2.杜の市、得体の知れぬ島に着く
ようやく息の乱れも落ち着いてきた。
杜の市は四人を残してきた岩礁の方を見た。
さほど離れてはいないはずだ。靄のかかった視界にはなにも映らない。ただ気配を察知するのは目明きの者以上だった。
もはや義兄弟の悲鳴もない。潮騒の音しか届かない。
――はかなく海の藻屑と消えたか。なんともお労しや。
そのときであった。
ちゃぷちゃぷと砂浜を洗う音にまぎれて、木のきしむ音を耳にしたような気がした。
手を耳に当て、そばだてた。
白波にまぎれ、櫂のきしむ音が聞こえやしないか?
まさか、あの人殺し船頭が追いかけてきたとしたら――。
五人の座頭のうち、生き残りがいては都合が悪いとしたら。
当然、杜の市は生きて内地に戻れた暁には、侍所(鎌倉・室町時代における軍事・警察を担う組織)のもとにかけ込み、洗いざらい船頭の悪行をぶちまけるつもりであった。
金品を盗まれたうえ、義兄たちの命まで奪ったからには然るべき罰を与えるのが、残された者の弔いでもあるだろう。
しかしながら、仇にとって杜の市は生かしておくものか、と考えるはずではないか。
きっと口封じのために、とどめを刺しに戻ってきたにちがいない。
その方向に灯りは見えない。
あの抜け目ない船頭のことだ。暗闇に乗じて杜の市を追いかけてきたのかもしれない。
うなじの産毛が逆立つ思いにかられた。
盲の青年はあわてて砂を蹴立てて、浜をあがった。
◆◆◆◆◆
正月の宴会の席で近況報告を交わしたのが、はるか昔のようだ。
義兄弟たちを救えなかったことを恥じ、こんな仕打ちにした運命を忌ま忌ましげに思った。
怒りの矛先は、最初こそ善意で船に乗せてくれた、あの船頭に向けるべきである。
きっとあの男は、座頭たちが昼夜を問わず働いて貯めた金を眼にし、悪心を起こしたにちがいない。
いまは一月五日。冬の日の入りはあれよという間である。
このまま死を受け容れるつもりはないと、上げ潮のさなかの瀬戸内の海に飛び込んだときには、すでに申の刻(15時~17時)も終わりにさしかかる日没寸前だったはずだ。肌に当たる弱い西日でそれとわかった。
眼の不自由な座頭にとって、さらに厄介な夜が迫っていた。
島の内陸部に入るにせよ、行く手にどんな障害物があるかもわからなかったが、追手の捜索を恐れ、杜の市は笹藪の密集地帯に頭から突っ込んでいった。
藪をかき分け、少しでも追手から逃げようと、クサビを打ち込むように突き進んだ。
あれほど身体の一部と化していた商売道具――琵琶はおろか白木の杖まで、全財産ごと船に置き去りにしてしまったのは悔やまれた。
完全に手ぶらだった。
それにわらじも失い、白足袋しか履いていないのも致命的であった。素足よりかはましであるにせよ、いずれ破れて使い物にならなくなる。
ともに信濃の善光寺に参ろうと誓い合い、無我夢中で一年働き、みんなして立派な御殿が建つほど貯めたというのに、ごっそり持っていかれたのは切歯扼腕でしかない。
そもそも自分たちも浮かれすぎたのは軽率だった。目明きの者に弱みを見せてしまったにちがいない。この世はしょせん非情である。
後悔しても後の祭りだ。
とはいえ、命あっての物種。いまは逃げおおせることが先決だった。
そう――奴に捕まっては命に関わるのは明白であった。
足もとがおぼつかない。
先の尖った枝でむき出しの腕に傷をつけながら、杜の市は必死の形相で笹藪のなかをかき分けた。
――とにかくあの船頭から逃げなくては。
林のなかは恐ろしく暗い。
月の光さえ届かない。
盲人にとってあまりにも分が悪い逃避行であった。
と、そのときだった。
前方で、杜の市が立てる音とはちがう、ガサガサと藪漕ぎする乾いた物音がした。
――よもや人のいる内地に上陸できたのではないか? だとしたら助けを乞えるぞ!
それは怪しい。青年はすぐその考えを打ち消した。
この瀬戸内の海には七〇〇を優に超える島々があり、うち有人島はかぎられており、圧倒的な無人島ばかりで占めているのだ。
もはや賭けだ。
人が住んでいてくれるならありがたいのだが――。
「誰か――」たらふく海水を飲み込んでしまい、喉は塩辛く、舌が上あごに張り付くほどだったが、声をかけずにはいられない。「誰かそこにいるのですか。私は眼の不自由な盲人です。ただいま難儀しております。どうかお助けを!」
返事はない。
落ち葉の上を、小気味よく跳ねる音が遠ざかっていく。
腐葉土の臭いが鼻をついた。
「人殺しに追われているのです。どうか助けてください!」
反応はなく、物音は遠ざかり、闇に消えた。
野兎かなにかだったようだ。
いくら助けを呼んだところで救いの手は差し伸べられそうもない。やはり無人島にすぎないのか――。
杜の市は肩を落とし、それでも笹藪をかき分けて奥へ進んだ。
どれほどの広さの島か、まったく見当もつかない。
しかしながら村落共同体があるなら、山林が途切れ、開けた場所に築くものだ。
それを信じて進んだ。