9.鬼の追跡
鬼市郎は歯ぎしりして見送った。
杜の市とやらの座頭のみごとな泳ぎっぷりよ。
直島諸島でもひときわ大きな無人島に逃げ込み、かなり先行を許してしまっていた。
――あの島の由来は知っている。よりによって、いわくつきの島に逃げ込んだな。暗くなってからあそこにあがったぐらいなら、なにが起きるか気が知れねえ……。
櫂を漕いで近づいた。
なんとか島に和船を乗り付けると、艫を押して砂浜に上陸させた。
鬼市郎の身体はそれほど大きいわけでもないのに、怪力の持ち主であった。筒袖の衣の下には、名は体を表すとおり、鬼じみたふてぶてしい筋骨が隠れているにちがいない。
すでに杜の市は行方をくらませていた。
砂浜についた足跡を追うも、あいにく痕跡は笹藪のところで途切れている。
狙う獲物は、藪のなかを強行していったのは明白。これを追跡するのはさすがに至難の業だろう。
そもそもあの座頭の生き残りは、追手が来るのを想定して逃げているかどうか。
単にぞわいから命からがら生還しただけではあるまいか――いや、どうせ鞆の港からはじまり、まる二日をかけた船旅の道中、人相こそ憶えられなかったとはいえ、ずっと会話を重ねてきたのだ。
半狂乱のまま生き残りたかったのであれ、鬼市郎の追跡をふり切るべく逃げているのであれ、内地へ生きて帰り侍所にかけ込められれば早晩、鬼市郎の特徴を洩らされる。
したがって、いくら相手が人畜無害の盲人であろうとも、見つけ出し、始末しなくてはならない。
鬼市郎は懐に匕首を忍ばせていた。これでブスリとやり、グリグリと傷口をこねくりまわしてやれば、たっぷり仲間たちとあの世で善光寺に参ることができるというもの。
あえて灯りの類は手にしない。
さすがに相手が盲人といえど、炎の明るさで位置が暴露されたり、肌の敏感な奴なら熱で感知される恐れがあるからだ。
もっとも、灯りをともさないのは鬼市郎にとっても悪条件の捜索になるのはわかりきっていた。
前の生業のせいで右眼がつぶれ、少なくとも両眼とも不自由のない晴眼者よりかは不利だった。
とはいえ伊達に夜中、瀬戸内の海に至るところで牙を剥く各所のぞわい地帯を、船を走らせることもめずらしくないのだ。夜目にはめっぽう自信があった。
しかもこの船頭、歩くと、同じく右側の脚を引きずる癖があった。癖どころか、膝のところで神経が断ち切れているかのように、てんで力が入っていない。
それだけに、盲人を相手にする分にはちょうどいい、相手にくれてやる不利な条件だった。
脚を引きずるのも慣れのせいか、鬼市郎は毒づくことなく、生きた案山子もかくやとばかりに、ぎこちない足どりで笹藪を割っていく。そんな身体と折り合いをつけているふうであった。
前人未踏のごとき笹の密集地帯だったが、いち早く杜の市が藪漕ぎしたあとを見つけたので、労せず進んでいく。
月明かりのもと、小川に行き当たった。
周辺はぬかるんでおり、先行者の足跡がそこかしこについている。
上流に向かって続いていたので、迷うことなく追っていった。
しばらく島の内陸部まで進むと、段差になっていることに気づき、用心深く縁から滝壺をのぞいた。
わざと痕跡を消したか、それとも盲人の哀れな失敗か、滝めがけて滑り落ちたと、鬼市郎は踏んだ。
――この正月の宴の昂奮醒めやらぬ凍てつく夜にか? いくらさっきまで瀬戸内の海で、命がけの海水浴をし、全身が潮だらけになったもんだから、ここで水浴びしたとは考えにくい。
となると、奴は杖も突かず歩いて足を踏みはずし、二度も冷たい水を飲まされる羽目になったにちがいない。
いずれにせよ、杜の市との距離は、さほど開いてはいまい。この尾行はあっけなく終わるだろうと高を括った。鬼市郎はにんまりと唇を吊り上げた。
滝を避けて段差を降りきった鬼市郎は、足を濡らさずにすんだ。
背を屈め、爪先立ちになり、それこそイタチのように獲物を追っていった。
途中、懐から匕首を取り出した。鞘から抜き、白刃を突き立てる練習を重ねる。
先刻の杜の市のたどった道しるべを、そっくりそのまま再現した。恐るべき捜索能力であった。
ようやく竹藪を抜けた。
今度はクロマツが林立する松林にさしかかった。しかも高台へと続いているらしく、ゆるやかな勾配をのぼることになった。
鬼市郎はめっぽう顔が広く、猟師たちとも交流があったので、聞いたことがあった。――手負いとなった野生の獣は、本能的に山の上へ上へと逃げる習性があると。だから集団で狩りをする連中は、一度傷つけた獣を数人の勢子が山の裾から追い立て、尾根で待ちかまえた奴が槍で仕留めるというわけだ。
とすれば、杜の市とて例外ではあるまい。
肉体的に手負いになっているかどうかはなんとも言い難いが、少なくとも四人の座頭仲間を失い、心に痛手を負っている。
このまま斜面を突き進むのだ。
ただし、相手は視覚を失っているだけに、嗅覚や聴覚は突出している。足音を立てず、息を殺し、追跡するべし。
鬼市郎は片脚を引きずりながら、高みを目指した。
ついには丘の頂上を越え、下り坂を転がるようにして進んでいく。
松林を抜け、崖っぷち沿いも難なくやりすごした。
断崖絶壁の縁から沖合上空に見えた満月の青白さ。
冴え冴えとした夜気が島に立ち込めていた。
試しに崖下をのぞいてみたが、先ほどの滝壺のように杜の市はヘマをしたわけではなく、波の砕ける磯にそれらしき遺体はない。
――お遊びははじまったばかりなんだ。坊様よ、これしきのことで勝手にくたばってくれちゃおもしろくねえぜ!