息が出来ない
身体を硬直させたゴードン・ホワイトは、一瞬だけ自分の耳を疑った。黒人に対するニガ―呼ばわり。所謂Nワードを公共の場で白人が使うことは、現代ではありえない事だった。そんな事をすれば、たちまちSNSで拡散され、職場から解雇されてしまう。大抵の場合はそれだけでは終わらず、怒り狂った抗議団体によって個人を特定され、執拗な嫌がらせや暴力行為に発展する。
今目の前にいる酒臭い白人は、そんな行為を悪びれもせず平然としてしまったのだ。ゴードンは頭を混乱させたが、自体を収束させようと男に言い返す。
「お、おい。お前、そんな事言ったらダメだろ! 黒人だって生きてるんだぞ。大体おれは、黒人なんかじゃない!」
そう言うと、白人の男たちは信じられないものを見たようにお互いに顔を見合わせ、大きな笑い声を上げる。それから彼等の一人が言った。
「お前こそ何言ってんだよ黒んぼ野郎。頭でも打っちまったのか? 誰がどう見たってお前は奴隷人種の黒人だろうがっ!」
「ニガッ…!?」
躊躇なく飛び交うNワード。人種差別主義の白人たちに対して、ゴードンは驚きを隠せなかった。もしもニューヨークで同じことを言えば、あっという間に黒人たちにボコボコにされ、持っている財布とiPhoneを奪われたのち、再び集団リンチされる。
幾ら南部の貧しい田舎町とは言え、ここまで意識に違いがあるとは誰も思わないだろう。なぜ同じ国の中で、これほどの格差があるのか。少なくともゴードン・ホワイトには理解出来なかった。
「お前らいい加減にしろよ! 俺はニューヨーク育ちのゴードン・ホワイトだ! 奴隷でもなけりゃ、黒人でもない。お前らみたいな貧乏人とは違うんだよ!」
怒りに震えるゴードンに対して、白人の男たちは増々笑い声を大きくする。中には堪えきれず腹を抱え、テーブルを何度もたたく者さえいた。それからまた同じ男が言った。
「てめえ、何がホワイトだって? ゴードン・ホワイトだって? お前はどう見てもブラックだろうが! ニガ―野郎が、白人の真似をするんじゃねえ!」
男はそう言うと、ゴードンに向かって殴りかかってきた。咄嗟にそれを避け、頭を大きくのけ反らせる。黒人の身体になったお陰か、身体能力は依然と比べモノにならないほどだ。再び殴りかかってきた白人の男の拳をはっきりと視認したゴードンは、それを片手で掴み取った。
「遅すぎる」
そう言い拳を離してやると、驚いた表情の男はよろよろと後退していく。それを見ていた後ろの白人たちは、プライドを傷つけられたのか、怒鳴り散らすようにゴードンを罵った。それからすぐ彼等はビール瓶を割って凶器を作り、椅子を持って威嚇を始めた。血の気の多い凶暴な白人たちに対して、ゴードンは冷や汗を掻いた。
―――殺されるかもしれない。
脳裏には銃で撃たれた記憶がこびり付いていた。一度経験したことでも、恐怖は消えていなかったのだ。しかし退路である店の出口は白人たちの背にあった。簡単には逃げられない。そんな事を考えていると、男たちは一斉に飛び掛かってきた。
割れたガラス瓶を避け、投げつけられた椅子をガードで防ぐ。そして殴りかかってきた男を蹴り上げ、地面に転ばしていく。白人だった頃には喧嘩などしたこともなかったが、黒人のゴードンは異様に強かった。身体のバネが面白いほど器用に動き、素早く命令を伝達できる。
さながら鍛え上げられたボクサーのように男たちと戦えた。暫らくすると、酔いの所為もあってか、男たちは息を乱しながらゴードンを囲っていた。見下していた黒人相手に、複数人で襲い掛かっても負けかけている。その事実に白人たちは冷静さを失い、怒りに支配された。
「この黒人野郎がァァァ!!」
懐からペンナイフを出し、勢いよく突っ込んできた白人に、ゴードンは拳を叩き込んだ。真正面から正確に殴り込んだ鉄拳は、一撃で男をノックアウトし、彼は地面へ叩きつけられる。その姿を見たゴードンは、自分の万能感に酔いしれ、勝利の雄叫びをあげた。
「どうだ! まだやるか田舎者ども!」
白人たちはゴードンの威嚇に気押され、距離を取り始める。それを見て増々調子に乗り始めるゴードンだったが、その立場は長く続かなかった。今まで静観してバーの店主が、カウンターから猟銃を取り出し、それをゴードンに向けていたのだ。途端に恐怖に支配された彼は、しどろもどろに弁解を始める。
「お、おい。さっきの出来事見てただろ……? 俺は絡まれたから仕方なく抵抗しただけだ。そういう暴力的な事はやめようぜ……な? お互い冷静になろう……」
店主に向かってひたすら喋り掛けるゴードン。しかしその背後から、白人たちが近づいてきた。彼等は卑怯にも後ろから割れていないビール瓶でゴードンの頭を殴りつけた。突然の鋭い衝撃に、彼は抵抗する間もなく地面に倒れ込む。
白人たちはそれを好機と見るや、寄ってたかってゴードンを蹴り始めた。意識が遠のき掛ける中、頭を蹴られ、腹を殴られ、杖で叩かれる。白人たちによる黒人狩りの光景は、19世紀のアメリカでは珍しくもなかったが、ゴードンは深い絶望と苦しみに悶えた。
―――これは人間のすることではない。悪魔だ、デーモンだ。
一通りリンチが終り、血まみれの顔を上げたゴードンは、更なる絶望に突き落とされる。一度殴って気絶させた男がニヤ付いた笑みを浮かべながら、ゴードンの首に膝を置いた。彼はそこに自身の全体重を掛けて、死に掛けた黒人にとどめを刺そうとしていたのだ。
呼吸をするための気道を塞がれ、酸素を取り込めずに必死に抵抗するゴードン。しかし掠れたような声しか出せなかった。
「い、息が……出来ない……」
悪魔たちが頭上で笑う中、ゴードンはBLM運動の発端となり、白人の警官によって殺されたジョージ・クロイドと同じ言葉を口にしていた。
『I can't breathe.』