。すると直ぐに、岡田課長に訊かれた。
「誰だね。来ていたのは?」
「僕の知り合いです。近くに来たので寄っただけです」
「そうか。もう少しだ。見積書の後、工程表を作成してくれ。高野課長のメモ書きを、工程表らしく書いてくれ」
「はい」
昇平は岡田課長の指示に従い、見積書を作成し、その後、工程表をもっともらしく機械搬入から据付、電気配線、試運転まで、その流れをA4用紙に図表化した。残業を終えると、疲れがドッと出た。昇平は、その後、岡田課長と綱島駅近くの中華料理店『福龍亭』で、独身者同士、ビールを飲みながら中華丼の夕食を済ませた。昇平は思った。今頃、船木と浅野陽子は何処で何をしているのだろう。そんなことを考えていると、岡田課長が次に行こうと武蔵小杉のバー『オリーヴ』に昇平を誘った。昇平は疲れているが、岡田課長に従い、『オリーヴ』に行った。『オリーヴ』のママ、木村弥生は岡田課長と昇平の来店を心から喜んでくれた。岡田課長は、ホステスたちに囲まれると偉そうな態度をとった。昇平は少年の時から、こういった親分気取りの男たちを見て来たので、子分面をするのに慣れていた。太鼓持ちになって岡田課長を女性たちの前で持ち上げた。すると弥生ママをはじめ、宮本奈々、関口ゆかりも、それに合わせ、岡田課長は良い気分になり、飲み代の全額を支払ってくれた。昇平は、そんな岡田課長と武蔵小杉駅で別れ、東横線の電車に乗り、『春風荘』に帰った。『オリエント機械』での昇平の仕事は、受注活動や見積作業、設計や工場への製作指示だけでは無かった。客先に納入したプラスチック機械の試運転の手伝いにも出張した。特に担当客先に納入した製造装置が上手く稼働しない時などは現場に出張し、何が原因で上手く行かないのかを検証し、対策を考えた。その原因が、『オリエント機械』の設計ミスであったり、組立ミスであったり、客先の操作ミスであったりする時は、それぞれの責任者に修正の依頼をした。特に客先に原因がある場合、技術派遣員が客先に、その原因が客先にあることを強く言えず、機械の検収が長引き、資金回収の遅延の原因となることがあった。そんな時、昇平は客先のトップに面会し、正々堂々と交渉し、機械代金を支払ってもらった。そんなであるから、昇平は客先の社長や役員たちから可愛がられ、『オリエント機械』の現場技術者たちから信頼され、経理からは喜ばれた。従って『オリエント貿易』から派遣された伊藤営業部長などは、岡田課長と昇平に任せておけば無難に営業部長の役目を果たすことが出来た。田浦係長と宗方主任には細かい仕事をさせておけば、それで済んだ。そんな忙しさなのに、昇平の親友、船木は、週末になると、『サニー』に乗って夕方、『オリエント機械』に現れ、浅野陽子を連れ去って行った。昇平には船木が何を考えているのか分からなくなった。そうこうしているうちに紫陽花の季節になった。『ID石油化学』に納入したプラスチックフィルム製造装置の試運転に入ったが、約束の性能を果たせず難渋した。もともと、この装置はアメリカの『ドナルド社』と技術提携し、新井設計部長が『ドナルド社』の図面をもとに、外注の技術者を使い設計した装置であり、新井部長が辞めた後を引継いだ石本部長には、その解決方法が分からなかった。そこで大野副社長は『東芝機械』の技術者、松尾常雄を設計部長に採用し、石本部長を開発部長に変更するという人事異動を行った。石本部長は開発ということで、松尾部長の提案による改造部品を作り、その部品を使ってテストを繰り返した。しかし、それでも上手く行かなかった。昇平は、そのテスト経過を現場まで行って確認し、これは機械の構造上の問題だけでなく、専門的運転知識が必要であると感じた。昇平はどうしたら早期解決出来るのか岡田課長と相談した。岡田課長は『オリエント機械』を辞めた新井部長が装置の一部の設計製作を依頼していた『МS製作所』の上野課長に参加してもらおうと、昇平に言った。昇平はそれに即、賛成した。岡田課長は早速、遠藤常務に『МS製作所』の上野課長に試運転に参加してもらうよう依頼した。果たしてどうなるのだろうか。昇平が、そんなことに頭を悩ませ仕事を終えて、東横線の電車に乗り、祐天寺駅に降りると、懐かしい笑顔が昇平を待っていた。
「おう。待っていたぞ」
「ああ、横山さん」
待っていたのは『オリエント機械』から『クリエイト機械』に転職した横山圭太だった。何故、横山圭太が、自分を待っていたのか、昇平には直ぐに想像出来た。『オリエント機械』に入社した時から、昇平は横山圭太に機械組立について指導してもらった。ワッシャーを入れてのボルトの締め方、錆止めの塗り方、水平の出し方など、沢山の事を教えてもらった。それが役立っている。
「そこらで話さないか」
「はい。そこの大衆食堂に行きましょう。以前、川内部長と何度か酒を飲んだ店です」
「おう、そうか。じゃあ、そこへ行こう」
昇平は数ケ月ぶりに再会した横山圭太を大衆食堂『信濃屋』に連れて行った。店のドアを開けると、何時もなら早坂桐子が迎えてくれるのだが、今日は桐子の姉、藤子が接客係を務めていた。昇平は空いている席に横山圭太を座らせてから、藤子に訊いた。
「今日は桐ちゃん、どうしたの?」
「桐ちゃん、最近、吉岡さんの影響を受けて、短歌や俳句や詩の勉強をしているの」
「そう。桐ちゃんが短歌や詩の勉強をねえ?」
「ところで何にします」
「うん。そうだな。ビールと刺身と餃子、それに焼き鳥、枝豆、お新香を頼むよ」
「はい。分かりました」
藤子は、そう言って、昇平にウインクすると、店主や女将や板前のいるカウンターに行って、注文を受けた品書きを滝沢店主と丸山板長の前に置いた。それから藤子は勝江女将が準備したビール瓶とグラスと酢の物のお通しを盆に載せて、運んで来て、先ず横山に声をかけた。
「どうぞ」
藤子は初対面の横山のグラスにビールを注ぎ、その後、昇平のグラスにビールを注いだ。昇平と横山は、その泡が立っているビールのグラスをぶつけ合い、再会の乾杯をした。昇平は横山が口火を切る前に質問した。
「如何ですか、新会社は?」
「うん。順調にスタートした。初めは修理などのサービス仕事だったが、川内専務が頑張り、新規注文をいただき、忙しくなって来ている」
「それは良かったですね」
「まあな」
「すると横山さんは機械の組立てで、忙しくなっているのですね」
「うん、そうだ。一応、工場長だ」
かって『オリエント機械』で製造部の係長だった横山は、ちょっと照れ臭さそうに、『クリエイト機械』の工場長の名刺を、昇平に差し出した。昇平はその名刺を見て、感激した。
「横山さん。凄いですね。工場長だなんて」
「そんなこと無いよ。小っちゃい会社だ。吉岡君だって、うちの会社に来れば、営業部長になれるよ」
「僕には、まだ部長になれるような営業活動能力が備わっていません」
「そんなこと無いよ。川内専務は『オリエント機械』時代、営業部長を経験し、営業部の部下で、将来一番、期待出来るのは吉岡君だと言っているよ。どうだ。『クリエイト機械』に来ないか」
「川内さんにも言ったけど、僕は3年間、『オリエント機械』で働く約束で入社したんだ。だから無理だよ。それに今、クレームを抱えているから・・・」
「そのクレームってえのは『ID石油化学』に納入した機械だろう。あれは、うちの社長と『МS製作所』の上野課長が設計した装置で、『オリエント貿易』から来たお飾りの部長たちには上手く動かせないよ」
「どうしてですか?」
「うちの新井社長が言うには、機械設計の他に樹脂温度設定や風力調整など、特殊運転技術が必要らしいよ。アメリカの技術者を呼ぶのが1番だと言っていた」
「そうですか。ありがとうございます。アメリカから技術者を呼ぶよう、遠藤常務に伝えます」
「それが良い。俺の説明で分かったと思うが、今の『オリエント機械』は優秀な技術者が抜けてしまい、技術者らしい技術者のいない信頼出来ない機械メーカーになってしまった。3年間、頑張ろうと思っても、その前に会社が潰れてしまって、路頭に迷うことになる。『クリエイト機械』に来るのなら、今のうちだよ」
「そ、そんな」
「良く考えて、その気になったら、連絡してくれ。裕次郎じゃあないが、俺は待ってるぜ」
横山圭太は、そう言って笑った。それから、横山圭太が『オリエント機械』の寮にいた時の話や仕事を終えてから、トラックに乗って、代々木のオリンピック競技場のプールに泳ぎに行った時の思い出話をした。そんな話が尽きると、横山圭太は、もう一度、言った。
「じゃあ、今日はこれで帰るが、次には良い返事を待っているぜ」
それから横山工場長は藤子に店の勘定を求めた。藤子が伝票を持って来たので、昇平は、その代金を支払おうとした。すると、横山工場長が怒った。
「吉岡君。俺が払うから良いよ。社長命令で来たのだから、領収書を持って帰らないと、俺が叱られる」
横山工場長は、藤子の顔を見て笑いながら、藤子に勘定を支払った。昇平は店主夫婦や藤子に照れ笑いして、横山工場長と『信濃屋』の外に出た。横山工場長とは、祐天寺駅前で別れた。昇平は『春風荘』に帰りながら、転職すべきか否か考えた。だが将来、貿易商になるには、現在、アメリカの『ドナルド社』とライセンス契約を結んでいる『オリエント機械』に残って、海外との交流を深めることの方が、貿易商になる近道のように思えた。昇平は横山工場長に会ったことによって、現在、抱えている『ID石油化学』に納入した機械のクレームを、アメリカの機械メーカー『ドナルド社』の技術者を日本に招聘して、技術指導してもらい、問題解決出来ると確信した。そして翌日、その提案を遠藤常務に進言した。すると遠藤常務が大野副社長と相談し、その方向で、『ドナルド社』に技術者派遣を依頼してみると言ってくれたので、昇平は感激した。
〇
船木省三と浅岡陽子の間に何があったのだろうか。毎週、『オリエント機械』に週末、船木が訪ねて来ていたのに、急に顔を見せなくなった。どうしたのだろうかと思っていると、或る日、会社で仕事中の昇平に船木から電話があり、今夕、渋谷で会いたいと言って来た。昇平は会社の仕事を終えるや、急いで、渋谷の『ハチ公』前に行った。船木は渋谷駅前の交差点を行き交う人々を眺めながら昇平を待っていた。
「お待たせ」
「おうっ。忙しいのに悪いな。道玄坂の居酒屋で、一杯、やりながら話そう」
「うん。そうするか」
昇平は、そう答えて、船木が案内する道玄坂の居酒屋『山家』に行った。『山家』は船木が時折、仕事帰り使っている店で、中は酒場らしい適当な暗さだった。店内の客のほとんどが2人連れで、この店で飲み食いした後、何処かに遊びに行くらしかった。まずは船木がビールとおつまみを注文し、ビールで乾杯した。その後、船木が浅岡陽子のことを語り出すのではないかと昇平が待っていると、船木は昇平を渋谷まで呼び出しておきながら、直ぐに話しかけて来なかった。昇平は、そんな船木の態度から、何か面倒なことが彼に起こっているのではないかと想像した。それなので昇平も黙ってビールを飲んだ。すると船木が昇平の顔を見て呟くように言った。
