8.親父どのの狼藉
【旅芸人】とは――
身分制度の厳しかった江戸時代において、芸人は軽蔑される存在ではあった。
もっとも旅の制約のあった一般庶民と異なり、旅芸人だけは手形を持っていなくても、芸を披露し、芸人であることを示せば、関所を通過することができた。
定住を基本とする共同体においては、旅芸人のような漂泊する者は異端であり、そうしたまれびとの来訪は、神であり乞食の訪れと同義であり、畏敬と侮蔑がない交ぜとなった感情を生じさせた。
初春や節分などの年中行事の際には、遊芸人の訪れは欠くことのできぬ民俗行事だった。
元旦などハレのときには、神や仏の仮の姿をした『祝言人』として門ごとに祝福を述べてまわる。しかしひとたび日常的なケの時間に戻れば、『乞食人』として賤視された。
旅芸人も、温泉宿では遊びに来た客を慰めるエンターテイナーとして迎えられるが、それはほんの一時であって、享楽の時間が終わると身元もよくわからぬ流れ者と見なされる。
村境を越えてやってくる放浪芸人は、その素性も知れず、なにを持ち込んでくるかわからない。村人にとっては油断のならない存在だった。『伊豆の踊子』に描かれているように、旅芸人の一座は一般市民としては遇されていない。
杜の市は、てっきりお沙世は旅芸人の一座の娘ではないかと思っていた。それはそれで、なにを恥ずかしいことがあるものか。
というのも、琵琶法師そのものだって平安時代に盛んになり、仏教と結び付き、盲僧が琵琶を用いるようになったし、平安の中ごろには、散楽の中の歌・踊り・ものまねが『猿楽』、曲芸・奇術が『雑芸』と呼ばれ、鎌倉から室町時代に至るまで続くようになるのである。
猿楽はのちに能狂言に進化。他にも古くから傀儡子とよばれる芸能集団もいたが、複雑に変化していき、消えていった。本来、農耕儀礼だった田楽さえもが、京都において貴族を巻き込み大流行した。
だから当時、諸国を巡り歩いた漂泊の民はめずらしくもなかった。
琵琶法師も含め、対極に位置する定住地のある庶民にとって、時折やってくる旅芸人の遊芸こそが、現在で言うところの唯一のエンターテインメントであった。ある意味、お沙世とは特定の定住地を持たないということで共通すると、勝手に解釈していた。
だからなおさら愛おしく思えた。
それなのに、お沙世との穏やかな日々は突如として断ち切られることになった。
ある日、師匠とともに巡業に出ていた杜の市が、借家に帰宅するなり異変に気づいた。
かすかな鉄臭い血の臭い。
――なぜ血の臭いがするのだ?
「お沙世?……どこだ」
すると、部屋の奥からすすり泣く声。お沙世にちがいあるまい。
杜の市は安堵のため息を洩らした。
いずれにせよただならぬ雰囲気。
襖をゆっくり開け、すり足で近づいた。
「どうした、お沙世。なぜ泣いておる?」
毛羽立った畳の間に足を踏み入れ、娘の気配を察知した。
すぐ手の届く足もとに、まちがいなくお沙世はいる。うずくまっているような低い位置だ。
目明きの者が仮に眼をつぶり、牛車や馬借(荷物を運搬するため、馬を利用した輸送業者)の行き交う往来を歩いてみよと言われても、なかなか一歩を踏み出すことは難しいものだ。大抵は不安と恐れで、身を竦めてしまう。
ところが、盲人にはどうということはなかったりする。
人体の神秘であろう。人間、眼が見えなくなると、どこかの器官が眼の代わりをするものなのだ。例えばおでこの自律神経が異様に鋭敏になり、眼の前に障害物があれば、おでこに圧迫感を感じる……。だから年季の入った盲人は杖で前方を突きながらではあるが、わりとスタスタ歩いたりできるものなのだ。
だから部屋の奥にお沙世特有の、まろやかな気配を感じることができた。
杜の市は両手を差しのべた。手のひらで娘に触れた。
なんと、お沙世は小袖も乱れ、むごたらしく顔が腫れあがっているではないか。手触りはまるで出来の悪い里芋のようにゴツゴツしていた。
