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2 コーデリア・アップルトン ~伯爵夫人の恋

 既婚者の恋愛は自由という風潮が、この国の貴族たちにはある。

 子は親に結婚を決められ、そこに当人たちの私情が入り込む余地はない。

 よって、夫婦は結婚してから愛を育むことになるのだが、その中には、恋と結婚は別と割り切って、お互いに情人を持つ場合もあった。

 貴族の結婚とは、家と家との結びつきであり、家を存続させるための後継を儲けることは使命のようなもの。逆にその義務さえ果たせばよいというわけだ。

 幸いなことに貴族の子には、血統を証明するための親子鑑定が義務付けられているため、継承に不正が生じることもない。

 特に十五年ほど前に『夫以外の子どもを身ごもらない魔法』『妻以外の女性を妊娠させない魔法』の術式が宮廷魔術師たちによって構築されてからは、既婚者の恋愛を黙認する傾向が顕著になっていった。

 元々は、好色だった前王の庶子が溢れかえり、苦肉の策として編み出された術式だったのだが、便利なので上流階級の間で浸透したのだ。


 子爵家のコーデリアも何の疑問もなく親の決めた相手(アップルトン家)へ嫁いだ。

 残念ながら、夫とは愛どころか情を育んだとも言い難い。だからと言って、恋に奔放にはなれなかった。

 両親の仲が良く、政略結婚でも円満な家庭が築けることを知っていたので、なるべく夫に寄り添いたかったのだ。

 そのうち子を授かれば、燃えるような情熱はなくとも、穏やかな家族愛で満たされるかもしれない。そう思っていた。 


 しかし、この状況になって不平が込み上げた。

 このまま離縁され『産まず女(うまずめ)』の不名誉を被れば、碌な再婚先はないはずだ。年の離れた男の後妻か、訳ありの家か。

 さりとて子爵家を離れて自活すれば、今のような裕福な暮らしとは無縁になる。

 つまり、先細りの人生なのだった。

 それなのに、結婚生活の思い出が、あの姑の暴言だけだなんてあんまりだ。最後に何か一つ、楽しかったと言えるものがあってもいいのではないか?


 コーデリアは、その「何か」を求めることにしたのだった。



 ◇◇◇



「待ってたよ、ココ」


「ダン! 会いたかったわ」


 部屋に入るなり抱擁を交わす。ダニエルのシャツから葉巻の匂いがした。

 この瞬間、もう死んでもいいと思う。

 コーデリアは、苦さの中にほんのり甘さが入り混じる体臭を胸一杯に吸い込んでから仮面を外した。

 

 ここは、とある邸宅で開催されている仮面舞踏会だ。

 こういった場所には、出会った男女が()()()()ための控室が用意されているので、密会にはうってつけなのである。素性がバレることも、夫と鉢合わせする心配もない。


「何か飲むかい?」


「白ワインを」


「オーケー」


 ダニエルは、予めコーデリアの答えを知っていたかのように素早くワイングラスを差し出した。 


「ありがとう。まるで手品みたい」


 コーデリアがグラスを受け取り、クスクスと笑う。

 ダニエルは「ココは、いつも白ワインだからね。『ブラン・パルド』の甘口がお気に入りだろう?」と微笑んだ。

 喉を潤しながら、二人は暫し会話を楽しむ。


「昼間、あの家を見せて貰ったわ」


「どうだった? 平民街の住宅地の中では一番治安がいいし、おすすめだよ」


「最高だったわ。特に庭が。金木犀が花を咲かせたら、きっと素晴らしいでしょうね。でも独り暮らしにはちょっと広いと思うの。食べて寝るだけなんだから、もっと小さなアパートメントの方がいいんじゃないかしら。その……お金もかかるし」


「家賃を考えたら、思い切って買ってしまった方が楽なんじゃないかな。住まないなら誰かに貸せばいいんだし。あそこは買い得だよ。今なら僕の伝手で――――」


 コーデリアの耳元にダニエルの顔が近づく。


「嘘……そんなに安く?!」


「そう、特別にね」


 ダニエルがコーデリアの手を引き寄せ、手首の内側にキスをした。指先でも、手の甲でもない、まだ誰にも触れられたことのなかった部分。


「少し考えさせて」


 柔らかな唇の感触にコーデリアは(とろ)けた。


 

 ダニエル・オールストンとは、以前から何度も舞踏会で顔を合わせていた。だが、話したことはない。

 単なる偶然なのか、無意識に見つめているのかわからないが、よく目が合う。ただ、それだけだ。

 彼は、オールストン女伯爵の夫だ。

 社交界では遊び人と評判だが、コーデリアはそうは思わなかった。

 これほど目が合うというのに、ダニエルが誰かを口説いる場面はおろか、妻以外の女性と一緒にいる姿を見たことがない。琥珀色の瞳は優しげで、物腰に落ち着きがある。

 伯爵家の婿が何年も領地に帰っていないというだけで、噂の的になっているのだろう。

 本当のダニエルは、親切な人なのだ。


 離婚が決まり、コーデリアがのん気に社交場に顔を出せたのは、最初の数週間だけだった。

 夫婦で出席している舞踏会でも、アレックスが妻のエスコートをおろそかにして、お見合い相手の令嬢を優先するようになったからである。

 その様子を見ていた婦人たちの間で「アップルトン伯爵夫妻は離婚するのではないか」と囁かれ始め、茶会にも行けなくなった。

 ある日の舞踏会で、アレックスは、入場するなりその令嬢の姿を見つけ、そちらへ行ってしまった。夫にほったらかしにされたコーデリアは、呆然となった。

 招待された以上、一曲だけでも躍るのがマナーである。

 壁の花となり窮していた時、救いの手を差し伸べてくれたのがダニエルだった。


「お久しぶりです、アップルトン夫人。お会いするのは、もう何年ぶりでしょう。お父上はお元気ですか? もしよろしければ踊りませんか」

 

 あたかも旧知であるように装ったのは、恋の噂を立てられないようにとの配慮だろう。

 コーデリアには、ダニエルがとても好ましい人物に映った。

 迷わず彼の手を取った。


「初めまして、オールストン様。コーデリア・アップルトンと申します。助けていただき、ありがとうございます」


 コーデリアの挨拶に、ダニエルは、さも愉快そうな笑みを浮かべた。


「踊りながら自己紹介する人は初めてだ。夫人は真面目ですね。だけど、私()()()が声をかけてよかったのかな」


「いいえ、あなたがいいのです。わたくしは、オールストン様が噂通りの方ではないと知っていますから。え……と、優しい方だと思います」


 意外にも大胆な言葉が口から零れて気恥ずかしくなった。

 赤らむコーデリアの顔を見て、ダニエルが「それはどうかな」と呟く。


「案外、噂通りかもしれませんよ。この後、夫人をテラスへお誘いするつもりなのですから」


 こうしてダニエルとの関係が始まった。

 逢瀬を重ねるうちに、離婚後の色々なアドバイスを受けるようになった。

 目下のところ、一人で住む家を探している最中だ。



 コーデリアは、空になったワイングラスを置き、ダニエルのシャツのボタンを外し始めた。


「そろそろ、あなたに触れたい」


「ココ、それは僕のセリフだろう?」


 ダニエルは困った顔をする。


「いいの。わたくしが言いたいの」

  

 このシーズンの間だけ。今だけなのだ。

 もうすぐこの関係は終わる。けれど、忘れない。

 コーデリアにとって、この恋は、生きるよすがだった。


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