2021年の異世界転生
「1」
二〇〇三年七月。高校三年、夏。
ポルノグラフィティのアルバム『ロマンチスト・エゴイスト』を購入した。ファーストアルバム。二〇〇〇年三月発売。いまさら、世紀を跨いでまでいまさらになってそれを買ったのは、買おうと思ったのには特に別にまあ特別の理由もなく。ただなんとなく買いそびれていたのと、夏になってなんとなくポルノグラフィティを聴きたくなったのと、そんな感じの理由だった。
放課後の理科室で僕はCDを聴く。そこには誰が何の目的で置いたかは分からないが窓際に一台、少しだけ古びた遺産みたいなラジカセが一台置いてある。僕はその古びたラジカセで前世紀から届けられたポルノグラフィティの音楽を聴く。
近くの椅子に腰を掛けて鞄の中からライトノベルを一冊取り出し、中を開いて表面を文字の上を目が滑る。読書に集中して文章が頭に入り始めるより前に僕は一度、窓の外へと目を向けた。昼間の青空がそのまま夕陽に染められたオレンジ色。雲一つない快晴。
高校三年、夏、七月の夕暮れ。
曇って晴れてまた曇って。それなりに雨が降って一時止んでまた降って。まあそれなりに平凡な例年通りの梅雨が終わってついでに一学期の期末テストも終わって、外は晴れ気温は盛大に上がったが夏休みを前に僕らのテンションは上がらない。気分も晴れない。
受験生。と言われてもいまだ実感は沸かず。
六月が終わって、少しは、鬱陶しい肌にまとわりつくような暑さもカラッと清々しいものに変わってくれれば良さそうなものだが変わらずにジメッと暑い。雨が降らないだけで梅雨がまだ続いているみたいな気分で少し息苦しく感じた。
それでも外は大いに晴れていて、教室の窓から見えるグラウンドの土は夕焼けの空と同じ色、気持ちの良いオレンジに染められている。グラウンドの向こう、学校の敷地のすぐ外には水田が広がり、少し背が伸びた苗が柔らかい風に吹かれて穂先を揺らしている。
(まるで、サバンナみたいに)
そんな風に僕が思ったのは教室の中から聴こえるホンマさんの歌声に引っ張られたからだろうか。
同じクラスの女子。肩まで伸びる髪は明るい色をしていて他の女子よりも少しだけ大人っぽく見えるが、その目立つ髪色のせいでいつも生活指導の先生に注意されている。白い肌がよく映える栗色は大人っぽい彼女によく似合っていて、そんなに、先生たちが言うほどそんなに悪いもんじゃないのになと僕はいつも心の中で彼女を擁護する。髪に隠れた耳元からはイヤホンのコードが伸びていて机の上にはCDプレイヤー。彼女はMDを使わない。理由は知らないがとにかくCD派なのだ。
「お、ポルノグラフィティじゃーん」
僕がCDを聴き始めてから間もなく。同じく一人理科室にやってきた彼女は、そう言ってご機嫌な様子で語尾を伸ばして呟くと、許可も得ずにラジカセから僕のCDを強奪して自身のプレイヤーで聴き始めたのだった。そのまま聴けばよいのに、なぜわざわざラジカセからCDを取り出してポータブルプレイヤーで聞き出したのか分からない。耳元の髪を軽く掻き上げてイヤホンをつけて、それからしばらく鼻歌交じりに聴いていたが、四曲目、余程お気に入りなのか『ライオン』を聴いている時だけ思わず口ずさみ出した。
曲が聞こえない僕にはホンマさんがアカペラで歌っているように感じられたが、女性ボーカルの、同級生の女子の声で聴くポルノグラフィティはなんだか新鮮だった。決して大きな声では無くまた情感たっぷりに歌っているわけでもなかったが、何故だか心に響いた。サビの部分で無理なく伸びる声が綺麗だと思った。歌っている時の彼女の声は、いつものホンマさんよりなんだか少しだけ幼くて、けどそれは年齢相応の十七歳十八歳の歌声のようで僕はそのちぐはぐにやられる。大人っぽい彼女の表情、似つかわしくないが綺麗な歌声、校舎、夕焼け、窓の外のサバンナ。
咲く花のように美しくて、傷つくことを知らないような不遜さいや無敵さで。荒野の吹く風にスカートの裾を靡かせて、そうして咲いた花のように散るまでの無敵さ儚さを感じさせる。
