20.「仏が――あんだって?」
「ボサマ、そんなところにいるたぁ、ちゃっかりしてるじゃねえか! けどよ、こっから先へは行かせねえ。よくもさっきはやってくれたな、オイ。この借りは返してもらうっからよ!」
桜の花びらが散るように、大粒の雪が降っていた。
月明かりが白い花崗岩でできた平坦な広場を照らしている。
鬼市郎は白刃を剥いた匕首を腰だめにかまえ、ため池を回避したばかりの杜の市と向かい合った。
間近で見たのは船に乗せたときからだったが、こうして追う立場から、標的である若い座頭とはじめて真っ向から相まみえたような気がした。
見れば見るほど、杜の市は背が高いわりには栄養不足なのか、牛蒡そこのけにひょろ長く、頼りなさげであった。白い法衣などみすぼらしく汚れ、血にまみれ、そこらじゅう破けていた。
とはいえその内側には恐るべき筋骨が隠れていることを知っている。とりわけ丈夫な四肢を具えていた。
いかにも瞬発力に長けたような身のこなしといい、ここ一番の持久力にせよ、杖一本で的確な道程を選んでいく優れた能力、なにより土佐闘犬のごとき闘志を秘めているのを認めた。
鬼市郎はむしろ称賛したい思いにかられた。
――この若造は侮れねえ。なるほどこの身体だからこそ、ぞわいからたった一人だけ生還できたわけだ。
――いまなら、お沙世が惚れたのもわかる。こいつは正真正銘のオスにちげぇねえ。どんな逆境でも跳ねのける根性がある……。
こんな男だからこそ――生と死を渡り歩いてきた人間だからこそ、強烈な男の魅力を放っているのであろう。
お沙世があんなことにならなかったら、この男と祝言を挙げさせてもよかったと、いまさらながら後悔するのだった。
――だがよ、それとこれとは話は別だ!
「おれはせっかく座頭どもの命を奪い、財産まで毟り取った。いまさら後戻りはできゃしねえ」と、鬼市郎は杜の市に近づきながら、しゃがれた声で言った。片手を腹に押し当てていた。そこから血が滴っている。先ほどお沙世と刺し違えた傷だった。「どっちにしろ、この金さえありゃこの先、みじめな生き方をしなくてすむ。やり方は、ちとえげつないかもしれんがね。しょせんこの世は、やるかやられるかだ。暢気な奴ほど足をすくわれる。冥土に持ってけ、おれからの助言だ――財布はしっかり肌身離さず持っとくべきだぜ」
「いまならわかる。御仏はいない」と、杜の市は身体を斜にかまえた。「御仏がいるのなら、あんたのような悪党は真っ先に裁きを受けるはずだ。私の口を封じ、奪った金でのうのうと生きていけるというのなら、むしろ御仏を疑う」
座頭は杖の先を鬼市郎に向けて宣言した。
「仏だ?」
「よって、私自らがあんたに裁きを与える。四人の命を奪った罪、必ずや償わせるからな!」
「仏が――あんだって?」と、鬼市郎は片手を耳にそえ、馬鹿にしたように言った。「仏がいらっしゃるなら、飢饉やら台風やら、流行り病、たび重なる戦で、なんの落ち度もない人間がおっ死ぬものか。……オイ、生まれて間もない赤ん坊の顔に、濡れた和紙を貼りつけて間引きする親の気持ちがわかるか? こんな時代に生まれてきちまったのが、そもそも不幸の始まりなのさ」
「それでも人は生きてゆかねばならん」
「思うによ」鬼市郎は距離をつめながらささやいた。「神や仏なんてものは、人間どもがいくら救いを求めて喚こうが、屁とも思っちゃいやしねえんだ。大方、バタバタ死ぬところを、空の上から頬杖ついて、にやにや笑いながら眺めてるだけなのかもしれねえぜ。ありゃきっと、ココがふつうじゃないんだよ」
「たしかに御仏は私たちを虐げた。しかしな」と、杜の市はうしろにさがりながら言った。「代わりにあんたの娘を遣わせてくれた。お沙世こそ私にとっての拠り所!」
鬼市郎は背後に忍び寄る気配に気づいた。
あわててふり向いた。まさかお沙世、てっきりとどめを刺したと思ったのに――。
ため池の方には誰もいない。
かわりに、鬼市郎の足もとだった。
脚の腱を断たれ、くの字に曲がった両脚を投げ出したお沙世が這いつくばっていた。左腕は肩口から下を失ったままだ。血の筋が、北の方角から蛇行しながら続いていた。
ここまで追ってきたとはにわかに信じられなかった。
執念の追跡であった。
手には岩を加工する道具――太い鑿が握られていた。
ふりかぶり、ためらいもなくおろされた。鬼市郎の左足へ。
「あぎゃあああああああああッ!」
鉄の棒は鬼市郎の足の甲を貫いた。
お沙世はなおも鑿を押し込み、ねじり、花崗岩に突き立てた。地面に縫い付けられた。たちまち血液が、もりもりとあふれ出る。
「やってくれたな、お沙世! これも親父に対する罰ってわけか!」
白眼を剥き、船頭はその場に釘付けになった。軸足となる右脚は萎えて不自由なので、たちまちその場にしゃがみ込み、にっちもさっちもいかなくなる。
「父はここで食い止めました。私はまだ再生しきれておりません。さ、早く小屋の中へ!」
ろくに肉体の修復もできていない痛々しい姿のお沙世が叫んだ。
「お沙世!」と、杜の市はうずくまったまま言った。このまま鬼市郎に殴りかかるのも手だった。しかしながら相手はでたらめに匕首をふりまわし、近づくのは危険すぎた。かえってせっかくの好機を逃してしまう恐れがあった。「もうしばらく耐えてくれ。必ずや救い出してやるからな!」