「俺、会社を辞めたんだ。今、職探し中だ。入社1年間は、お前たちや、親戚の人たちや、上京している高校時代の仲間や、『若菜病院』の人たちに生命保険契約をしてもらったが、2年目は個人宅に訪問するなどして営業を始めたが、さっぱりだ。訪問しても怪しまれ、無視され、訪問するのが恐怖となり、精神的におかしくなった。精神状態が異常になり、自分が壊れると感じた。だから連休前に会社を辞めたんだ」
「そうか。会社を辞めたのか」
「そうだ。会社に入って、2年目近くなって、自分の勤める会社が、社員を使い捨てしている会社であると分かった。世間の人には分からないだろうが、社内で評価されるのは保険の契約成績だけだ。大学卒業の俺がだ。中学卒業のおばちゃんに侮辱され、見下されるんだ。実に情けないことだ。やっていられない」
「それで、会社を辞め、暇が出来て、女漁りか?浅野さんとは、どうなっているんだ」
「彼女は予想外の飛んでる女だ。積極的で計算高い。俺を取り込もうとしているので、逃げた」
「ふ~ん。何か分かるような気がする。お前も飛んでる男だからな」
昇平は、そう言って、船木をからかった。船木は決まり悪そうに笑って見せたが、何処か寂しそうだった。会社を辞めた報告の他に何か打ち明けたい悩みがあるみたいだった。昇平は自分が会社を辞めた場合のことを考え、船木に訊いた。
「ところで、お前に訊くが、お前の兄さんは、お前が会社を辞めたことについて、どう思っているんだ?」
「我慢が足りないって、カンカンさ。病院の連中に恥ずかしくって、病院に置いておけないっていうんだ」
「うん。病院の事務棟の一室を借りているのだから、勤めに行かず遊んでいては、目につくからな」
「そこでだ。悪いけど、吉岡のアパートに住まわせてくれないか」
「ええっ」
「俺、兄貴に、今月いっぱいで、事務棟の部屋から出て行けって言われているんだ。一緒に住まわせてもらえないないか」
船木は切羽詰まった声でお願いした。『М大学』入学以来、仲良く励まし合って来た船木の願い事を、昇平は受け入れるしかないと思った。
「よし、分かった。長期間は困るが、就職先が見つかるまでの数ケ月だけなら」
「流石、義理人情に厚い群馬の男だ。じゃあ、今夜から頼む」
「今夜からか。まあ良いだろう」
昇平は、親友、船木省三の同居を了解した。それからというもの、昇平は女房をもらった気分だった。朝食、夕食を、船木が準備してくれた。部屋掃除や洗濯もしてくれた。その為、『信濃屋』に行くことが、ほとんど無くなった。船木が同居するようになってからの1週間ほどは、大学生時代に戻って気分で楽しかったが、数日過ぎると不都合なことも起こった。大橋花江が『春風荘』に来たいと言って来たりした。だが船木が同居していることがばれるとまずいので、彼女の来訪を断り、渋谷で会ったりした。春先まで麻雀しに来ていた『A電気』の広沢良夫たちは菊池係長が厚木事業所に転勤になったので、メンバーがそろわず、『春風荘』に来なくなった。代わりに『モエテル』の梅沢や下村が麻雀をしに来るようになった。昇平はその麻雀に付き合わなければならず、困ったことになった。大学生時代は船木が『若菜病院』の事務棟の2階に間借りしていた部屋に行き、勉強の他、麻雀をしたり、酒を飲んだりしていたのに、いざ自分の部屋が同様な使われ方をするようになると、仲間の集まりは、昇平にとって煩わしく迷惑だった。今まで小説家を目指し、夢中になっていた執筆作業も出来なくなった。創作意欲も減退した。船木の就職が早く決まり、『春風荘』から船木に早く出て行って欲しかった。そんな時期に、昇平が遠藤常務に進言したアメリカの『ドナルド社』から技術者、グレゴリーとアーサーが来日した。昇平は英語が堪能な『オリエント貿易』の島崎正彦主任や『オリエント機械』の石本開発部長、『МS製作所』の上野課長と、その相手をしなければならず、多忙になった。かかる忙しい時に何と故郷にいる小池早苗からの手紙が届いた。
〈 吉岡昇平様。
如何、お過ごしですか。
私は相変わらず高崎の『F電気』で元気に働いています。
便りが無いので、ちょっと心配しています。
この度、いろいろと相談したい個人的なことが生じましたので、1度、相談がてら、東京にお伺いしたいと思っております。
ご都合、如何、でしょうか?
ご都合の良い日をお知らせ下さい。
是非、会いたいです。
良い返事を、心からお待ちしています。
季節の変わり目、健康に留意し、夢に向かって頑張って下さい。
貴方の早苗より 〉
昇平は、その手紙を受け取り、困惑した。弱り目に祟り目とは、こんなことを言うのか。昇平は1年前、祖父、慶次郎の1周忌の帰り、高崎で早苗とデートした時、早苗に大学を卒業したのだから、親戚の家から出て、アパートを借り、独立しないと、駄目よと言われ、『春風荘』の部屋を借りたことを思い出した。そして今年の正月、帰省した際、早苗に東京へ行って就職しては駄目かしらと言われ、彼女の上京に反対した。また結婚適齢期を迎える彼女の問いに対しては、今の自分には未だ結婚という将来の夢を描くことが出来ないと返事した。なのに何故、個人的相談がてら、東京に出て来たいというのか。もし彼女の来訪を了解して、自分が船木と暮らしていることが分かったら、どうなるのだろう。今の自分の給料では早苗と結婚しても、直ぐに生活に困窮し、あっという間に離別することになるであろう。どう考えても結婚は2,3年無理だ。そこで昇平は彼女に冷たい返事を送った。
〈 早苗様。
手紙拝見しました。
僕は現在、客先から注文をいただき、客先の工場に納入した機械が上手く動かず、アメリカから技術者を迎え、その対応に追われています。
従って、早苗ちゃんの相談相手になってあげる余裕がありません。個人的な悩みでしたら、高校時代の女友達や田舎にいる金井智久、小野克彦に相談してみては如何ですか。
彼らなら、きっと良き相談相手になってくれると思います。
お役に立てず、誠に申し訳ありません。
客先との問題が解決しましたら、こちらから連絡を入れます。
昇平 〉
それに対し、小池早苗から、不服の返事は無かった。昇平は、ひたすら、『ID石油化学』に納入した機械装置の問題解決の為に、アメリカから来た技術者2人の指導を受け、石本開発部長、高野課長、原田隆夫、向田浩史、『МS製作所』の上野課長らと協力して、その解決に当たった。昇平の部屋に同居している船木にとって、客先に販売した機械装置の問題解決の為に、残業し、くたくたになって帰って来る昇平の姿を見て驚きの毎日だった。友人の苦労を目の当たりにして、生命保険会社以上に製造業に苦しさと厳しさがあるのを知り、船木は昇平に言った。
「お前は、そんなに大変なのに、まだ油まみれになって機械メーカーで働くつもりなのか?」
「うん。3年間、頑張って、芽が出ないようだったら、転職するつもりだ。それまでは辛くとも歯を食いしばって、今の仕事に専念するよ」
「お前は我慢強いな」
「うん。次男坊だから我慢せいと、子供の時から育てられて来たからな」
「お前に比べ、俺は末っ子だから、甘いのかな」
「それはそれで良いのじゃあないかな。皆に見守られているのだから・・」
「でも甘えてばかりしていられないよ。明日の面接で、何とか採用してもらわないと」
「そうだな。じゃあ、風呂に行こうか」
昇平は、そんな会話をしてから、船木と中目黒商店街の外れにある『松の湯』に行き、富士山と三保の松原の絵を眺めながら、お湯に浸った。身体中の疲れが癒された。船木が、ぽつりと言った。
「足田はどうしているのだろう。元気でやっているのかな」
「町の商工会で、張り切っているのじゃあないかな。東京の大学を卒業して田舎に帰ったら、皆から尊敬され、大切にされるから」
昇平は静岡に帰って、商工会に就職した足田裕太のことを懐かしく思い出し、その活躍を想像した。彼らと過ごした4年間の学生時代は苦しくはあったが、その分、楽しくもあった。
〇
6月末、船木省三は就職先が決まり、『春風荘』から出て行った。同時期、『ドナルド社』から来た技術者や石本開発部長や社員の努力により、『ID石油化学』に納入したフィルム製造装置の検収が上がり、昇平はほっとした。そしてアメリカの『ドナルド社』から来た技術者、グレゴリーとアーサーの慰労の為、昇平は『オリエント貿易』の島崎主任や石本部長とアメリカ人、2人を連れて東京見物をした。東京タワー、皇居、東京駅、浅草寺などの観光を済ませてから、向島の芸者を呼び、屋形船で隅田川の遊覧を楽しんだ。グレゴリーとアーサーは、日本人の手厚いもてなしに感動して、翌日、羽田飛行場から、アメリカに帰って行った。昇平の日常生活は、7月になり、もとの生活に戻った。昇平はあらゆることから解放された気分になり、遊びまくった。小野京子に声をかけ、新宿でダンスしたり、食事したりして楽しんだ。また近くに住む畑中鈴子の所に林田絹子が遊びに来たりして、彼女たちと会ったりした。1日中の仕事を終えて、祐天寺の戻って来ると、また『信濃屋』に立ち寄り、タヌキうどんの夕食をするようになった。『信濃屋』のアルバイトは、藤子と桐子の日替わりだった。昇平は藤子から、桐子が、短歌や詩の勉強をしていると聞いていたので、桐子がアルバイトの日、桐子に訊いてみた。
「桐ちゃん。藤ちゃんから聞いたんだけど、短歌や詩の勉強を、始めたって本当?」
「ええ、そうよ。吉岡さんから、同人誌をいただいて、詩を書いてみたくなって」
「そうなんだ」
「勉強会の会費、高いけど有名人が参加したりしているので、楽しいの」
「会費って幾らなの?」
「紅茶とケーキ付で2千円よ。教室は、ここから歩いて行ける下馬にあるの。先生は寺山修司先生なの。吉岡さん、寺山修司先生って、知ってるでしょう」
「うん、『ひとりぼっちのあなたに』というエッセイに夢中になっている奴が、僕たち同人の中にいるから、知っているよ」
「吉岡さん。今度、私と一緒に勉強会に参加してみない」
「うん。時間がとれたらね」
昇平は、そう答えて、ここのところ自分が文学から遠ざかっていたことに気づいた。『信濃屋』での食事を終えて、クリーニング屋でYシャツを受け取り、『春風荘』に戻ると、5月に書き上げた作品『リラの花咲く山荘』の原稿を読み直し、誤字脱字を修正した。そして久しぶりに、『新生』の座談会に出席した。谷中の『カヤバ珈琲』のドアを開けて中に入ると、幸子ママが、笑顔を見せた。
「久しぶりですね」