高校生活を縦横無尽に楽しむ彼女が、残り僅かな女子高生を、その放課後をどうしてこんな辺鄙な特別教室棟の一室で時間を浪費しようというのか。僕にはまるで理由が想像できなかった。大きなネコ科動物みたいな気まぐれさを、女子の気持ちを行動原理を、僕ら男子にはいつだって理解できない。
(真顔で明日を語るなんて、どうやらね違うんでしょ)
この部分の歌詞、好きだな。と僕は思った。
「2」
二〇〇一年二月。中学三年、冬。
ポルノグラフィティのセカンドアルバム『foo?』を購入した。それから、人生で初めて失恋をした。
人生で初めて告白をして、付き合い、そうしてひと月を待たずに振られたのは、隣の席のクラスメイトだった。隣の席だったので、それなりに話していたしそれなりに仲も良かったと思う。クラス委員長で成績も優秀、おまけに品行方正まさしく優等生な彼女だったが、少年ジャンプが好きという隙というかギャップみたいな所がとても愛らしく感じられた。毎週月曜日にはワンピースの話で盛り上がった。ちょうど大長編のアラバスタ編が佳境だった。そんな訳で話が合ったので勇気を振り絞り僕の方から告白をし、OKをもらえた。人生で初めての恋人だったが特別に何か変わったという実感もなく。いや何かが変わるよりも早い速度で期待とか未来とかそういうキラキラしたものは真冬の海の荒波へと浚われていってしまったのだ。
三月。卒業式の日。二月には積もるほど降った雪も、卒業式の頃には雨に変わり、校庭に残っていた雪もおおよそ融けきって流された。それでもまだ春を迎えるには程遠く、寒く。通学の時にいつも身に着けていたよく熟れた甘いミカンみたいな色の厚手のコートと差し色の青いマフラーと、その日も彼女は見慣れた服装をしていた。
「ごめんなさい」
と彼女の方から別れを切り出されて、少しだけ会話をして、その後はよく覚えていないが中学卒業の実感よりも振られた衝撃の方が大きくて感傷に浸っている時に思わず脳内で流れたのは当時擦り切れるほど聴いていたはずの失恋歌。
(私は私とはぐれる訳にはいかないから)
当時の僕にその歌詞の意味はよく分からなかった。分からなかったがメロディと切なくそれでいて力強い歌声が胸に響いた。なんでこの人はこんなに。失恋を力強く歌うのだろうか。恋とは情熱だ。いや灼熱かもしれない。している時も。終わる時も。年末の歌合戦かあるいは他の歌番組か。炎の演出で歌うバンドの姿が頭の中に浮かんでは消えた。力強い歌声がずっとずっと頭の中をリフレインした。
振られた理由はお互いの進路。通う高校が別々になるから、だ。
彼女は県内で一番の進学校へ進学した。
僕は家から一番近い高校へ進学した。
「さよなら」じゃなくて「いつかまた」と言えば何か変わっていただろうか。
三月の後半は皮肉にも優しくて暖かい日が続いた。その年の冬は意外と早く終わった。
「3」
教室棟から渡り廊下を歩いて特別教室棟へ向かう。夏服のワイシャツの下、肌着は汗が滲んで心なしか朝より少し重く、足取りも鈍る。
教室棟の一階、職員玄関のすぐ目の前には職員室があって、その隣が進路指導室になっている。放課後。進路指導室のドアを閉めて、向かう僕の足取りはひどく重かった。音もなく、小さな溜息を吐く。
僕の通う高校は進学に力を入れているわけでも無いが、かと言って不良だらけというわけでも無い普通の公立高校だ。どこかの部活が県大会を突破すれば大騒ぎで屋上から垂れ幕垂らすような、普通の普通の地方の公立高校。
特別教室棟に入って階段を上り一階から二階へ。薄汚れた乳白色の廊下。炭酸の抜けたサイダーみたいな空気。一階の端には生徒会室があるが、そこにいるのは今読んでいるライトノベルみたいに特殊な超能力をもった変人の集まりなんかではなく、校内でも結構優等生の、問題とか全く起こさないタイプの生徒が集まっているだけで。二階には、端から怪異の起きない音楽室によく整理された音楽準備室、隣の理科準備室はマッドサイエンティストな教師に私物化なんてされていなければ、そもそもこの学校にマッドサイエンティストもいない。事件性も物語性も無い、平和な高校。平和な放課後。そうしてそれから。その隣が理科室。普通教室よりやや広くて一クラス三十人が席についてもまだ広く感じる教室内に、薬品の匂いもしなければラベンダーの香りもない。勿論未来にも異世界にも繋がってはいない。平和な高校。平和な放課後。