頬が濡れていた。
幸いにして血ではない。縷々と伝うのは涙だ。
とても板敷きの居室から土間へ転んだとは思えぬ人相に変わり果てていたので、とっさに声をかけた。
「誰がやったかわかる。……おまえの親父どのだな?」
「うん。わかる、杜の市? さすがだね」
と、涙声のお沙世。安心したのか、ぽろぽろと涙は数を増す。
「漂泊の民が、また別の土地へ行こうということになった。それで私とは手を切れと?」
杜の市は娘の涙を人差し指で拭いながら聞いた。
こくん、とお沙世がうなずくのがわかった。
「最後通告だと。これが警告だと、あなたに伝えておけと言われたの」と、娘は嗚咽を我慢して言い、杜の市の手を取り、頬に当てた。「私はどうなってもかまわない。杜の市とは別れたくない。だけど別れないと、父はあなたにまで手を出しかねない。父は怒ると手がつけられない人なの。いったん怒れば殺しかねない。だから、あなたを失いたくないから、離れ離れになるべきだと思うのです」
「後生だ」と、杜の市はしゃがれた声を絞り出した。「やっと手に入れた幸せだ。こんな形で失いとうない」
「こんなことなら、会うべきじゃなかった! 私がいけないんです。私があなたの心をかき乱してしまったの!」
「おまえはなにも悪くない。行くな、お沙世。おまえなしでは考えられぬ――」
「私だって――」
いつまでも抱き合っていたかった。
なにがあってもおまえ守ると誓ったのに、四日後、忽然と姿を消した。
杜の市が用事で少しの間、留守をしたわずかなすきだった。
恐らく父親が入り込み、無理やり連れていったにちがいあるまい。
――しょせん盲の私には、守れぬ約束であったか……。無念。
座敷に悄然と立ち尽くしていた杜の市。
ふと足を踏み出すと、板敷きの居室の入り口付近になにかが落ちていたらしく、白足袋に触れた。
それを手に取った。
握っただけで、それとわかる。お沙世の櫛だ。びっしりと髪の毛の束が絡まっているのは、どういう意味なのか。ぬるぬるしており、例のごとくかすかに血の臭いがした。頭皮ごと剥がされたらしい。
杜の市は絶叫した。
稲妻の速さで、直感が炸裂した。――金輪際、お沙世とは会えまい。途方もなく、遠い場所へ連れていかれた気がした。
暗闇のなかで、杜の市は腕を伸ばした。
漠としたお沙世の残像が、逃げ水のように遠ざかっていく。
ほぼ視力を失った杜の市には、お沙世の顔がどんな作りをしているかは正確にはわからなかった。
同棲していたころ、靄ごしに見えた、ぼんやりした輪郭。形よい瓜実顔で、指で鼻や唇を撫でてみたかぎり、美人の造作をしていたはずだ。
指折りで数えるほどしか身体を重ねたことがなかったにせよ、その肌触りは忘れもしない。
そのしなやかな腕、お椀型の乳房、先端のサクランボ、細い腰に、琵琶そっくりの尻、蛇のような脚……どれを取っても、杜の市にとっては天女に等しいと思えた。
夢のなかで――夢だからこそ思い描いたお沙世が、両腕を広げ、救世観音菩薩のように気高く佇んでいた。
白い裸体のお沙世はまばゆいばかりの後光を放っていた。
しかしながら、それは急速に遠ざかり、やがてはるか彼方に消えた。
◆◆◆◆◆
「お沙世、行くなッ!」
クロマツの根元で眠っていた杜の市は夢から醒めた。
思わずうめいてしまったので、あわてて口を押さえた。その拍子に大量の松の落ち葉が顔に張り付いた。
我ながらとんでもない寝床に身を沈めていたものだ、と思った。
首だけあげ、周囲に追手の気配がないか探った。
少なくとも近くに仇は潜んでいそうにない。
どれほど眠っていたのだろうか? 恐らく一時間ほどだとは思うが……。戌の刻(19時~21時)の只中にある時間帯か。
と、そのときであった。
松林の入り口あたりで、ひそやかに枯れ枝を踏み砕く音を耳にした。
杜の市の身体が凍り付いた。