19.南の作業小屋へ
「……杜の市、よく聞いて」と、袂の中でテングニシ貝からお沙世の声が洩れてきた。ちょうど水路を遡って、お沙世を救助しに向かおうとした直後のことであった。「私の身体は傷つき、この場から動けません。ですが、私はあなたさまのお力により、甦ったしもべ。これしきの怪我ぐらいで死にはしません。修復するのに、しばらく時間がかかります。それまでどうか、あの人の攻めに耐えてください……」
「案ずるな。いまから助けに参る。せっかくおまえに会えたのだ。やはり離れ離れになるべきではない」
「なりません。時間を稼ぐのです。なんとなく、杜の市の狙いは存じております」
「なんと申した?」
貝殻から聞こえてきたお沙世の言葉に、杜の市は我に返った。いささか熱くなりすぎていたのだ。
死霊化したお沙世を使役させ、杖を取りに行かせた意図を汲んでいたとは……。あまりの愛おしさに、なおさら救助に行かずにはいられなかった。
「存じておりますが、いまは道具が足りないのではないでしょうか。せっかく手に入れた杖もそのままでは役には立たない」と、お沙世は弱々しく言い、咳き込んだ。「……ここでいくつかの鑿を見つけましたが、いずれも大きすぎます。杖とともに水路へ流そうにも、重みに耐えられないでしょう。そこで提案があります」
「提案だと?」
「私は先ほど、石切り場の一番の高台から、広場を隅から隅まで見まわしました。その結果、ずっと南の方角――南の岩壁近くに、作業小屋らしき建物を見つけたのです。いつのころに使われていたものかは存じません。ですが、あそこに入り込めば、もしかしたら、なにか役に立つものがあるかもしれない」
「作業小屋か。たしかに期待できるな。行ってみる値打ち、あるかもしれん」
「お行きなさい、杜の市。私を助けてくれようとしたお気持ちは嬉しい。ですが、いまはこらえてください。父を倒すことで、私を救ってくれることにつながるのです。私の身体は修復するのに時間がいります。ここで待ちますので、どうかお先に行ってください」
杜の市は貝殻を耳に当て、しばらく考えあぐねたが、お沙世の言葉に従うことにした。
たしかに彼女のもとにたどり着いたはいいが、共倒れになる恐れがある。それはお互い、本意ではあるまい。
後ろ髪を引かれる思いで踵を返し、水路を南へと進むことにした。
「必ずあとで会おう、お沙世。それまで我慢してくれ」
「どうかご無事で」
その声を聞くと、貝殻を袂に戻し、水路を歩くのに集中した。
◆◆◆◆◆
「どうかご無事で」
お沙世は貝殻に向かってそう言うと、狭い水路に頭から突っ伏した。
流れる水に全身を漬けると、熱した鉄を焼入れしたみたいに勢いよく蒸気があがった。
出血こそほとんどなかったが、身体じゅう深手の傷を負い、満足に四肢が機能しなくなっていた。生者なら致死になる傷痕であった。
どうにかお沙世は水の中から頭だけ持ちあげると、弱々しい声で、
「……ふたたび愛しの杜の市さまを救うべく、この身を再生させたまえ、阿毘羅吽欠蘇婆訶、阿毘羅吽欠蘇婆訶」
と、つぶやいた。
しかしながら眼は反転し、力尽き、ふたたび溝の中に顔を埋めた。
それきり、お沙世は微動だにしなくなった……。
◆◆◆◆◆
杜の市は水路を南へと進んだが、途中、急激に下り坂にさしかかったところで立ち尽くした。
杖で前方を探るも、傾斜がきつく、水の流れも速い。このまま滑り落ちれば、ただではすむまい。
かなり下の方で、大量の水が堅い堰のようなものにぶつかる音がする。落ちれば命に係わるかもしれない。
迂回すべきだ。
水路の壁をよじ登ることにした。
そのあたりになると左右の壁は、どうにか手が届くほどの高さに達していた。