昇平は幸子ママにそう言われ、ここのところ欠席している自分に気づいた。2階の会合場所に上がって行くと、大部屋の中に青木泰彦、石田光彦、羽島流一たちが既に来ていて、ここに座れと合図してくれた。座談会は何時ものように根本久三副主幹の司会で始まった。森秋穂先生は何時もの和服姿だった。今月の座談会のテーマは『戦後派作家と現代作家の相違点』についてだった。このテーマについて発言する同人たちは流石、沢山の小説家や詩人の作品を読んでいて、口達者だった。古株の石黒弘康は火野葦平、武田泰淳らの既成の国粋主義道徳への反抗と敗戦後の混乱から、新たな人生へと向かうことを作品にした坂口安吾、大岡正平、檀一雄ら、無頼派について熱心に語った。それらの作家の中で、最も自分の心を強く感動させてくれたのは、太宰治であるという。理由はあの暗い国粋主義時代の中にあって、彼が奥深い人間の生命を見つめていたからだという。戦争を起こす人間を恐れていながら、その人間を愛さずにはいられない人間への不信、自己への誠実さが、戦後、彼を自殺に追いやったのだという。篠原勝子は戦後、新憲法のもと、女性の解放と恋愛を賛美する女流作家たちについて話した。旧来の女性蔑視の偏見から解放されて新しい女性の生き方を描く佐多稲子、円地文子、有吉佐和子、曽野綾子たち女性作家たちの活躍は、喜ばしい流れだと語った。橋口勇吾は三島由紀夫、安部公房、大江健三郎、大岡昇平たち、第2次戦後派作家の登場を語った。鵜川八郎はキリスト教作家、遠藤周作や性問題を媒介として人間探求を続ける吉行淳之介のことなどを論じた。青木泰彦は石坂洋次郎や石原慎太郎が青春小説を発表し、国民的人気を得たのは、戦前から続いて来た陰湿な文学から脱皮し、健康的な小説を描いたからだと語り、若い同人を納得させた。山形茂子は新川和江、茨木のり子、吉原幸子たち女流詩人の人間愛溢れる現代詩は敗戦の虚脱感から解放された女性たちへの讃歌だと言った。川村恒夫は最近、人気になっている小説は純文学でなく、一般大衆目当ての通俗小説が人気になっているので、残念だと言った。彼は松本清張や水上勉や宇能鴻一郎、川上宗薫などの作品を嫌った。羽島流一は根本副主幹に質問され、現代の純文学は私小説の時代に入り、戦後の混迷から抜け出し、個人の自由や幸福に対する心理描写が、作品の中心課題になっていると論じ、安岡正太郎、小川国夫、阿部昭、黒井千次ら、『内向の世代』の作家の名を挙げた。森秋穂先生は、同人たちの評論を黙って聞き、頷き続けた。昇平は、その座談会を森先生同様、黙って拝聴し、自分の文学に対する知識や学習の足りなさを知った。こうして『新生』の座談会が終わり、昇平は根本久三に、『新生』夏季号に掲載して貰う為に執筆した『リラの花咲く山荘』の原稿を手渡した。根本久三副主幹は、昇平や羽島流一や山田鈴江、岬香百合といった若手の投稿原稿を受取り、喜んだ。
「森先生。若い人たちの原稿が集まり、充実した夏季号になりそうですよ」
「それは楽しみだ。若い力を吹き込み、『文芸首都』や『文芸広場』、『三田文学』に負けぬ同人誌に成長させよう」
「それこそ『新生』ですね」
「その通りだ。同人誌が雨後のタケノコのように生まれている中で、我々が先導者となって新しい文学を芽吹かせるのだ」
昇平は森先生と根本先生の会話を耳にして、同人誌『新生』の発展に期待した。そんな雰囲気で会合が終了すると、昇平は、何時ものように青木泰彦や石田光彦や山形茂子たちと池之端の居酒屋『吉兵衛』に移動して、酒を飲みながら、また文学談義を始めた。珍しく神崎千香が発言した。
「私、本屋さんに行って、他の同人誌を立ち読みしたりしているけど、女性の小説は男性の小説より、まだまだね。過去に縛られ過ぎる感じがするわ」
「どんなところが過去に縛られているというの?」
山形茂子が質問すると、神崎千香は、こう答えた。
「テーマが戦時中なのよ。兵器製造工場で知り合った青年が、兵隊に行くことになり、別れ別れになった話。満州からの引揚げの時、収容所で出会った男との話。戦争で片足を奪われた男との性愛などの小説が多いの。女性の方が立ち直りが遅いのかしら?」
「そうかもな。男は熱しやすく冷めやすい。女はねっちり形だからな。過去を引き摺って生きているんだ。男は常に新しいものを求める。戦争を知らない女たちが、ペンを握った時、初めて新しい文学が生まれる」
青木泰彦が最もらしいことを言った後、野口智広が付け加えた。
「うん。心配ないよ。宇野千代や佐藤愛子を追って、河野多恵子や瀬戸内晴美のような活発な女性作家もいるのだから。あなた方、女性陣も、その後を追えば良い。川村さんは通俗小説が嫌いだと言ったが、これからの文学は大衆にも好かれなければならない」
「その通りだ。三島由紀夫も迷っている。心の片隅で石原慎太郎や水上勉のような売れっ子作家になりたいと願っている。だから『美徳のよろめき』なんか書いたりしたんだ」
石田光彦のその言葉を聞いて、羽島流一が異論を唱えた。
「三島は、大衆に媚びを売るような作家では無い。古典や西洋文学を学び、その中で自己探求を行っている。肉体的存在感を持った知性を求めて戦っている。彼は国粋主義者の生き残りだ。だから『憂国』を発表し、『英霊の声』を書いている。現在の彼の作品は、恋する女性が何故、皇室に嫁いだのか、その国粋の思想を知ろうとしている」
「羽島君。それは考え過ぎだよ。なあ、吉岡君」
昇平は、石田光彦に同意を求められて、困惑した。何か答えなければならなかった。
「そうかもしれません。石田さんが言ったように、三島は大衆を意識し、大衆を楽しませたり、慰労したりする為の映画や演劇の脚本になるような娯楽作品を書きたいのではないでしょうか」
「そうだよな。三島は舞台もやりたいんだ」
「一方で『孔雀』のような狂気的美しい作品もあります。三島は日本浪漫派の川端康成たちの影響を受け、美しい日本を描きたいのです」
昇平は保田輿重郎の影響を受ける三島由紀夫を意識しながら、自分の三島論を語った。そんな文学論を交わす男たちを見て、岬百合香、山田鈴江、輪島百代たちは目をパチクリさせた。昇平は『新生』の若き同人たちとの交流によって、自分に不足している無知に対する劣等感を抱きつつも、一歩一歩、文学的知識を習得して行く自分に喜びを感じた。三島が見合いし、恋した女性が、美智子妃とは、全くの驚きであり、羽島流一の作り話だと疑った。そんな池之端『吉兵衛』での2次会が終わると、昇平は山手線の電車や京浜東北線の電車に乗って帰る同人たちと別れ、地下鉄、上野広小路駅から銀座線の電車に乗り、渋谷を経由して、『春風荘』に帰った。『新生』夏季号の原稿を提出出来て、昇平はホッとした。
〇
昇平が勤務する『オリエント機械』はアメリカの機械メーカー『ドナルド社』の技術によるフィルム製造装置を『ID石油化学』の研究所に納入したことにより、日本の石油化学業界、プラスチック業界で一躍、有名となった。そこで『オリエント機械』の経営陣は、『オリエント貿易』の営業マンと共に、『オリエント機械』の設計者をアメリカに派遣し、『ドナルド社』の技術を、更に習得し、最新鋭機をプラスチック業界に販売し、業績向上、売上拡大を考えた。そのアメリカに派遣される設計者として、昇平と同期入社の三浦照男が選ばれた。三浦は昇平と同期入社の宮里敦司や田中俊明より、3歳年上で、『オリエント貿易』の専務の息子、大野忠利や機械部の藤木澄夫と高校時代の親友で、『オリエント機械』に入社しても特別扱いだった。昇平は『ドナルド社』の技術者、グレゴリーとアーサーと一緒になって、『ID石油化学』の研究所で、1週間以上、働いたので、『ドナルド社』とは、どんな会社か、1度、訪問してみたかった。グレゴリーとアーサーを東京見物に案内した時、2人から、君がアメリカに来たら、いろんな所を案内してやるよと言われていたので、アメリカを見に行きたかった。しかし、『オリエント機械』がアメリカに社員を派遣する目的は、『ドナルド社』の設計技術を習得導入することであり、営業マンの昇平に声がかかる筈などなかった。アメリカ出張に選ばれた三浦照男は『オリエント機械』の男性社員から羨ましがられ、女性社員からは千両役者のような憧れの的となった。そんな風であるから、同期の三浦照男がアメリカに出発する時、昇平たち3人組は石本部長に連れられ、浅岡陽子、向井静子、石坂房子たちと、羽田空港に、三浦照男と『オリエント貿易』の山崎三郎次長の見送りに行った。『オリエント貿易』からも山崎三郎次長を見送りに浅田泰雄、藤木澄夫、島崎正彦や中村美保、宮田順子たちが来ていた。昇平にとって羽田空港の見送りは2回目だった。最初の見送りは、『ドナルド社』のグレゴリーとアーサーが帰国する時だった。その時以来、昇平は、この羽田空港から飛行機に乗って、海外に行ってみたいと願った。貿易商になれば、それが叶うと夢見た。そんな夢を見ている昇平を見て、中村美保が笑った。羽田空港での見送りの後、昇平は、川崎、横浜方面へ帰る宮里敦司や浅岡陽子、向井静子たちと別れ、田中俊明と一緒に京浜急行の電車に乗り、品川方面に向かった。品川で山手線に乗り換える時、たまたま中村美保と一緒になり、山手線の電車に乗り、途中まで彼女と話した。新宿まで乗って行く彼女と、別の日にデートする約束をして渋谷駅で別れた。昇平にとって、都会育ちの中村美保は魅力的だった。彼女と交際出来るようになったら、どんなに素晴らしいことであろうかと思った。次の金曜日、銀座の『パリシェ』で『モエテル』の会合があった。昇平が遅刻して出席すると、会合は、八月の休みに、海水浴に行く話で、盛り上がっていた。とはいっても、男たちだけの海水浴ではつまらないので、女性を誘おうではないかと手塚秀和と細木逸郎が言い出した。だが、かって伊豆の土肥海岸に泳ぎに行くなどのグループ交際をしていた『NA石油』の女性たちとは、縁が切れていたので、新しい女性を誘うしかなかった。そこで、女にもてる久保厚志や船木省三、松崎利男たちに女性探しの声がかかった。久保は勤務先の女性や取引先の女性に声をかけた。船木は、以前、勤めていた生命保険会社の女性たちに声をかけた。松崎はデパートに勤める女性に声をかけた。昇平は『オリエント貿易』の中村美保に電話し、斎藤穂波や筒井久美たちを誘って、大洗海岸に海水浴に行きませんかと勧誘した。ところが昇平の中村美保たちとの計画は失敗した。『オリエント貿易』の電話交換手、堀口優子により、昇平と中村美保の会話が盗聴され、美保の恋人、合成樹脂部係長、梨本弘之に知られてしまった。その為、中村美保と大洗海岸行きについて、渋谷の喫茶店で打合せする約束をしたが、当日になって中村美保は、彼女と親しい浅岡陽子を通じ、突然、昇平とのデートを断って来た。お陰で昇平は『オリエント機械』の女性たちの前で、赤っ恥をかいた。船木も同様、生命保険会社の事務員に会社を辞めた男に興味は無いと断られえた。松崎もデパートの女性の仕事は休日が掻き入れ時で、最も忙しく、海水浴どころでは無いと断られたという。結果、久保が声をかけた女性3人が参加する海水浴に出かけることになった。8月5日の土曜日の午前10時、昇平は集合場所の東京駅八重洲口前に行った。その八重洲口前では岩野義孝が借りたマイクロバスの前で、『モエテル』の連中と久保が誘った女性3人が、昇平たちを待っていた。松崎と小平がやって来て、全員がそろうと、岩野の運転で、マイクロバスは東京駅前を発車した。『モエテル』の男たち8人と、『アスカ工業』関係の橋口典子、関根尚子、小泉君代たち3人を乗せたマイクロバスの中は目的地に向かってスタートしたばかりなのに、ワイワイ、ガヤガヤ、元気な声が飛び交った。手塚が挨拶をしたりして、マイクロバスは、日本橋の『三越』前をを通り、上野方面に向かい、入谷を経て、隅田川、荒川、中川、江戸川を越え、千葉県に入った。昇平は水戸街道を走るマイクロバスの窓から外を眺めながら、柏に入ったところで、ふと林田絹子のことを思った。1年前の土肥海岸での海水浴の時、彼女と2人でボートに乗って、甘い言葉を囁いた事を思い出した。そんな昇平の心を他所に岩野の運転するマイクロバスは利根川を越え、牛久に到着し、一休みすることになった。時刻が正午近くになっていたので、牛久沼の畔の食堂で、昼食を食べることになり、昇平はウナ玉丼を食べた。スタミナをつけたところで、再出発。牛久から土浦、石岡を経て、涸沼前を通過し、午後2時過ぎ、大洗海岸に到着した。マイクロバスを松林の中に停めてから、『モエテル』の男たちは、4人用テントを3個、草むらに準備した。女性たちは食器類や食材をマイクロバスから運び出して、夜食の前準備をした。その後は自由。水着に着替え、好き勝手に泳いだ。久保や手塚たちは『アスカ工業』の女性、橋口、関根、小泉の3人娘と一緒に海水浴を楽しんだ。昇平は、海水浴の休日を、あの中村美保と一緒だったら、どんなにか楽しく過ごせただろうと想像しながら、大洗の海を夢中になって泳いだ。また船木や松崎と岩場まで、競泳したりした。そうこうしているうちに、あっという間に美しい夕日が沈み、夕食の時間になった。昇平たちは虫に食われぬよう食事する広場の中央に火を焚き、鍋を置き、それを囲んで座り、乾杯した。久保はショートパンツ姿の橋口典子と関根尚子を左右に座らせ、大満足だった。手塚も小泉君代と話したりして、楽しそうだった。昇平は『ロリアン化商品』に入社した船木の近況を訊いた。
