16.砂羽の市からの贈り物
水路の壁を伝って急ぎ足で歩いた。水の流れる方向に行くしかない。
かと言って勢いよく走れば、やかましい音を立てるうえ、滝壷に落ちたように、思わぬ段差であやまちをくり返さないとも限らない。
慎重に足をくり出した。
それにしても寒い。杜の市は我が身を抱いて歩いた。
切りつけられたふくらはぎは疼き、脈拍に合わせて熱い血液が流失しているのがわかる。
どれほど深く切られたのかは不明だ。骨にまで達していなければいいが……。
水路の壁の高さはしだいに高くなり、杜の市の頭まで隠すほどになった。
しかも枝分かれした箇所もあり、入り組んでいた。好都合ではあったものの、まさか真正面から鬼市郎と出くわしたのなら、万策尽きる。
そのときだった。
左手の地上だ。向こうで脚を引きずるような音を耳にした。
――あの男にちがいない。息を殺しているつもりだろうが、奴特有の悪人の体臭と汗の臭いで迫りつつあるのがわかるぞ!
先ほどお沙世に助けられたとき、礫のひとつを回収していた。
それを手にし、ためしに左後方へ、でたらめに放り投げた。
高く遠くへ。
耳を澄ませた。
カツン!と、着弾し、弾んで転がる乾いた音が、ずいぶん後方で聞こえた。
すぐさま鬼市郎とおぼしき気配が異変に気づき、歩みをとめ、しばらく考えた末、そちらへ走っていくようだ。他愛もない陽動に引っかかってくれた……。
その間になおも水路を、水の流れに沿って進んだ。
もはやなにをしたいのか、自分でもわからなくなりつつあった。――あの船頭と対決し、一矢報いるべきなのか、それともひたすら逃げおおせることに徹したいのか。
いずれにせよ、あの男をどうにかしないと島から抜け出せはできないのだ。
なんとか撃退しなくてはならない。
杜の市には、なぜ鬼市郎が片脚を引きずっているのか解せなかった。
過去に事故に遭い、その後遺症なのだろうかとしか思えなかった。いずれにせよ室町時代の当時、庶民の栄養状態は芳しくなく、先進医療もない時代だったのだ。杜の市のように病気で後天的に失明する者もいれば、生まれつき盲となった者も、現代と比較にならないほど少なくなかった。それと同様、身体的に不自由な者もめずらしくなかった。
――きっと、あの男もそういう運命のもとに生まれたのだろう。
水路をしばらく行くと、右の岩壁に人一人入ることのできる窪みを見つけた。
そこは一段あがった場所で、足もとは濡れていない。
杜の市はいったんそこへ避難し、小休止することにした。物陰になっていたので壁にもたれてしゃがみ、傷の具合を調べることにした。
安堵せずにはいられない。
指で調べた限り、ふくらはぎの傷は思ったより浅いようだ。少なくとも骨にまでは達していない。失血死は免れるかもしれない。
手のひらの傷もズキズキしたとはいえ、包帯をきつく巻き直せば血は押さえられそうだ。かえって相手の武器の切れ味が良すぎて幸いしたのかもしれない。なまくらな刃物で切った方がより疼き、治りも遅いものだ。もっとも、紙一重で致命傷になったろうが……。
むしろほぼ裸足に近い足の裏の痛みの方が耐え難かった。こればかりはどうにもならない。
先ほど鬼市郎に組み付かれたとき、法衣が乱れたままだったことに気づいた。
襟元を正し、ふと、片方の袂に手をやった。
袂の袋状になった物入れに、先ほどお沙世から手渡された貝殻をしまってあったのを思い出した。
あわてて取り出す。
なんの変哲もない大きな巻貝の殻にすぎないような気もするが……。
とりあえず、テングニシ貝は地面に伏せた。
袂にはまだわずかな膨らみがあった。
なかを探ると、くたくたになった紙袋のようなものが出てきた。
和紙の肌触りと、すっかりしおれた水引らしき帯紐の感触――。
いまさらながら思い出した。――これは正月の宴会の席でもらった祝儀袋ではないか。
あのときはめでたい新年の祝いのさなかで、酒も入っていた。砂羽の市からもらったことをすっかり忘れていたのだ。
義兄弟のなかでも、砂羽の市は最年長であり、みんなのまとめ役でもあった。ふだん物静かな性格でありながら、細やかな気配りができ、誰もが信頼をおいていた。
その砂羽の市もお労しや。ぞわいにかじりついたまま泳ぎことさえできず、波間に消えていったのだろう……。
ご祝儀の紙袋には金が一枚、入っているようだ。
紙袋を握り、泣いた。膝を抱えた姿勢のまま、手で口を覆った。突きあげるような嗚咽が洩れるのも気にせず、義兄を偲んだ。
砂羽の市にとって今回の船旅の目的は、善光寺参りだけではなかった。
その後京にのぼり、当道職屋敷へ足を運び、悲願の検校の位をいただくためでもあった。多額の金子も用意していたので、五人で貯めた合計は莫大な金額になっていた。
義兄も、ここまで来るには並々ならぬ苦労があったようで、宴会の席で検校になることを報告したとき、あの理性の人が、人目も憚らず泣き崩れた姿を四人にさらしたのだった。
それにくわえ、砂羽の市は鍼灸を生業としていて、その腕も評判がよかった。今回検校の最高位を賜った暁には、都で店を構えるつもりでいた。
砂羽の市はこう言った。
「そこでせっかくおまえたち、兄弟とも久しぶりに会えたことだし、日ごろの感謝の意味もこめて、ささやかながら小遣いをあげたい」
と、みんなに祝儀袋を配ったというわけだった。
……が、それもこれも滅茶苦茶にしたのは、欲に目のくらんだあの船頭である。
身を粉にして働き、倹約に倹約を重ね、集めた虎の子を奪ったあの男だけは許せない。この激動の時代にあって、浮かれたそぶりを見せてしまったのは軽率だったかもしれない。しかしながらそこに至る道のりは、ましてや目明きの者には到底味わうことのない、忍従の日々を過ごしてきたのだ。それを一瞬で破壊した罪はあまりにも大きい。
考えれば考えるほど、四人の命が奪われたことは悲しくもあり、また腹立たしかった。
やはり、どうあっても生き延び、奴に然るべき制裁を科すべきである。
杜の市はむせび泣きながら祝儀袋を開けた。
ささやかな気持ちどころか、小判が滑り出てきた。触れればすぐにそれとわかる。これには砂羽の市の心遣いに頭のさがる思いをした。
袋にはまだ異物の感触があることに気づいた。なにか細長い、硬いものが入っているようだ……。
指を突っ込んでみた。
なにやら硬い、長い細長い棒のようなものが三本ばかり出てきた。先端は尖っているらしく、誤って指を刺さないよう、柔らかい帽子のようなものを被せてあるようだ。
すぐに察した。
――これは鍼灸の鍼にちがいない!
砂羽の市はいずれ店を出すと同時に、鍼灸の技を若い座頭たちに伝授すると言っていた。
それと同時にこの鍼を四人に渡したのは、『我々は離れていても、いつもひとつだ』という、言わば生きていながらの形見のようなものであり、絆の証でもあったのだ。
鍼灸の鍼。
まさか袂から、これが出てくるとは思ってもみなかった。
危機的状況におかれた杜の市にとって、願ってもない武器となるだろう。
三本の鍼を束ね持ち、額に当て、砂羽の市に感謝した。