懸垂して持ちあげようにも満身創痍だったので、かなり苦労した。
杖を失くさないよう法衣の背中に差し込み、両側の壁に身体を突っ張って、やっとのことで上まで引きあげた。
こうして杜の市は、ついに広場に身体を晒すことになったわけである。
杖で地面を小突きまわし、南へ向かった。年季の入った盲人だからこそ、迷うことなく東西南北を的確に選び、テクテク歩いていく。
ここからは切りかけの巨石はほとんどなく、地面の起伏も少ない。かなり歩きやすくなった。
遮蔽物がなくなった分、それはそれで鬼市郎に姿を暴露させることにつながり、危険を伴う。
歩くにつれ案の定、北西の方角から片脚を引きずる気配を耳にした。荒い息遣いまで聞こえた。
あの船頭は、もはや声さえかけず追ってくる。
先ほど、お沙世は鑿で腹を傷つけたと言った。それで少なからず損害を被っていればいいのだが……。威勢のよさも鳴りをひそめていた。
手足に傷を負った盲人、かたや追手も片脚の不自由を抱え、これも傷を受けていた。杜の市にとっては、それほど差異はないと思った。
そうこうするうちに、前方の地面を探りながら歩いていると、杖の先が空を切った。
硬い縁に当たった。杖の先端をまわすと、なにやらぬめりのある水をかき混ぜているのがわかる、鈍い抵抗があった。
人工的に掘られた水たまりらしい。水の流れはない。地面に穿たれた巨大な水がめに、純粋に天水がたまったものなのだろう。
しゃがみ、どこまで杖が沈むか試してみた。
水は淀んでいるらしく泥臭い。かき混ぜると、ますます異臭が鼻をついた。
五尺一寸(約154cm)の杖が届かないほど深さを誇るようだ。少なくとも底の方には有機物などを多く含む泥が沈殿しており、まかりまちがって池にはまれば、泥に足を取られ、そのまま出られないかもしれない。
なんのためのため池なのか用途がわからなかった。いずれにせよ、いくら泳ぎの達者な杜の市でもここに来るまで疲弊していたのだ。
迂回できるなら迂回するに越したことはない。こんなところを突っ切っている最中、船頭に襲われたら汚泥に引きずり込まれ、二人もろとも沈みかねない。
杜の市は杖で探りながら東へと縁沿いに進んだ。
寒気は厳しくなり、そのころになると、チラチラと白いものが舞うようになった。
素肌に当たる感触で、すぐそれとわかる。――雪だ。ついに雪まで降りはじめたのだ。
杜の市は歯を食いしばり、ため池の縁をなぞりながら歩いた。すぐに歯の根が合わなくなり、猛烈な寒さにふるえが走る。襟元を露出せぬよう、左腕で覆い、先を急いだ。
そのうちため池の縁が途切れた。
これで南へ向かえる。
池の大きさは、西側まで測ったわけではないので正確な幅はわからないが、少なくとも十一間(約20m)以上はある。
奥行きの長さも十間(約18m)はあろうか。どうにか杜の市は誤って池に落ちることなく、そこを迂回することができた。
なおも南を目指した。そこを抜けると、ほとんど身を隠すものはない。
まぶたを見開き、盲ながら夜目の利いた眼で広大な採石場を見た。
ぼんやりと、白いものがちらつく視界に、屏風のような黒い岩壁が左右に聳えているのが見えた。
その手前に、あばら家同然の長屋が佇んでいるのを発見した。
すぐそこだ。ひとっ走りでたどり着くことができる。
そのときであった。
背後で人殺し船頭の声がした。
観念してふり返った。
「みぃーつけた! ボサマ、そんなところにいるたぁ、ちゃっかりしてるじゃねえか!――けどよ、こっから先へは行かせねえ。よくもさっきはやってくれたな、オイ。この借りは返してもらうっからよ!」