「どうなんだ。新しい職場は?」
「うん。工場の研修を終え、今はマネキン嬢と営業活動を始めたところだ。今回、『TH生命』の萩原さんたちに振られたので、一緒に働くマネキン嬢を海水浴に誘おうと思ったけど、止めた。入社したてなのに、初めっから助平だと見抜かれたらまずいもんな」
「当たり前だ。慎重にしないと長続き出来ないぞ」
小平は昇平同様、松崎の仕事がどうなっているのか聞いたりした。何時もなら誰かが歌を唄い出すのだが、何故か、歌が出なかった。こうして大洗海岸での女性たちとの食事パーティは、9時前に終了した。女性3人は、潮の香のする海辺のテントで眠った。昇平は船木、小平、松崎と同じテントで横になったが、何時ものように隣のテントで手塚、久保、細木、岩野たちが酒を飲んだりしていて、騒がしくて直ぐに眠れそうに無かった。しかし、夢中になって競泳したりした疲れは、手塚たちの馬鹿笑いを子守歌にして、昇平たちを眠らせてくれた。そして翌日、朝起きて、朝食の手伝いを始めるとると、女性たちの様子がおかしかった。久保厚志と橋口典子が早朝から2人で浜辺を散歩し、関根尚子と小泉君代が中心になって、手塚たちと朝食の支度をしていて、関根尚子と小泉君代が、ふくれ面をしているからだった。桑原、桑原。朝食の準備が済み、久保と橋口典子がテントに戻って来たところで、皆で朝食を始めた。昨夜の御飯の残りを利用して作った雑炊の他、サバ缶、卵焼き、ソーセージ、野菜サラダ、トマトなど、昇平にとって、この上なく美味しい朝食だった。朝食が終わり、片づけをしたところで、昇平たちは、薄曇りの空の下の海に入ってひと泳ぎした。女性たちは何故か泳ごうとはしなかった。久保に岩野が訊いた。
「彼女たち泳がないけど、どうしたんだ?」
「うん。泳ぎたくないんだって。何か、もめているらしい」
「もめている?何をだ?」
「俺には分かんないよ」
そんな状況なので、『モエテル』の男たちは、テントを片付け、レジャーシートをしまい、マイクロバスに載せて、海水浴客が集まって来る頃に、帰り支度を始めた。そして松崎と船木が一番最後に、マイクロバスに戻って来ると、直ぐに岩野がマイクロバスを出発させた。帰りは大洗海岸から常澄村を通り、水戸方面に向かった。水戸市内に入り、昼食を食べることになり、駐車場の広い食堂『天狗屋』を見つけ、そこの駐車場にマイクロバスを停めて、皆で、『天狗屋』に入った。そこで各人、天丼や親子丼や黄門そばなど好きな物を注文したが、昇平は光圀ラーメンを注文し、大失敗した。熱くて熱くて、直ぐに食べられず、大汗をかいてしまった。だが美味しかった。『天狗屋』で一涼みしてから、再出発。折角、水戸に来たのだからと、『偕楽園』に立ち寄った。水戸藩第9代藩主、徳川斉昭公によって造られた『偕楽園』は、市民の休息の場として、夏場なのに訪問者が多かった。『モエテル』の一行は、園内を散策し、『好文亭』で、襖絵を見たり、2階から庭園や千波湖を眺め、お殿様やお姫様気分になった。その後は、一路、東京へ。来る時と同様、牛久沼の畔で、小休止して、東京駅前でマイクロバスから降りて解散した。昇平は東京駅から山手線の電車に乗り、五反田で松崎と小平と別れて、渋谷経由で、『春風荘』に帰った。翌日、出社すると、昇平だけでなく、営業部の田浦係長や、設計の宮里たちの顔も日焼けしていた。昼食時、昇平が宮里たちに確認すると、彼らは三浦照男と浅岡陽子の呼びかけで、江の島の見える鵠沼海岸に海水浴に出かけたという。昇平が大洗海岸に泳ぎに行く話を聞いて、羨ましく思った浅岡陽子が、向井静子、石坂房子、宮本知子と海水浴計画を立てたらしい。船木の言う通り、浅岡陽子は飛んでる女だ。子豚のような彼女が、江の島の見える浜辺を駆ける姿が目に浮かんで、昇平は微笑んだ。
〇
昇平たち若者が、日活や東宝の映画の影響を受け、海水浴に行ったりして遊び回っている間、『オリエント機械』の経営陣はプラスチック産業の発展を期し、第2工場の建設計画に踏み切った。今まで、昼休みにソフトボールをしていた広場は柵で仕切られ、第2工場の建設が夏休みからスタートした。昇平は夏休みの初日の8月12日の土曜日から田舎に帰った。その日の夕方、昇平は高崎駅で、兄の政夫と合流した。兄は、高崎駅の改札口で昇平を出迎えると、昇平を喫茶店『白馬車』に連れて行った。美味しいコーヒーを飲ませてくれるのだろうと思って店に入ると、喫茶店のテーブル席で、可愛い丸顔の女が、兄を待っていた。彼女は無言で、前の席に座るよう昇平に手で合図した。昇平は、その女を知らなかったので、戸惑った。兄は、彼女と同じように自分の横に座れと昇平に合図して、コーヒーを注文して言った。
「湯川幸子さんだ。見たことあるだろう。松井田の人だ」
「いえ。見たことありません。初対面です。弟の昇平です。よろしくお願いします」
「湯川です。こちらこそ、よろしく。お兄さんより、真面目そうね」
幸子は、そう言って笑った。昇平は彼女と兄とはどういう関係なのだろうかと思ったが、その関係を訊こうとしなかった。政夫はコーヒーを飲み終えると、じゃあ帰ろうと立ち上がり、コーヒー代を支払い、昇平と幸子を駐車場に案内した。兄の車は、新車に変わっていた。その車に乗せてもらい、昇平は実家へと向かった。政夫は冗談が好きだった。夜道を運転しながら、幸子に訊いた。
「幸ちゃん。昇平のような弟、欲しいと思わないかい?」
「いたら嬉しいわ」
「そうだろう。昇平はどうなんだ。幸ちゃんのようね姉さんは?」
昇平は、兄に質問され、一瞬、考えた。兄の欲っしている返答は何なのか。だが営業マン、その場の空気を読んで、直ぐに答えた。
「僕も嬉しいです。こんなに優しくて美人のお姉さんがいたら幸せです」
「そうだろう。俺も、そうなればと思っている」
政夫はそう言って、ニコニコしながら運転した。昇平は車の中で、色々、昇平たちに話しかけ、幸子を口説く、兄の誑し込み術の上手さに感心した。そうこうしているうちに車は、安中の街を過ぎ、松井田に入り、湯川幸子の家の前で停まり、そこで幸子が下車した。昇平がいなければ、キッスでもしただろうが、2人は、ちょっと手を握っただけで別れた。見送る幸子を後に、政夫の運転する昇平を乗せた車は、トンネルを潜り、昇平の実家に辿り着いた。実家では父、大介と母、信子が弟の広志と、今か今かと待っていた。広志は中学時代から、女の子にもてたので、家に帰っているとは思われなかったが、お盆休みになったので、太田の『SU製作所』の社員寮から、帰って来たのだという。前橋の河合家に嫁いだ好子姉を除く吉岡家の者が集まったところで、母、信子が作ってくれた美味しい夕食をいただいた。だが、祖父、慶次郎のいない家族の団欒は、何故か昇平には寂しかった。3兄弟は食事をしながら、両親の前で、自分の仕事の現状報告をした。3人とも勤務先での仕事内容と会社の業績を語り、両親を安心させた。趣味や女の話は、両親の前で、誰も口にしなかった。次の13日は迎え盆の日なので、昇平たち3人は、田んぼの畔の草刈りや家事を手伝うなどして、1日を家で過ごした。夕刻になり、吉岡家の墓に行って、お参りしてから、提灯を手に、御先祖様をお迎えし、吉岡家の門口で、苧殻を焚き、その煙と共に御先祖様を家の中に招き入れ、あらかじめ灯りをつけておいた仏壇に座っていただく儀式を行った。線香を焚き、鉦を叩き、歓迎し、手を合わせて、御先祖様に感謝し、仏壇前に食事をささげ、語りかけた。それから皆で食事をした。小学校の校庭では青年団や自治会の人たちが中心になって盆踊りをしているとのことだったが、昇平は家で過ごした。もしかして、小池早苗から電話がかかって来るかもしれないと思ったからだ。だが早苗からの電話は無かった。14日は帰省している清水真三と待ち合わせして、高校時代の仲間、森木圭一、中山高志と4人で高崎に遊びに行った。、常磐町の『高崎ボーリングセンター』でボーリングゲームを楽しんだ。運動神経の鈍い昇平なのに、大学生時代、『池袋ボーリングセンター』や『後楽園ボーリングセンター』に通ったことがあり、1番の成績だった。昇平は、その理由をボーリングゲームを終え、居酒屋『安兵衛』に入ってから話した。
「実の事を話すと、俺がボーリングが上手くなったのは、俺たちの同級生だった上原貞夫のお陰だ。上原は『池袋ボーリングセンター』に勤めていて、俺に特別扱いしてくれたから、何度も友人とボーリングしに行ったよ」
「そうだったな。俺も2度ほど行ったかな」
清水真三が、昇平と『池袋ボーリングセンター』に行った時のことを思い出して言った。昇平は『後楽園ボーリングセンター』に、小池早苗と行ったこともあるが、そのことについては口にしなかった。森木と中山は昇平たちに北条常雄がどうしているのか質問した。それを訊かれて、昇平は答えようが無かった。昇平の代わりに、清水が答えた。
「彼は鶴見の『総持寺』で厳しい修行をしていて、まだまだ、群馬には戻れそうにないよ」
「そうか。早く戻って来るのを待っているのだがな」
「群馬県警に勤める深代大智が会いたがっているんだ」
「そうか。高校時代の柔道部の仲間だもんな」
