ある奴隷の憂鬱
1860年、ルイジアナ州ニューオリンズの夏は酷くうだるような猛暑だった。そこから30マイル離れた農場でも同じく、湿気を含んだ熱風が襲い掛かり、大気が蜃気楼で歪んで見えるほどの熱気が立ち込めている。エアコンも冷蔵庫もないこの時代、日陰で休むことで暑さを凌ごうとする人々が建物の影に密集していた。ただし一部の人間たちを除いて。
「これ差別だろ……」
ポツリと呟いたのは、開花期を迎えた綿花を手作業で収穫する黒人の青年―――額に大量の汗を浮かべ、いつ熱中症で倒れても可笑しくはないほど過酷な環境で、休む間もなく労働を続けていた黒人はゴードン・ホワイトだった。
三か月前、バーの白人たちから集団分からせ事件を受けて死にかけていたゴードンが運び込まれたのは、最新鋭の機器を揃えた集中医療室―――ではなく、ハウスダストにまみれた小汚い馬小屋であった。数日間の昏倒状態の後、訳も分からず満身創痍の身体で目覚めた彼は、この農場を管理している白人の老婆からこう言われた。
『目覚めたんなら早く働きなさい、このごく潰し』
あとからゴードンが訊いた話では、この老婆が殺されかけていたゴードンを買い取ったらしい。因みに価格は2.5ドルだった。現代の価値に換算すれば約67米国ドルほどで、IKEAのベビーベッドよりも安い値段で買いたたかれてしまったのであった。
その結果ゴードンはこの≪ウィークス農場≫で、綿花収穫要員としてタダ働きをさせられていた。7月から10月にかけて収穫される綿花はヨーロッパへと輸出され、その代わりに紅茶やラム酒がアメリカに輸入される。現代でこそウールやポリエステルが主流ではあるが、この時代では羊毛を除けば大半の繊維製品が綿花である。そのため需要は青天井だった。
そして綿花を栽培するにあたって、給料を払う必要のない黒人奴隷を働かせることが、このアメリカ南部地域ではスタンダートであった。現にウィークス農場で働く黒人はゴードンだけではなく、23人の黒人奴隷たちが労働に従事している。その内の一人、ブスカぺという青年にゴードンは尋ねた。
「なあブスカぺ……。俺たちはなんでこんなことをしなきゃいけないんだ……?」
「俺もよく分からない……。でも白人のいう事は聞かなきゃ、酷い仕打ちを受けるよ……」
強烈な紫外線に目を細めるゴードンの視線の先は、納屋の隣にあるウィークス邸だった。そこでは日陰で涼むウィークス一族が黒人労働者たちを退屈そうに監視している。ゴードンを買い取った老婆、デズリー・ウィークス。そしてその息子であるジョニー・ウィークス。その妻と子供も二人いるが、何れも黒人たちの作業を手伝おうともしなかった。過酷な労働は黒人たちにさせ、自分たちはその利益をかすめ取る暴挙。
三か月まえのゴードンだったなら怒りに打ち震え、差別に公然と立ち向かっていたはずだが、今の彼は家畜の如く飼いならされていた。この農場では逆らうものは容赦なく射殺されるのだ。主にジョニーの役割だったが、彼はサボっている黒人を見つけると鞭で叩いたり、ロープで首を絞めたりして教育を施す。
もしその過程で誰かが死んでも、警察はやってこない。畑の隅に埋められるだけで処理はおしまいだ。こんな不条理が曲がり通る世界に、さしものゴードンも異変に気付いていた。ここはアメリカじゃない。並行世界のアメリカ合衆国なんだと考えるようになった。1860年であるという事にも気づいていたが、同時にこの異常な世界を変えることは出来るのではないかと可能性を探ってもいた。
アメリカ史上世紀の大騒乱、南北戦争が始まるまであと一年。その前に北部に逃げ出すことができれば、この泥沼の人生から抜け出せる。例え体が黒人になったとしても、多少は人間らしい人生を歩める筈だ。そのためならばどんな手段を使ってもルイジアナ州から逃げ出す必要がある。ゴードンは既に脱走するための計画を練り始めていた。
「なあブスカぺ。もしよかったら―――」
「あっ! 昼の時間だよゴードン。ご飯を食べに行こう」
そう言って立ち去っていくブスカぺのあとを追い、ゴードンは納屋に戻っていく。ウィークス家から支給される賄いは、いつも同じメニューで栄養バランスなどは特に考えられえていない。フライドチキンとフレンチフライ。そしてデザートだと言わんばかりの身の少ない西瓜。黒人にはスイカを与えれば喜ぶとこの時代の白人は考えているらしく、この粗悪品がいつも食卓に上がってくる。
このスイカを白人たちが食べることは決してなかった。裏では黒んぼ定食と呼ばれているこの失敗作は、本来は馬や牛に与えるために造られた家畜専用の餌だった。ゴードンはそのスイカを齧ると小さな声で呟いた。
「これ差別だろ……」