僕はまた今日も放課後、理科室に来ている。
「青春時代ってなんだか無限におんなじ曲を聴き続けられるよね」
そしてホンマさんも今日もまた。あれから一週間。放課後の誰もいない理科室で一人静に本を読んで過ごそうとすると決まってホンマさんもそこに現れる。彼女は理科室の中で特に何かをするわけでもなく音楽を聴き携帯電話を弄り、たまに本読む僕に話しかけてくる。僕に何か用事があってそこにいるようでもあり、そうでもないようでもある。誰か、仲の良い友人と待ち合わせでもしているのかと思って一度だけそう訊ねてみたら「そうではない」と答えられた。よくわからない。ケンゼンな男子なら自惚れ勘違いでもしそうなシチュエーションだが、生憎とそんな事もなく。
ホンマさんには恋人がいる。学外の、大学生の年上の彼氏がいて、それはどうやら有名な話らしくてクラスメイトのそういう事情に疎い僕の耳にも入るくらいには有名な話だ。まあ端的に言って目立つのだ、彼女は。
「先生、なんだって?」
先ほどの独り言みたいな独り言と違って、今度はホンマさんがはっきりと僕に話しかけてきた。急に話しかけられて驚いた僕は「いや、別に」と素っ気ない返事をしてしまったが、ホンマさんはふーんとさして気にしない様子を見せて、それからまたイヤホンを耳に装着してお気に入りの曲を再生したようだった。
「進路の事?」
「……うん」
暫くしてホンマさんがまた訊ねてきたので僕は今度は彼女の方を見ないまま、本に視線を落としたまま答えた。また独り言だったかもしれない。イヤホンは耳に着けたままかもしれないし、そうでなくても自分で思っていたよりもずっと答えた声が小さくなってしまったので、彼女には届かなかったかもしれない。
ワイシャツの下に、じっとりと汗が滲む。
グラウンドの方から急に雨が強く窓ガラスを叩き出す音が聞こえてきて、やっぱり今もまだ梅雨が終わっていないみたいに、昨日までからりとしたオレンジ色だった夕焼けも今日は鈍色の雲に覆われてしまった。
「4」
二〇〇二年三月。高校一年、春。
ポルノグラフィティのアルバム『雲を掴む民』を購入した。それから、幸せについて本気出して考えてみた。いや、本気というのは嘘。少しだけ。少しだけ将来とか未来とかあと現在とか現状とかとにかく今の自分の事とこれからの自分の事を考えて。それから。
それから部活動を辞めた。退部した。
中学時代から続けてきて、惰性で続けていたようなものだからあまり後悔は無かった。小学生の頃にほんの少しだけ人より上手く出来て当時の担任の先生が褒めてくれた。子どもの頃に自分が特別な存在と勘違いするには十分な体験ではあったが、ただそれでなんとなく続けていただけだった。いや、本当は。中学生になりたてくらいの頃にはそれで将来はオリンピック選手になってそれだけで飯が食っていけると、本気でそう夢想していたのだった。恥ずかしながら。マイケルやカールやルイス的な未来が待っていると思っていたのだ。当然現実はそんな未来とは程遠くて、練習もキツければ良い成績を残せない大会もやはりそんなに好きではなかった。 部活動を辞めてからの放課後はとても暇だった。そうして僕は持て余した暇を、多くの時間を本屋で過ごした。
自転車通学だった僕は高校から出て家とは反対方向、自転車に跨り住宅地を抜けて幹線道路二四六号線を横切り駅の方へと向かう。駅前のTSUTAYAには平積みされた漫画の新刊たち。表紙だけ眺めて音楽雑誌を少しだけ立ち読みしてライトノベルのコーナーへ足を運ぶ。角川スニーカー文庫から富士見ファンタジア文庫。この頃から全盛は電撃文庫。明るい表紙が美少女が目立つ。時代がなんとなく異世界を駆るハイファンタジーから学園ものをはじめとするローファンタジーに移り行くような予兆を感じて僕は少しだけ物悲しかった。僕は空想の世界に憧れた。剣と魔法の世界に憧れた。魔法使いの掌から迸る炎が荒野を走り天空にはドラゴンが踊り冒険者たちが笑い旅の相棒の自動二輪が軽快に話す。学校からは遠い異世界に憧れた。