それから女の話になり、皆、結婚相手が見つからないでいると、ぼやいた。寺川晴美を知る中山から、彼女のことを訊かれたので、昇平は彼女と別れたと話した。また森木と中山には尾形憲三代議士の選挙支援の礼を言った。お陰で尾形憲三代議士が千鶴さんと結婚出来たことを話した。共産党応援の清水は、昇平たちの会話に、ちょっと不満そうだった。高崎での懇親会が終わると、4人で松井田に引き返し、松井田駅前で別れた。松井田駅には弟、広志が車で、出迎えに来ていた。その車に乗り、清水を家まで送り届けて、吉岡家に戻ると、前橋の河合家から好子姉と正治兄夫婦が、実家に来ていて、賑やかな夕べとなった。その河合夫婦は1泊して、翌日、朝食を済ませると、前橋に帰って行った。昇平は午前中、弟、広志と実家で過ごし、昼飯をいただいてから、太田の『SU製作所』の社員寮に戻る弟の車に乗せてもらい、高崎まで行き、そこから高崎線の電車に乗り、東京へ帰った。あっという間の盆休みが終わった。その後が忙しかった。『オリエント機械』が石油化学会社系列の企業から小型フィルム製造装置のロット注文を受けて、その仕様確認や社内指示に昇平は奔走した。そのような時に、同人誌『新生』夏季号が『春風荘』に届いた。昇平は自分の作品『リラの花咲く山荘』が掲載された同人誌を手にして、心躍らせた。そして翌日からは同人誌を通勤カバンに入れて、その通勤途中の電車の中で、同人仲間の作品を読んだ。また3冊送られて来たうちの1冊を『信濃屋』で食事する時、早坂桐子に贈呈した。十人十色というが、同人たちの作品は種々雑多だった。そんな『新生』夏季号を地下鉄の電車に乗って読んでいる時、昇平は図らずも、『恵比寿ダンス教室』の夏目綾香先生と出くわした。昇平が手にしている同人誌を見て、綾香に同人誌のことを訊かれたので、昇平は、自分が文学を目指し、『新生』の同人になっていることを説明した。それからカバンに入れていた残り1冊の同人誌『新生』の夏季号を、綾香にプレゼントした。
「もし宜しかったら、これ読んで下さい」
「まあっ、いただいて良いの。本当に?」
「はい。読んでいただければ有難いです」
「ありがとう。大切に読ませていただくわ」
綾香先生は、そう言って、同人誌を受け取ると、同人誌のインキの匂いを嗅ぎ、それを手にすると地下鉄の恵比寿駅で下車して、昇平に手を振った。綾香先生は今日もダンス教室に行って、ダンスの指導をするのだ。
〇
9月になり、同人誌『新生』の合評会の日が来た。昇平は懐かしい千駄木町近くの喫茶店『カヤバ珈琲』に出かけた。1年前同様、同人たちから、酷評を受けることを覚悟して出席した。ところが、昇平の作品『リラの花咲く山荘』の批評は、10月の合評会に回された。昇平は助かったような、早くして欲しかったような複雑な気持ちになった。合評会は根本久三副主幹の司会で、まず鵜川八郎の小説『停年退職を前に』から始まった。この作品の内容は有名繊維メーカーの東京支店長が、定年退職期を迎えて、次の仕事も無く、ノイローゼ気味になる話で、今までの部下から冷たくあしらわれたりする退職前のサラリーマンの哀切を描いた小説だった。鵜川八郎と親しい川村恒夫は、こう批評した。
「鵜川さんのこの作品はサラーリーマン社会で見受けられる日常的な出来事をテーマにしたもので、人間関係の不毛を見事に描いている。佳作と言って良いだろう」
その批評に石黒弘康が付け加えた。
「仕事への情熱が失せて、妻から無能扱いされる男の心情をかなりよく捉えていて、見事だ」
そのベテラン同人たちの批評を昇平は黙って聞いた。続いて橋口勇吾の作品『疑惑』になると、若手も批評するようになり、意見が交錯した。『疑惑』の内容は生まれた女の子が主人公にも似ず、美人の妻にも似ず、その顔だちが主人公夫婦の顔立ちと全く異なるので、主人公が苦悩するという物語だった。娘が成長するにつれ不細工になって行くので、主人公は妻が浮気して生んだ子供に違いないと疑惑を深める。ところがある日、妻の高校時代の同級生に出会い、妻が自分と付き合う以前に、顔面整形手術を受けていたことを知らされ、納得すると同時に愕然とする。つまり、娘の顔は妻の顔面整形手術前の素顔そっくりだったという面白い話。この作品について青木泰彦はこう評した。
「橋口さんの今回の作品は、実に巧妙に男の心理を描いていて、素晴らしい。最近、このような美容整形手術が行われるようになって来ているから、ありうることかも」
野口智弘が、青木の評に付け足した。
「私も青木君と同様、楽しく読ませていただきました。妻の浮気を疑っている夫の行ったり来たりの精神状態と子供の顔は親に似る筈という先入観念の描写が、この作品をユーモラスに仕上げている。私は、こういった作品が好きです」
橋口勇吾の作品の後に、批評を受けたのは、何と輪島百代の作品『嘘をつく女』だった。彼女は、今まで詩を発表して来たのであるが、今回は詩とは違う作品だった。小説のようなエッセイのような不可思議な短い作品だった。
〈 私は嘘をつく女です。綺麗な洋服や靴や化粧品を買う為に、バー『千鳥』でアルバイトを始め、声をかけて来る男たちとゲーム感覚で付き合い、人生を楽しんでいます。私は嘘をつくことを悪いと考える人、いわゆる正直者を愚か者と思っています。だから私は嘘をつくことの出来る人になりたいのです。嘘をつく人が、どれほど人間味があるか、良く考えてみて下さい。嘘をつく人は嘘を上手に利用しています。正直者は、その反対で、嘘に利用されています。その正直者は朝から晩まで熱心に働き、お金を貯えていますが、その正直者以上に、正直者を使う経営者は正直者の何倍ものお金を得ています。正直者は自分が働いて生み出したお金を経営者に渡し、そのお金に使われているのです。お金は嘘と同じです。嘘と同じ力を持っています。正直者の皆さん、嘘をつきなさい。嘘をつかない正直者は人間らしくありません。人間として生まれたからには大いに嘘をつきなさい。大いに嘘を駆使し利用すべきです。この間、私は、『千鳥』に来た社長さんの腕をとり、手の平に私の手の平を重ねて、こう嘘を言ったの。
「社長さん。今日、顔色良くないですよ。何処か具合でも悪いのですか?」
そうしたら社長さん、こう答えたわ。
「そんなこと無いよ。午後の役員会で、部下を怒鳴りつけたから、その怒りが、まだ収まらず、顔に残っているのかな」
「まあっ。それはいけませんわ。部下を怒鳴りつけるなんて。部下を可愛がらないと。怒鳴ってばかりいては部下は社長さんに就いて行きませんよ」
「部下を可愛がらないとか」
「はい、そうです。私たちもです。食事に連れて行ってもらったり、お小遣いをいただかないと」
「なるほど。そうやって可愛がれば就いて来てくれるんだな」
「はい。そうです」
社長さんは、そう答えると喜んで、私を食事に連れて行ってくれたわ。頭は使いようという言葉があるでしょう。嘘も使いようなの。嘘をつくとバチが当たる。閻魔様に2度と嘘をつかぬよう舌を抜かれる。そんなことを言われるけど、嘘をついたことのない人なんて、この世にいるのかしら。人間が生きていく為には嘘は必要です。そういえば、この前、病院に行った時、泣いている母と娘を見かけました。私は想像しました。あの2人は入院している患者に訊かれたに違いありません。
「医者は、俺の病状をお前たちに何んて言っていた?」
多分、2人は、こう答えたのだと思います。
「だんだん良くなって来ていると先生は仰られました。もう少しの辛抱です」
2人は患者に嘘をついた筈です。正直者よ。貴方は医師の言葉を、今にも死にそうな患者に正直に話せますか。
「先生はあと1日もてば良いところですと言っていました」
医師の言葉は真実です。正直者よ。貴方は医師の言葉の通り、真実を患者に話せますか。私は、その立場になったら、真実を話しません。嘘を利用します。嘘を利用してやるのです。だからといって嘘を無暗矢鱈に使用してはいけません。嘘がどのように影響するかも考えずに使用してはいけません。生きる為に役立つよう使用せよということです。嘘はあくまでも役立つことを考慮し、使用しなければなりません。嘘は自分や周囲の人たちに役立つと思うとき使うのです。お金も同じことです。お金も嘘も使いようです。私はバー『千鳥』でアルバイトを始めるまで、自分を正直者と自負していました。『千鳥』でアルバイトをして気づきました。私は嘘を活用することを知らず、嘘をつけなかったのです。嘘の活用の仕方を知らなかったから、結局、私は愚か者扱いされて来たのです。私は、そんな風な愚か者だったから、ずっと長い間、利口な女やずるい男に騙されて来たのです。嘘をつかれながらも、私は喜んで、その嘘の世界に生きて来ました。嘘、嘘、嘘。嘘は何て素敵なのでしょう。嘘の活用を知らないで、嘘をついている人は、正真正銘の嘘つきです。嘘つきは嘘をつく人と同一ではありません。人間誰しも、数回、嘘をついている筈です。嘘をつく人は、嘘をつくことを深く考え、その結果を善悪で判断出来る人です。嘘つきか嘘をつく人かを見分けるには嘘をつく動機が何であるか確かめることが重要です。嘘つきは欲望や損得や防衛の為に嘘を悪用します。嘘をつく人は、人道上、あるいは愛情の為に嘘を活用します。私は今、嘘をつく女、後藤牧子に悩まされています。彼女は私がアルバイトをしているバー『千鳥』に勤める女で、私を贔屓してくれている高校の秋本先生を誘惑しようとしているのです。私が以前から秋本先生に可愛がられているのに、後藤牧子は後から『千鳥』にアルバイトに来て、私から秋本先生を奪おうとするのです。この世は生存競争。奪い合いの世界。騙し合いの世界。生存の為に獲物を狙うのは分かっていますが、私は負けてはいられません。美人の彼女はその艶麗さを武器に、秋本先生を誘惑しようとしているに違いありません。それでいながら私に、こう言ったりするのです。
「愛ちゃん。この前の日曜日、鎌倉に行ったのですってね。私も行ったのよ。鶴ケ岡八幡宮へ」
「まあっ、そうなの。同じ日に?」
「そうよ。見ちゃったわ。秋本先生と仲の良いところ。仕合せいっぱいの姿」
「本当。嘘でしょう」
「本当よ。『政子石』に2人の仕合せが続くよう、お祈りして上げたわ。仕合せになってね」
私は後藤牧子が放ったその言葉に悩まされています。彼女は嘘つきなのか、嘘をつく女なのか。彼女の言ったことは作り話か。本当なのか。彼女は甘いことを言って私を喜ばせることを美徳と思っているのでしょうか。それとも悪徳から生ずる偽善によって、私を有頂天にさせる言葉を発したのでしょうか。私は考えれば考える程、そんなことに悩まされる自分のことが馬鹿らしいと気づきました。彼女が嘘つきなのか、嘘をつく人なのか、どちらでも良いことです。何も恐れることは無いのです。悩まないことに決めました。いずれ分かることですから・・・。
完 〉
輪島百代の作品『噓をつく女』は小説なのか、エッセイなのか、判別が難しかった。誰が、どんな批評をするか昇平は興味を膨らませた。まず中里文子が批評した。
「今回、輪島さんが、詩では無く、嘘をテーマに作品を書かれたことに、私は拍手喝采を贈ります。人間は常に『善』と『悪』の両極の中間に立って苦悩と対峙しながら生きています。でも作者の言う通り、何も恐れることは無いのです。短い作品ですが、いろいろ考えさせられるところがあり、楽しませていただきました」
「ありがとう御座います」
輪島百代は中里文子に褒められ、ほっとした顔をした。続いて鵜川八郎が批評した。
「輪島さんのこの作品は、一応、小説風になっていると言えましょう。この作品の中で作者が言いたいのは、要するに嘘の根源の追及だと思います。人間内面の追及です。ひとつの事柄をとらえて、徹底的に追及して行くという小説の基本姿勢が備わっています。作者のもっとあれこれ書いた長い小説を読みたいです」
そんなに褒めて良い作品なのだろうか。昇平には疑問だった。だが『新生』にとって若い女性同人の小説への挑戦は歓迎すべきことのようだった。だからであろう、森秋穂先生も、この作品について、一言、述べられた。
「この作品は、鵜川さんの言うように、もっぱら人間の内面世界を描いていて、私小説的です。中里さんが、この作品を読んでいろいろ考えさせられるところがあると話されましたが、この作品にはサタイアー、あるいはアレゴリーが含まれているような不可思議なところがあります。少し甘いかもしれないが、小説として合格です。これからも詩の他に小説を書いてみて下さい」
輪島百代の作品の批評が終わると、松本典子、神崎千香、岬百合香、山田鈴江たちの詩の批評になった。島崎藤村や立原道造やドイツの詩人、ハイネなどの作品に影響されて来た昇平には、岬百合香や山田鈴江の作品は何となく理解出来ても、松本典子や神崎千香の現代詩は何を伝えようとしているのか難解で理解するのが難しかった。相変わらず、ベテラン詩人、土田昌江、中里文子が自分たちの才能をちらつかせる言葉を使って、これらの詩を批評した。こうして『新生』夏季号の合評会が終わった。昇平は何時ものように、青木泰彦や石田光彦たちに従い、池之端の居酒屋『吉兵衛』に移動し、酒を飲みながら、文学談義に花を咲かせた。山形茂子が、また来月、文学者が集まるダンスパーティがあるので、参加するよう、皆に声をかけた。昇平は、またダンスの季節がやって来るのだと思った。そして、ダンスの好きな女たちは何をしているのだろうと、活発な彼女たちのことを想像した。
〇
日本の大手企業『МB油化』から、アメリカの『ドナルド社』が製造している高性能フィルム製造装置と同仕様の機械を見積して欲しいとの依頼が『オリエント機械』の営業部に舞い込んで来た。それを受けて、伊藤琢也部長は岡田高弘課長と相談し、吉岡昇平に、その担当者を命じた。昇平は早速、客先に出かけ、その対応に追われた。客先が何の製品を製造したいのか、その要望を細かく聞き取り、設計部の松尾部長や三浦照男に相談したが、2人は昇平の要求に全く答えてくれなかった。昇平は、三浦照男が『ドナルド社』から持ち帰った機械装置の英文カタログなどを参考に、客先が何を求めているか理解した。そして三浦照男と一緒にアメリカに出張した『オリエント貿易』の山崎三郎次長に、どう対処すれば良いか相談した。すると山崎次長は、昇平の客先が要望している機械装置の概要を説明してくれた後、細かいことは『МS製作所』の上野課長に教えてもらえと指導してくれた。つまり、『オリエント機械』の設計部には、残念ながら、この手の引合いに対する知識を持った設計者がいないという山崎次長の見解だった。昇平は愕然とした。『オリエント機械』は何の為に『東芝機械』から松尾常雄を設計部長として招き、何の為に、若手の三浦照男をアメリカの『ドナルド社』に出張させたのか。そんなことをぼやいていても、仕事は前に進まない。昇平は山崎次長のアドバイスに従い、『МS製作所』の上野課長に電話し、秘密裏に会っていただくことにした。『МS製作所』の上野課長と昇平は『ID石油化学』に納入した機械装置のクレーム解決の為に協力してもらった間柄であり、昇平の要請を快く引き受けてくれた。そこで昇平は上野池之端の割烹『伊豆栄』で上野課長を接待し、客先からの要望を上野課長に伝え、概略仕様書を書いてもらった。また概略寸法なども漫画で描いてもらった。上野課長はとても親切だった。『オリエント機械』の外注として、『ID石油化学』向けフィルム製造装置の図面を作成した経験から、食事をしながら、殴り書きだが、参考資料をスラスラまとめてくれた。上野課長は5年前、『オリエント貿易』の太田陽一部長とアメリカの『ドナルド社』に出張して、『ドナルド社』の工場で技術を学んだ経験があり、機械の事に実に詳しく優秀だった。昇平は上野課長に感謝し、彼を尊敬した。昇平にとって、強い味方だった。そんな上野課長の助けを得て、昇平は見積資料を作成し、『オリエント貿易』の島崎正彦と丸の内にある『МB油化』の資材部に見積書類を届けに行った。その後、島崎に麻雀しようと誘われたが、昇平は疲れているからと言って、誘いを断り、地下鉄日比谷線の電車に乗って祐天寺に帰った。『信濃屋』で早目の夕食を済ませ、クリーニング屋に立ち寄り、Yシャツを受け取り『春風荘』の玄関に入ると、玄関奥のピンク電話機が鳴っていた。慌てて受話器を取ると、その電話は昇平への電話だった。
「もしもし。吉岡さん、いらっしゃいますでしょうか?」
「はい。吉岡です」
「ああ、吉岡さん。私、ダンス教室の夏目です。この前はどうも」
「あっ、夏目先生」
「実は、この前いただいた同人誌、私の知人に見せたら、その人、貴男に会いたいって言うの。会っていただけるかしら?」
昇平は夏目綾香先生からの突然の電話に驚いた。どんな人物が会いたいと言っているのか。何が何だか分からない。昇平は綾香先生に訊いた。
「僕に会いたいって、誰ですか?」
「私の知っている木下徹先生。貴男の作品を読んで、1度、会ってみたいというの」
「どうしてでしょうか?」
「多分、文学好きの吉岡さんに興味を抱かれたのではないでしょうか。1度、会って下さらない?」
「良いですよ。夕方6時半過ぎ以降なら」
「じゃあ、夕方6時半過ぎ以降ということで調整するわ。勿論、私も同席します」
「よろしくお願いします」
昇平は、そう言って受話器を置き、首を傾げた。何故、綾香先生が、人を紹介するというのか。木下徹先生という人は一体、どんな人物なのか。昇平は部屋に入って、いろんなことを考えた。背広を脱ぎ、ハンガーに掛け、ネクタイを外していると、また1階の電話が鳴ったので、2階から階段を駆け降り、受話器を取った。綾香先生だった。
「連絡、取れたわよ。明日、6時半、自由ケ丘の『ファイヴ・スポット』で待ってるわ」
「自由ケ丘の『ファイヴ・スポット』って」
「知らないの。駅前広場のちょっと先のジャズ喫茶よ」
「ああ、分かりました。明日、6時半、そこへ行きます」
昇平は大学生時代、親戚の半田富久先輩に会う為、兄、政夫と自由ケ丘に行った時、入ったことのある喫茶店ではないかと推測した。翌日、昇平は『オリエント機械』での仕事を終えてから、綾香先生に指定された自由が丘の喫茶店に行った。その喫茶店『ファイヴ・スポット』は推測通り、ビルの地下2階にあり、赤いジュータンを張った螺旋階段を降りて行くと、フロアに置かれた丸テーブル席で夏目綾香が手を振った。その席に何と年配の木下徹先生とダンス教室で知り合いの引地俊子が一緒に座っていたので、昇平はびっくりした。緊張している昇平に、綾香先生が言った。
「さあ、座って」
「はい」
「木下先生。こちらが吉岡さんです」
「初めまして。吉岡昇平です。よろしお願いします」
「こちらこそ。木下徹です。無理を言って申し訳ありません。綾香さんから、貴男の小説を見せていただきました。また群馬出身だとも伺いました。コーヒーでも飲みながら、ゆっくり話しましょう。飲み物、何にしますか?」
「アメリカン」
昇平はチェイサーを持って来て傍に立って待っているボーイを見上げて、アメリカンコーヒーを注文した。その様子を見て、俊子が笑った。昇平は渡して良いのか悪いのか悩みながら、『オリエント機械』の名刺を木下先生に差し出した。木下先生は、それを受け取り、昇平を見つめ、昇平が一口、コーヒーを飲んだのを確かめ、昇平に会いたかった理由を話した。
「綾香さんから、聞いているかもしれませんが、最近、私はテレビやラジオの仕事が増えて、脚本の仕事が雑になって来ているので困っています。そこで、お願いですが、私の殴り書きした脚本を赤ペンで添削していただき、観客に馴染みやすいものにしていただけないかと、思っています。如何、でしょう」
「えっ。僕がですか?」
「はい。誤字脱字をを修正していただくだけでも助かります」
「僕には、そのような才能がありません」
「アルバイト料を支払いますので、協力して下さい」
「ご存じの通り、僕には会社勤めがあります。お手伝い出来る時間がありません」
「会社から帰って来て、小説でも読むつもりで、脚本をチエックしていただければ良いのです。お願いです」
「でも、僕には自信がありません」
昇平は木下先生の依頼に難色を示した。すると夏目綾香先生が木下先生の味方になって、昇平を口説いた。
「吉岡さん。やってみないで、初めっから出来ないなんて、言わないの。やってみて、難しかったら止めれば良いの。失敗しても、木下先生は怒らないから。ねえ、先生」
「うん。吉岡君の文学修行にも役立つと思うのだがな・・・」
木下先生は、そう言って、難しい顔をした。すると、今まで黙って同席していた引地俊子が、口出しした。
「吉岡さん。やってみたら。神田のダンス教室で会った時は、オドオドしてたけど、『恵比寿ダンス教室』では張り切っていたじゃない。ダンスと同じ。チャレンジよ」
昇平は3人に勧められ、その流れに従った。
「皆さんから後押ししていただけるなら、やってみます」
「本当ですか?吉岡君」
「はい」
「ありがとう。じゃあ、上に行って食事をしよう」
木下徹先生と女性2人は昇平がアルバイトを引き受けてくれたので喜びの声を上げた。それから4人はジャズ演がの始まろうとしてる『ファイヴ・スポット』から出て、そのビルの上階にある中華料理店『桜蘭」に移動した。昇平たちはその店で、木下先生に御馳走になり、美味しい中華料理をいただいた。紹興酒を口にすると、互いに多弁になった。木下先生は、時代劇の脚本も書くので、昇平の上州弁に期待しているとも言った。その席で、昇平は初めて木下先生が、有名なキノトールというペンネームの脚本家だと知った。また夏目綾香先生から木下先生の奥方が、昇平が中学生時代、週刊明星などで、こっそり読んだ青年の医学『性の悩み相談』などの記事を書いていたドクトル・チエコだと教えてもらい、びっくりした。またプロ野球の話に転じ、巨人軍の3年連続優勝は確実だろうという話になった。そこで引地俊子が現在、食事をしている中華料理店『桜蘭』の説明を昇平にした。
「吉岡さん。この店はね、巨人軍の多摩川グランドから近くて、巨人軍選手が利用している店なのよ」
「本当ですか?」
「本当よ。長嶋選手や王選手も来られることがあるのよ」
「ええっ、本当ですか?」
昇平は信じられないという顔をした。すると、俊子が、信じてくれないのと昇平を睨みつけた。そんな俊子を見て、綾香先生が言った。
「トコちゃんの言うことは本当よ。ねえトコちゃん」
「本当よ」
「トコちゃんの旦那さんも野球選手で、新婚ホヤホヤなんだものねえ」
「えっ。引地さん、結婚されたのですか?」
「はい」
「そうなのよ。だからトコちゃん、ナイターもあって大変なの」
綾香先生は新婚ホヤホヤの俊子をからかった。昇平の前で綾香先生にからかわれ俊子は真っ赤になった。昇平は巨人軍の選手が俊子の夫だと知って、またまたびっくりした。昇平は、こんな経緯で綾香先生や引地俊子の紹介で、木下徹の脚本書きの手伝いをすることになった。
〇