それから徒歩圏内のジャスコへ向かって館内の書店へ梯子。TSUTAYAとの間違い探しみたいに知らない本が無いか眺めるがここではあまり時間を使わず。
最後にもう一店。系列店ではない程よく寂れた中古本屋へ向かう。
「5」
学校を出る頃にもまだ雨は止まずに降っていた。雨脚は降りだした頃よりほんの少しだけ弱まっているように感じたが、急に振り出した夕立はそのまま世界を灰色に包んで空とアスファルトに薄く暗い陰を落とす。僕は駐輪場から自分の自転車を出して、右手で傘を差しながら器用にハンドルを握る。雨に打たれるのがそんなに嫌なわけでもなかったがなんとなく自転車には乗らずにそのまま牽きながら歩き校門を通る。そうして。家の方に向かうか駅の方へ向かうか少し逡巡して駅の方へと歩き出した。
歩道に出来た小さな水溜まりを避けもせずに自転車を進める。タイヤで割いてみたり革靴の底で踏みつぶしてみたり。下ばかり向いて歩いていたが、ふと視界の端に鮮やかな色味を感じて顔を少し上げると民家の生垣に紫陽花が咲いて残っていたのが目に映った。薄い紫色のものと、それからもう少しピンクっぽい色のもの。垣根いっぱいに咲くほどの立派なものではなかったが数輪、悪天候のせいか目立つその花の色に目を奪われた僕は足を止めて顔を近づけた。小雨に打たれて葉とがくが静かに揺れている。紫陽花というのは七月まで咲き続けるものだっただろうか。僕はまだ六月に自分だけが取り残されているような錯覚に酔いながら、そうこうしている内にまた急に雨脚が強くなり出してきたので足早にその場を去った。
「6」
そこはジャスコから自転車でほんの数分の所にあった。
ニ四六号線を挟んで逆方向に行けばブックオフもあるのだがブックオフのような整然とした様子はなくいかにも地方の中古本屋という趣であり、しかし古書店のような厳めしさもなければ陳列棚の中身はほとんどが漫画で占められていた。そこは僕のお気に入りのスポットだった。いくら立ち読みしていても咎められる事も無い。蔵書も意外に多い。
そこで僕は掲載雑誌も発行年も分からないような漫画たちを立ち読みする。どこを探しても続刊の見つからない漫画たち。TSUTAYAにもブックオフにも置いていない、この中古本屋で生まれてここで息絶えたとした思えないようなマイナーな漫画たち。恐らく日本中で僕しか知らない。やはり打ち切りで終わっただろうか。物語はハッピーエンドだっただろうか。主人公は旅の目的を達成できただろうか。魔王は討伐されて世界に平和は訪れただろうか。僕も知らない所で冒険は続く。道は続き、坂は上り続けなければならない。
僕はファンタジーの世界に憧れていた。僕はファンタジーの世界に憧れていた。
高校生活の多くの時間を、僕はこの古本屋で過ごした。そうしてたまに小遣いでライトノベルの新刊なんかを買っては放課後に無人の理科室で読む。僕はファンタジーの世界に憧れていた。
今日も雨宿りの為に何作かの打ち切り漫画を読んで空想の世界に浸った。
しかし店の外。雨の気配は一向に止むことが無い。
「7」
高校二年生から三年生に進級する間の春休み。ある晴れた日に僕はふと悟る。
僕の人生はきっと高校生で打ち切りになるみたいに、パタリと終わる。二〇〇四年の三月三十一日でプツリと消えて終わる。まるで自らの作品の不人気を悟る作家のように残り一年残り数話の猶予を天啓のように知らされる。
僕には想像できなかったのだ。大人になる自分を。大学生の自分も社会人の自分も。僕には想像ができなかった。そこに焦りや悲観はなく、そう言うなれば。
僕はきっとつまらない漫画だっただろう。僕の物語は打ち切りで終わる。
二〇〇三年二月。高校二年、冬から春へ。
ポルノグラフィティの四枚目のアルバム『WORDILLIA』を購入した。それから、えーと。
「8」
パーーッと甲高い音を立ててトラックが迫った。きっと物凄い音だっただろう。だけど僕は僕の耳には何故か雨がアスファルトを叩く音の方が強く残って。それから。