昇平は10月の『カヤバ珈琲』での同人誌『新生』の合評会で、自分の作品『リラの花咲く山荘』の批評を受けた。相変わらず、石黒博康や川村恒夫から厳しい批評を受けたが、平気だった。青木泰彦からは、1年前、羽島流一が発表した作品『四尾連湖の休日』に似て、軽井沢の緑の風や林道など爽やかさを感じさせる作品で、良いのじゃあないかと助け船を出してくれた。山形茂子もロマンチックなところもあって、これは作者の自身の経験か、それとも作り話なのかなどと言って、皆を笑わせてくれた。昇平は勿論、フィクションだと答えた。仲間の応援が有難かった。その合評会が終わった翌週の土曜日の夕刻、昇平は半蔵門にある『東条会館』で開催された『文学者ダンス愛好会』のダンスパーティに参加した。会場には『新生』の同人の他、『文芸首都』の同人、『中央文学』の同人、『あいなめ』の同人などが集まり、結構、華やかだった。特に女性は着飾り、まさに衣装比べだった。森秋穂先生は相変わらず燕尾服姿だった。6時15分にバンド演奏が始まると、昇平は『新生』の何時もの若いメンバー同士、声を掛け合ってダンス曲に合わせて踊った。ブルース、ワルツ、マンボ、タンゴ、ルンバ、ジルバなど、山形茂子、山田鈴江、輪島百代たちと踊り、楽しくて仕方なかった。『夜霧のブルース』、『蘇州夜曲』、『夕陽の丘』、『星影のワルツ』、『鈴懸の径』、『新雪』、『碧空』、『星のフラメンコ』『情熱の花』、『闘牛士のマンボ』、『ベッサメムーチョ』など、なじみのダンス曲が多かった。途中で『中央文学』の弓野咲子に声をかけられ、彼女と踊りながら、赤川主幹や秋山副主幹、柿原洋子のことや親しくしていた荒木清貴、木下優子のことなどを訊いた。咲子は『中央文学』の活動は相変わらずだが、鋭い作品を書く同人がいないので、昇平に『中央文学』の同人に復帰しないかと呼びかけた。昇平は、その誘いに、戻る気はないと断った。すると咲子は身体を密着させ、昇平を口説いた。昇平は、そんなことをされながら、バンド演奏に乗ってダンスを楽しんだ。ダンスパーティの終盤は去年と同じだった。『ラストダンスは私に』に続き、『蛍の光』の曲が流れ、『文学者ダンス愛好会』主催のダンスパーティは終了した。昇平は森先生たち文学界の先輩たちに挨拶して、『東条会館』から、何時もの『新生』の若いメンバーと『新宿ゴールデン街』のバー『ランラン』に移動した。同行した女性たち篠原勝子、山形茂子、輪島百代、岬百合香、山田鈴江たちが、ダンスパーティで着たドレスを入れたバッグなどを持ち込み、店の中は、ぎゅうぎゅう詰めになった。だが世間ずれして、ちょっと退廃的美人ママ、花田香織は、青木泰彦や石田光彦がお客を沢山連れて行ったので大喜びした。青木や石田は『ランラン』の常連だった。青木は香織ママに初めて店に来た昇平や輪島百代たちを紹介した。『新生』の若者たちは香織ママと江里の出してくれたモツ煮込み、おでん、お新香などを食べながら、焼酎やジュースなどを飲んで、話した。まずは『文芸首都』の同人たちの態度が何故か高慢ちきに見えたとか、『あいなめ』の同人たちはハイセンスの人が多いとか、他の同人誌の同人たちのことが話題になった。酒が入って来ると、皆、言いたいことを喋った。青木や石田が、吉田茂の国葬を批判し、篠原勝子や山形茂子たちは、ミニスカートのツイッギーの話をした。10月18日にツイッギーが来日したことで、テレビがミニスカート旋風を巻き起こしていたからだった。そんな話題で盛り上がり、気が付いた時には、羽島流一や岬百合香や山田鈴江の姿が消えていた。昇平もベロンベロンになった青木たちを『ランラン』に残し、新宿駅まで輪島百代と一緒に帰り、東口で別れた。昇平は帰りの電車の中で、『N女子体育大』の小野京子はツイッギーに似ているなと思った。彼女とまたダンスを踊りたくなった。
〇
11月半ばの日曜日、『春風荘』の部屋で木下徹先生が走り書きした脚本の添削をしていると、1階の管理人の百合ママが、1階から昇平の名を呼んだ。
「吉岡さん。吉岡さん。電話ですよ。電話がかかって来ていますよ」
その声を聴き、昇平は部屋のドアを開け、2階から1階への階段を駆け降り、電話口に出た。
「はい。吉岡です」
「あっ、吉岡さん。畑中です。畑中鈴子です」
「ああ、畑中さん。お久しぶりです」
「お久しぶりです。実は今日、絹ちゃんが、私の家に来ているの。ご迷惑でなかったら、吉岡さんと3人で、お喋りしたいの。最近、会っていないので、皆、どうしているか知りたくて」
「そうですか。午後からなら良いですよ」
「では、学芸大駅前の喫茶店『マチルド』で2時でどうかしら」
「了解です。2時に『マチルド』に行きます」
昇平は畑中鈴子からの電話を切ってから、彼女たちのことを懐かしく思った。ここのところ、船木も昇平も、バタバタしていて、『NA石油』の彼女たちと会っていなかった。昇平の頭の中に、彼女たちと土肥海岸に行った時のことや林田絹子に部屋のカーテーンを作ってもらったことや、船木と彼女たち2人とお喋りして帰った夜のことなどが蘇った。そして青春の時間が足早に容赦なく過ぎ去って行くのを感じた。昇平は部屋に戻ると、今まで添削していた木下先生の脚本をカバンに詰め込み、外出着に着替え、『春風荘』から外に出て、レストラン『ナイアガラ』に移動し、そこでカレーライスを食べ、コーヒーを飲みながら、校正の仕事をした。木下先生の脚本を、まるで役者になった気分で読み返し、自分の加えたいセリフも付け足した。だが余り付け加えると木下先生の気分を害すると思い、適当なところで、まあいいかと、ペンを休めた。午後1時半過ぎ、昇平は『ナイヤガラ』から祐天寺駅に行き、東横線の電車に乗り、隣りの学芸大駅で下車した。喫茶店『マチルド』は駅から直ぐ近くにあるので知っていた。ブルーの軒先テントと白い縁取りの入口ドアが目立ち、店先には客待ち顔の鉢植えのゴムの木が、『マチルド』の来客を待っていた。その『マチルド』の入口ドアを開けると、畑中鈴子と林田絹子が既に来ていて、コーヒーを飲んでいた。彼女たちは店のマスターと同時に声をかけた。
「いらっしゃい」
その声に昇平は照れ笑いして応じた。
「久しぶり。2人とも元気そうだね」
「まあね。そこに座って」
鈴子が絹子の横に席を変えて言った。昇平は頷き、今まで鈴子が座っていた席に座った。昇平は深呼吸してから、マスターにアメリカンコーヒーを注文した。それから佐藤首相の訪米阻止闘争の当日、首相官邸前でガソリンをかぶって焼身自殺した反戦運動家の話や来日した時のツイッギーのミニスカート姿などを話題にした。その後、少ししてから鈴子が遠慮気味に船木のことを訊いた。
「船木さん、どうしているの。最近、連絡して来ないけど?」
昇平は、そう訊かれて、一瞬、戸惑った。2人の関係がどうなっているのか船木から聞かされていなかった。船木は半年前に生命保険会社を辞め、職探しの後、『ロリアン化粧品』に入社し、新入社員として、熱心に仕事を覚えなければならず、女性の相手をしている余裕が無いに違いなかった。そこで言ってやった。
「実は彼、『TH生命』を辞めたんだ」
「それは知っているわ。その後、何処で何をしているのか知りたいの」
「僕の所に転がり込み、数ケ月、職探しして、今は化粧品会社の営業をしている」
「まあっ、そうだったの。今、吉岡さんの所で暮らしているの?」
「いや。僕の所から、杉並区の方へ引っ越したよ」
「住所、分かる?」
「教えてもらっていない。心機一転、再スタートすると言っていた」
「水臭いわね」
「今度、船木に会ったら住所を教えてもらい、彼の了解が得られれば、畑中さんに連絡先を教えてやるよ」
「ありがとう。船木さんに、また会いたいの」
「うん。言っとくよ」
昇平は、鈴子が昇平に心を寄せていることが分かっていたから、笑って、そう答えた。その後、会話が途切れたので、3人は喫茶店『マチルド』を出て、学芸大駅から5分程の所にある『碑文谷公園』を散歩することにした。昇平は、隣りの駅近くなのに、『碑文谷公園』に行くのは初めてだった。五本木育ちの鈴子は、子供の時から、大きな弁天池のある公園に遊びに来ていて、彼女の案内で池の真ん中の島に神社のある風景を眺め、それから3人で、貸ボートに乗った。昇平は今、一緒にいる林田絹子と土肥海岸でボートに乗った時のことを思い出した。絹子も同様だった。ボートに乗って思い出話などしてから、3人は体育館に移動し、卓球を楽しんだ。彼女たちは昇平より卓球が上手だった。普段、運動しない昇平は、ちょっと疲れた。夕方5時前、卓球を終え、鈴子が家の近くのレストランで、食事をしようと昇平たちを誘ったが、家の遠い林田絹子が帰るのが遅くなるからと、鈴子の誘いを断った。昇平も腕時計を覗き、鈴子に提言した。
「じゃあ、駅前まで行って解散しょう」
3人は『碑文谷公園』から学芸大学駅前で歩いた。学芸大学駅に着き、そこで、電車に乗って帰る昇平たちは見送る鈴子と別れた。
「今日は誘ってくれてありがとう。船木に会ったら、連絡するよう伝えるよ」
「きっとよ。絹ちゃん、吉岡さんに上野まで送ってもらいなさい」
「はい」
昇平と絹子は、改札口で手を振る鈴子と別れて、東横線のホームに上がり、顔を見合わせて笑った。絹子が昇平に言った。
「鈴ちゃんは、ああ言ったけど、吉岡さん、次の駅で降りて帰って。私は1人で帰れるから」
「いや。上野まで送って行くよ」
昇平はそう答えて、やって来た渋谷行き電車に乗り、中目黒で地下鉄日比谷線に乗り換え、上野まで行った。地下鉄から地上に出ると、上野駅前のビルや商店街のネオンが眩しかった。昇平は絹子を食事に誘った。
「腹がへった。レストランで何か食べよう。少し帰りが遅くなるが良いだろう」
「はい」
絹子はためらいがちに答えた。卓球をして来たので、2人とも空腹状態だった。そんな2人にとって上野は馴染の街だった。昇平はレストラン『聚楽台』に彼女を案内し、食事をした。昇平はビーフシチューを注文し、それが運ばれて来ると、あまりにも美味そうなので唾を飲み込んだ。そのビーフシチューを見て絹子が頷き、スプーンを運んだ。温かくじっくり煮出したエキスと野菜の甘味が柔らかな肉と口の中でとろけ合わさって、何とも言えない美味しさだった。昇平は夢中になって食べた。絹子が笑って言った。
「そんなに慌てて食べると胃に良くないわよ」
「営業マンは何時も時間に追われているから、早食いなんだ」
「折角の美味しい料理が慌てて食べると、何を食べたのか分からず、勿体無いわ」
絹子は、そう昇平に注意し、小さな口を動かしながら、幸福そうにビーフシチューを食べた。それから、昇平が胸にシチューをこぼしたのを目にして、したり顔で言った。
「ほおら、慌てて食べるから、こぼしたりして。だから注意したのに」
まるで女房気取りの注意の仕方だった。そんな食事だったが、2人はビーフシチューの美味しさに満たされ、幸福感いっぱいだった。昇平は栃木育ちの気取らない絹子に、何故か親近感を覚えた。彼女は現在、千葉県我孫子市の姉夫婦の家に居候しているが、早く良い相手を見つけ、結婚したいと言った。昇平は、この手の話には苦手だった。作家になる夢を抱いている貧乏青年の自分には、結婚など夢の夢だった。幼馴染の中山理恵、中学時代からの小池早苗、高校時代の後輩、寺川晴美、大学時代の笛村麻織、看護婦の大橋花江、木下綾子など、こちらから追いかければ結婚してくれそうな雰囲気だった。しかし、昇平は逃げた。結婚して彼女たちを扶養する自信が無かった。林田絹子は、漠然と結婚について口走ったが、それは昇平が居候していた麻布の深沢家から飛び出したくて仕方なかった心情と同じ、姉夫婦の世界から脱出したい気持ちに相違なかった。
「僕にも、そんな時があったよ。しかし、僕も、そんな解放感を優先して、強引に1人暮らしを始めたけど、1人暮らしは経費がかかって大変だよ。1人で、何から何までやらなければならないんだから」
「でも何時までも姉夫婦の家にいられないから」
「気持ちは分かるけど、止めておいた方が良いよ」
「だって、ミコちゃんだって1人暮らししているのよ」
「彼女には彼女の、それに見合った条件があるんだろう。ちゃんとした彼氏が見つかるまで、我慢するんだね」
「分かったわ。吉岡さんは恋人いるの?」
「そんな人、いないよ」
「じゃあ、時々、私と会ったりしませんか」
「うん、良いよ。でも僕、忙しいからな。手紙でも書くよ」
昇平は、そう答えて、絹子の住所をメモ書きしてもらった。美味しい食事と楽しい会話を終えた後、昇平と絹子は国鉄上野駅の改札で別れた。昇平は上野駅から山手線の電車に乗り、渋谷経由で『春風荘』に帰った。すると郵便受けに昇平宛ての封書が届いていた。あの『N女子体育大』の小野京子からの手紙だった。
〈 吉岡昇平様
突然の手紙を受け取り、さぞ驚きの事と思います。
再来週の26日の日曜日、私の関係する団体でのダンスパーティがあります。
是非、貴男にいらっしゃっていただきたく、パーティ券を同封します。
会場は神田の『YМCA会館』です。
折角の日曜日、他に何かのお約束があるかもしれませんが、是非、お出かけ下さい。
心からお待ちしていいます。
かしこ
小野京子 〉
昇平は封筒からパーティ券を取り出し、そのダンスパーティ会場が、かって、大橋花江と行ったことのある神田美土代町の『YМCA会館』なので驚いた。大学生時代のことだった。美土代町の都電乗り場で、気持ち悪くなり、うずくまっていたところに、麻雀帰りの兄、政夫がやって来て、助けてもらったこともあった。神田の街の思い出は尽きない。昇平はダンスパーティに顔出しすることにした。
〇
11月26日の日曜日、昇平は、午前中に木下徹先生の脚本の校正作業を終え、『春風荘』を出て、恵比寿の喫茶店『銀座』に行った。待ち合わせした夏目綾香先生は、まだ見えていなかった。まずはアメリカンコーヒーを註文し、それを飲みながら、綾香先生が現れるのを待った。その綾香先生は5分程すると、やって来た。
「ごめんなさい、遅れちゃって」
「僕も来たばかしです」
「食事はしたの?」
「いえ、まだです」
「では一緒に何か食べましょう。何にする?」
「カレーライス」
「では私もカレーライス」
綾香先生が、マスターにカレーライスを註文してから、昇平は自分が赤ペンで校正した木下徹先生の脚本を綾香先生に渡した。綾香先生は靴を鳴らしながら、昇平が校正した部分を確認した。昇平が請け負った仕事を確実に遂行しているかの確認だった。昇平は心配になって綾香先生に訊いた。
「こんな校正の仕方で良いのでしょうか?」
「良いんじゃあない」
「もっと笑いを誘うセリフを加えられれば良いのですが」
「そうね。お客さんを可笑しくさせる明るいセリフがあれば、木下先生も喜ぶわ。とりあえず、木下先生に、これを提出して、アルバイト料をいただいて来るわ」
「よろしくお願いします」
昇平は綾香先生に深く頭を下げて、お願いし、運ばれてきたカレーライスを食べた。それにしても校正という仕事は大変だった。校正していて自我を出してしまいそうになるのを制御しながら、原作者の意図するところと足並みをそろえなければならなかった。カレーライスを食べながら、そんな話をした後、食後のコーヒーを飲み、昇平は綾香先生と喫茶店『銀座』を出た。コーヒー代と食事代は綾香先生が支払ってくれた。綾香先生とは恵比寿駅前で別れた。それから昇平は地下鉄日比谷線の電車に乗り、霞が関で丸の内線の電車に乗り換え、淡路町で下車し、美土代町の『YМCA会館』に行った。『YМCA会館』のダンスパーティ会場に入って行くと、受付近くにいた小野京子が、昇平を見つけて駆け寄って来た。
「吉岡さん。来てくれたのね。待っていたわ。ありがとう」
京子は現れた昇平を捕まえ、絡みついて来た。京子の友達らしい女子大生たちがパートーナーがいる京子を羨ましそうに眺めた。6時になると舞台の上の演奏者たちに照明が当てられ、ダンス音楽の演奏が始まった、集まったダンス好きの男女が待ってましたとばかり、カップルとなって、ダンス曲の調べに乗って踊った。ボーイッシュで、ちょっとツイッギーに似た京子は昇平に抱かれ、押し合いへし合いの混雑の中、仕合せそうに踊った。このパーティの参加者は『YМCA会館』で学習するクリスチャンやスポーツ選手たちだという。ゆるやかなブルースから始まり、昇平の好きなワルツの後、演奏曲が次第にスピードを増した。すると体育大に通う小柄な京子は、まるで小鹿のようにクルクルと回って踊った。昇平は京子に誘導され、会場の天井やミラーボールや演奏している人たち、踊っている人たちが、グルグル回り始め、目まいを起こしそうになり、一旦、休んだ。京子が他の友達の所へ行ったので、昇平は弾んでいる息を休ませた。楽しそうに踊る人たちを眺めていると、休んでいる昇平のそばに、紫色のドレスを着た女性と桜色のドレスを着た女性が近寄って来た。
「まあっ。吉岡さん、いらっしゃっていたの」
「あっ。中村さん」
『オリエント貿易』の中村美保と『蛇の目ミシン工業』の筒井久美だった。昇平が目をパチクリしていると、美保が久美に言った。
「久美ちゃん。吉岡さんと踊ったら」
「何、言ってるのよ。美保ちゃんの方が踊りたいのでしょう。吉岡さんだって、その方が楽しい筈よ。私、向こうへ行って踊るわ」
久美が踊りの場から消えると、昇平は美保と久しぶりに踊った。踊りながら訊いた。
「梨本さんは来てないの?」
「うん。彼、最近、冷たいの」
「最近、仕事が忙しくなっているからな」
「それだけじゃあ無いわ」
「それだけじゃあないって?」
「吉岡さんには関係ないことよ」
「うんそうだね」
昇平と美保は短時間であるが、ムードダンスを堪能した。そんな2人の所に戻って来た小野京子が、昇平に手を振った。それを見て、美保は昇平との踊りを止め、またねと言って、その場から去った。京子は美保が消え去るや昇平に抱き付いて言った。
「浮気は駄目よ!」
「バカだね。知ってる人だよ」
「知ってる人でも、今夜は駄目です」
「分かったよ」
そんなやり取りをして、昇平たちは再び踊った。『蛍の光』の曲が流れ、ダンスパーティは、9時に終了した。昇平はゾロゾロ退場する人たちを見送りながら、更衣室で着替えて来る京子を待った。中村美保と筒井久美は、手を振って、先に帰って行った。着替えて出て来た京子は、昇平と腕を組み、食事に行こうと言った。昇平は『YМCA会館』から神田駅近くのレストラン『エヴェアン』に京子を案内して、そこでハンバーグライスを一緒に食べた。食事をしながら京子から中村美保のことを訊かれたので、昇平は彼女は取引先の事務員だと答えた。食事を終えるや昇平は神田駅から京浜東北線の電車に乗り、川口駅まで京子を送って行った。京子と川口駅のホームで別れ、折り返しの電車に乗り、赤羽から池袋、新宿経由で渋谷まで行き、『春風荘』に帰った。
〇
寒い12月がやって来た。先月会った林田絹子に会い、互いの誕生祝をしたいと思ったが、金欠病なので、連絡するのを止めた。そんな後に、夏目綾香が、木下徹先生から預かった脚本の校正代5千円を渡すからと連絡して来た。昇平は、先月、綾香先生と会った恵比寿の喫茶店『銀座』へ行き、アルバイト代をいただいた。有難かった。また『オリエント機械』から2ケ月半の暮れの賞与をいただいた。そこで昇平は懐が温かくなったので、久しぶりに麻布の深沢家に手土産のケーキを持って訪問した。久しぶりの訪問に、喜一郎叔父、利江叔母、従兄の忠雄、従妹の高子も喜んだ。昇平は『オリエント機械』での現状を話した後、『М銀行』に勤める高子に2万円を渡し、昇平の口座に入金していただくよう依頼した。その後、喜一郎叔父たち深沢家の家族と食事をしながら酒を飲み、テレビを観たりして、笑い合った。そんな団欒の中、利江叔母が、昇平に言った。
「実は昇平、赤羽の野口の叔母さんから、お前にお見合いの話が来ているのだけど、どうする?」
「えっ。赤羽の叔母さんから?」
「そう。荒物屋のお嬢さんだって。短大を卒業して、今、店の手伝いをしているの」
「それって、荒物屋の婿さんになれってこと」
「そうよ。一人娘なので、どうしても婿さんが欲しいのですって」
「そう言われても、僕に結婚はまだ早すぎるよ」
「そう急がない話だから考えておいて」
昇平は結婚どころでは無かった。結婚は自分が生きて行く自信と夢を叶えられそうな目途が立ったところでないと決断出来なかった。昇平は、見合いの話を断り、深沢家から、『春風荘』に帰った。師走と言われている季節だけあって、会社勤めの昇平の毎日は多忙を極めた。客先への挨拶回り、伝票整理など、営業の仕事は大変だった。その他、『モエテル』の忘年会、『新生』の忘年会、『オリエント機械』の忘年会と忘年会続きだった。『オリエント機械』の忘年会は、去年と同じ綱島温泉の割烹『入船』で行われた。昇平は遠藤常務に命令され、橋幸夫の歌を唄った後、綱島芸者と剥ぎ取りジャンケン遊びをした。ジャンケンして負けたら、着ている物を1枚脱ぐゲームで、芸者の雪乃と『オリエント貿易』の郡司係長と昇平と3人でゲームをして、昇平はジャンケンを繰り返すうち、パンツ1枚になり、大笑いされた。そこで、昇平は剥ぎ取りジャンケンを勘弁してもらい、郡司係長と襖を1枚外して横にし、その襖の陰で郡司係長に煙草を吸って煙を沢山、吐いてもらい、温泉風呂に入っている情景を上半身裸で皆に披露した。
「いい湯だな。いい湯だな。ここは神奈川、綱島の湯・・・」
それを見て、今年もまた、皆が大笑いしてくれた。12月は楽しいことばかりでは無かった。翌日には、同期の田中や宮里から声がかかり、三浦照男の送別会となった。三浦照男は、12月いっぱいで会社を辞め、来年から自分でプラスチックの成形会社を始めるという。その送別会に橋本虎造、越水正勝の他、浅岡陽子、石坂房子、向井静子、宮本知子たち女性陣が出席したので、昇平はびっくりした。『オリエント機械』の優秀な設計者として、アメリカの『ドナルド社』に出張したのに、どういうことか。昇平は、人の心とは分からぬものだと思った。それにしても新会社を創業するとは、凄い勇気だと感心した。もっと分からぬ別のことが、更にその後に起きた。『新生』の主幹、森秋穂先生が死去したというのだ。告別式は近親者で済ませたという青木泰彦からの報告だった。やっと同人誌仲間と親密になって来たというのに『新生』はどうなってしまうのだろうか。昇平は愕然とした。こうして、吉岡昇平の昭和42年(1967年)は迷走のうちに過ぎ去った。どうなる。昇平の未来は、恋は?
〈 『迷走回廊』終わり 〉
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