不意に誰かに後ろから強く引っ張られて自転車ごと背中から仰向けに倒れた。視界一面を雨雲が覆う。一瞬遅れてガチャガチャと自転車が地面を転がる音。地面に打った背や腕の方が痛いはずなのに、何故か頬に瞼に唇に降れる雨粒の方がその繊細な刺激の方が妙に気になった。五感の全てがあべこべながらしっかりと働いて、一呼吸、二呼吸、三呼吸置いてから急に心臓がバクバクと大きく脈打つのを感じる。生きている。クラクションを鳴らしたトラックはそのまま走り去って行ったようだ。
二四六号線は平日の夕方もそれなりに交通量の多い幹線道路だった。道端で暫く車が左右に行き来するのを眺めていた僕は、右から「丁度良い」と思えるサイズのトラックが通るのを見計らってその正面へ飛び込もうとした。
飛び込もうとしたが車道に一歩足を踏み入れたその瞬間、トラックが身体と接触する間一髪の所で僕は誰かに身体を引っ張られてその目論見は止められたのだった。止められた? この場合は助けられたが正しいのだろうか。
いや、やはり僕は止められたのだ。
引っ張った勢いのままに一緒に地面に倒れていたホンマさんが、身体を上半身だけ起こして僕の方を見ていた。睨んでいるわけでは無いと思うが強い強い眼差しだった。それは。自分の目の前で人が死ぬところだったかもしれないという恐怖がじわじわと彼女の内側から染み出て来ている様子だったのかもしれない。ともすれば目に力を入れなければ内から何かが溢れてしまいそうな。
雨に濡れた双眸よりも濡れた白いブラウスに張り付く肌の様子や大きく上下に揺れる肩と胸元、そうしてここまで聞こえてきそうな呼吸音がそれを-彼女の感情を鮮明に伝えた。
それから彼女はゆっくりと語り出した。
「9」
二〇二一年。三十五歳の頃の彼女は兎に角自分の人生に疲弊し、あるいは辟易していたらしい。
二十代の頃に付き合っていた恋人とは巡り合わせ悪く結婚まで至らなかった。仕事は激務だが薄給で遣り甲斐も感じられず気が付けば学生時代の友人たちとも疎遠になり、趣味といえば外に出ず家の中で消費出来て一人で消費出来てその上で体力を消費しないもの。つまりゲームやアニメ、漫画や小説の類だった。
「あの頃の私の楽しみは夜毎ベットの中、携帯電話で貪り読む漫画及びネット小説くらいなものだった。二〇二一年にはね、異世界転生モノが流行っているんだよ」
そんな消耗しきった社会人をやっていたある日の事。彼女は不慮の事故に見舞われて命を落とした。
それは水難事故だったかもしれないし、あるいは頭上に落ちてくる建築資材の下敷きになったのかもしれない。あるいは通り魔。あるいは王道で、トラックによる交通事故だったのかもしれない。
「何せもう二年以上も前の話なのではっきりと思い出せない。だけどはっきりしているのは確かに私はその日、二〇二一年のある日に命を落とした」
しかし気が付くと彼女は二十年前、二〇〇一年の春にタイムリープしていた。つまり高校一年生、十五歳の春に時が戻っていたのだった。二十年分の記憶だけ残して。まるでそれはその二十年間が悪い夢だったかのような自然な目覚めだったらしい。
当然、俄かには信じがたい話だ。だけど確かにそうじゃないと、彼女の言う事が本当じゃないと説明のつかない部分もある。
「転生はしていない。記憶はあるけど他にボーナスのようなものはない。剣と魔法のファンタジー世界でなければ中世ヨーロッパ風味の貴族社会でもない。魔王もいない。平和な、私が知っている私がかつて一度過ごした二〇〇一年の日本だった」
それから彼女は。
ホンマさんは二度目の高校生活を過ごした。
そこは彼女が羨望していた異世界ではなかったが、まるで以前に通り過ぎたとは思えない程の居心地の良い世界だった。
「まずは何と言っても会社に行かなくても良いのがいい」
それから。授業内容は殆ど憶えていなかったが聞けば思い出せる部分も多く勉強面で苦労はしなかった。人間関係も。繊細な時期の同級生たちには年上の心の余裕をもって接する事が出来たので揉め事は少なく、また自然災害のように降りかかる理不尽な排除もいつどこで起きるか予知出来ていれば被害に遭う事も少なかった。異性交友関係についても。特に少し年上の異性を相手には本人曰く「無類の強さを誇った」そうだ。
「まるでチートだ。望むものは何も手に入らなかったけれど、異世界に転生したような気分だったよ」
周りより二十年分多い人生経験。未来を知っている強み。その強みの事を彼女はチートと呼んだ。
「10」
そんな風にして二度目の高校生活を謳歌していた彼女だったが、三年目の夏になってふと思い出す。タイムリープ前、一度目の高校生活で一緒に卒業式を迎えられなかったクラスメイトの事。トラックに撥ねられて亡くなった一人の男子生徒の事を彼女は思い出した。
それはどうやらつまり僕の事だった。彼女の知る世界線の僕は今日この日、この雨の中でトラックに撥ねられて死亡する。まるで打ち切り漫画のようにその人生に幕を閉じた。
「思い出せたのは三年生の夏休み前だった事、それからその日が雨の日だったって事」
事故の詳細な日にちが思い出せない彼女は何日かに渡って、学校にいる間はそれとなく僕の様子を伺っていたらしい。放課後も出来る限り僕から目を離さないようにしていたそうだ。彼女がここ数日、放課後の理科室に通っていた理由が分かった。
僕が誰にも話さなかった事。態度にも出さなかった事を彼女は看破し、僕がトラックに飛び込むのを寸での所で止めた。確かにそれは、起きる未来を、起きた過去を知っていないと出来ない芸当のように思えた。タイムリープなんて荒唐無稽な話を僕が半信半疑ながら彼女の話に耳を傾けてしまうのはその為だった。
二〇二一年から来た同級生。
「別にさ。生きてた方がいいとか言わないよ。未来は別に明るくないし景気は決して良くもならない」
人類はまだ金星に住んでいないし、車も空を飛んではいないらしい。
「ホンマさんは、なぜ俺を助けようと?」
「知っていたのにそれをしないのは嫌だったから、かな。それにきっと。やっぱり人はトラックに轢かれても生まれ変わったり別の世界になんて行けないと思うから。よしんばタイムリープ出来たとしても、今の君には未だ遡る二十年の蓄積も無いし」
そう言って雨に濡れて額に貼りついた前髪を指先で払いながら話す彼女は、確かに僕らよりやっぱり少し大人のように思えた。野生のような十代の瑞々しさと洗練された大人の匂いが同居する彼女の仕草。
「君はどこに行きたいんだい?」
「……僕は」
気付けば雨脚は随分弱まっていて、それからゆっくりと呼吸を整えるみたいに止んで辺りに鈍色の世界だけ残した。
「やっぱりさ、生きなよ……あー、うん。助けた理由は。君を助けた理由はそんな感じなんだけど。だけど、でも。君が。君が死なない方が良い理由は上手く思いつかないんだけど。うん、でも」
僕の方から目を逸らし一生懸命言葉を選びながら何かを伝えてくれようとするホンマさん。僕もなんだか彼女の方を見ていられなくなり視線外した。
外した視線の先、道の向こう。沿線には大小の店がまばらに並び建ち奥の方に見える大型の家電量販店を境目に道は登り坂に変わっていく。
坂の向こう側。遠くの空は雨雲の隙間が晴れていて都合良く少しだけ陽だ差しているように見えた。
「二〇二一年にも、きっと君の胸を打つような素敵な音楽はあるよ。うん、たぶんきっと」
明日の天気も分からないのにそんな未来の事を言われてもな。だけど僕はそんな都合の良い言葉も少しだけ信じてみたくなって、未来からの言葉を少しだけ信じてみたくなって。それから。
それから少しだけ、明日の自分を想像する事が出来た。
「11」
「……もし君が。ホンマさんが本当に未来からやってきたというのなら証拠を、何か証拠になるようなものを見せてよ」
もう半分以上彼女の事を信じながら、それでも苦し紛れみたいに僕は彼女に尋ねた。
「二〇二一年のアメリカの大統領の名前は?」
彼女はニヤリと悪戯っぽく笑いながら答えた。まるで荒野のライオンみたいなその顔は何故だかとても年相応に見えた。
「大統領の名前なんてさ、そんなものはね。覚えてなくてもいいのさ」
夏のせいか。胸が少し踊るように高鳴って雨に濡れて冷えたはずの僕の身体は少しだけほんの少しだけ熱くなるのを感じていた。僕はその小さな高鳴りを明日への未来への二〇二一年への期待だと思う事にした。
<了>