15.石切り場での戦い
「どこだ、ボサマ? どうせ、ふるえてるんだろ? おまえさんのチビった小便の臭いがするぜ」と、鬼市郎はハッタリをかけてきた。あさっての方向に身体を向け、唾を飛ばす音がした。「わかる……。おれにゃ、わかるぞ。おまえさんの心の臓の鼓動が。ドキドキ言ってんだろ。そりゃあ怖いよな!」
影絵となった鬼市郎は、抜き足差し足で左へ走っていき、杜の市の視界から消えた。
少なくとも岩と岩のすき間からは見えなくなった。
このまま夜が明けてくれたらありがたいのだが、そうもいくまい。
しばらく我慢したときだった。
「みぃーつけた! 見つけたぞ、お沙世!」
遠くで鬼市郎の声が聞こえた。喜色満面の顔まで思い描くことができる。
とっさに杜の市は岩のすき間から身をよじって飛び出した。
自分ならともかく、お沙世の身になにかあったら事だ。手出しはさせまい。
物陰からどうにか出たとたん、烈しい衝撃があり、つぶされる形で地面に這いつくばった。
何者かが頭上の巨石の上から飛び降り、杜の市の身体に肩車をする形でのしかかったのだ。
鬼市郎の仕業だった。
たちまち馬乗りにされる。
「ボサマ、みぃーっけ!」背中に跨ったまま言った。片手で杜の市の頭を押さえつける。「こんな子ども騙しにかかるたぁ、おまえさんも単純な男だよな! そんなんじゃ長生きできやしねえ! この世はすれっからしの連中が幅を利かせるんだからよ!」
「よくも!」
杜の市は抵抗するが、負けじと鬼市郎も太ももで押さえつけ、暴れ馬を制御するかのように踏ん張った。
そのうち片手を座頭のあごにかけ、そり返らせた。
匕首の刃先を喉に当て、ちょいと真横に引くだけで放血させることは容易い。それこそ猪か鹿でも捌くように。
「それでおしまいか? 藻掻いてみやがれ! ぞわいで死んだお仲間みたいにあっさり死ぬんじゃねえぜ!」
「人でなしめ! 義兄たちを虚仮にしおって!」
杜の市は両腕をばたつかせた。どうにか鬼市郎につかみかかろうとするも、逆手になるだけに思うように力が入らない。そのうち足で封じられた。
鬼市郎が杜の市の耳元に顔を近づけた。
「お沙世がそんなに大事か? 実の娘ながら、アレにはほとほと手を焼いたんだ、生前はな。あんなあばずれに入れ込むたぁ、おまえさんもおめでたい男だ」
匕首の切っ先が喉に触れた。
柔らかい皮膚にチョイとめり込む感触に、杜の市は観念しかけた。
強く眼をつぶり、雄猫のように唸る。
――くそう、やはり目明きの者には敵わぬのか!
そのときだった。
ガツ!という鈍い音ともに、鬼市郎が反射的にうめいた。
地面に硬いなにかが転がる音がした。
危うく白刃が皮膚を突き破りそうになったが、どうにか出血せずにすんだ。
続けざま、ガツン!と鬼市郎はやられたらしい。一発目は背中にぶつけられたようだが、今度は頭部に命中したらしい、嫌な音だった。
どこか離れた場所からの投石だった。子どもの拳ほどの石塊だった。次々と誰かが礫の雨を降らせていた。
「ちくしょうめ……。お沙世だな」と、鬼市郎は言った。烈しい怒気がこもり、本当に親子だったのか疑いたくなる。「やってくれるじゃねえか。どこだ、お沙世! 姿を見せやがれ!」
◆◆◆◆◆
死霊化したお沙世は、二人が揉み合う広場から九間(約16.3m)離れた巨石の上にいた。
いまだ斜め下の鬼市郎は位置を特定できず、あさっての方向を見まわしている。
お沙世の足もとには拾い集めた礫を山積みにしてあった。
次弾用の石を三つばかり片腕に持ち、全身を使って投じる。
その正確無比な狙撃ぶりよ。五発放って一度しかしくじらないのだから恐れ入る。これも子どものころから、川で水切りをして遊んだ名残りか。
もっとも、月明かりに照らされた十六歳の娘の姿は、生前の面影はこれっぽっちもない。
青ざめた肌は死人のそれで、頭から流れ出た血で黒く染まっている。半開きの口からは埋葬虫が行き来しているし、両眼の焦点も合っていない。おまけに頭頂部はすり鉢状の大穴が開き、得体の知れぬ粘液が波を打っていた。
小袖も汚らしく血と膿で汚れ、腐汁が滴り落ちていた。納豆のような発酵臭までする。
手足もすり傷がつき、癒えもせず、切り口が蜂蜜のように蕩け、うじゃじゃけていた。
よくぞその崩れ落ちそうな肉体で狙撃できるものだ。現に投げるたび、肩から骨が露出し、肘から下は亀裂が入り、黄色い脂肪の層がむき出しになり、損害が生じていく。
お沙世はふりかぶり、さらに速い弾を投じた。
空気を切り裂いた。
礫は真正面を向いた父の鼻柱を砕いた。
◆◆◆◆◆
鬼市郎の抵抗がゆるんだ。
一瞬、身体の軽くなった杜の市は、尻を勢いよく浮かせた。
とたんに鬼市郎はうしろへひっくり返った。
石塊をぶつけられたらしく、うつ伏せになったままうめく。
「さ、お逃げなさい、杜の市!」
どこからともなくお沙世の声がした。
杜の市は立ちあがり、人殺し船頭の気配を探った。
右後方で寝っ転がっている。
ふり向きざま、蹴りつけた。しゃがんでどやしつけた。
見事に当たった手ごたえ。
「どうだ、効いたろ!」
「よくも、盲の分際で!」鬼市郎が歯ぎしりしながら杜の市につかみかかってきた。白い法衣の襟元が乱れた。「借りは返すぞ、二人とも! 楽に殺しゃしねえ。じっくりねっとり、生爪を剥がしながら殺ってやる! おまえらの悲鳴を聞きながら、おれはアソコをしごいてやるからな!」
「死ぬまでしごいてろ!」
杜の市はでたらめに右の拳を放ち、鬼市郎のあごにめり込ませた。
胸倉を組み合わされていたので、それを突き破るべく肘打ちを食らわせた。
必殺の肘鉄砲を顔面に叩き込んだ。
ただでさえ鼻の軟骨をへし折られていた鬼市郎は痛みにうめいた。
怒り狂い、武器をふりまわしてきた。
杜の市は両腕で上半身を保護しながら、反射的に身を引いた。
が、左の手のひらに鋭いものが食い込む感触を感じ、飛びずさった。
見る見る手から温かいものが溢れてくる。
鬼市郎はなおも匕首を一閃させ、杜の市は右脚のふくらはぎまで切りつけられた。
とたんに力が入らなくなり、その場に頽れた。
それを見た鬼市郎は鼻を押さえ、一目散に逃げていった。
一気に形勢逆転したいところだったが、深追いすべきではあるまい。依然杜の市は不利な立場なのだ。自重した。
投石はやんでいた。お沙世が助けてくれたのだろうが、返事はない。
鬼市郎はどこかへ行ったまま、いまのところ戻ってくる気配はない。
杜の市はしゃがんだまま、法衣の袖を噛みちぎり、包帯を作り、どうにか傷口を覆った。とりわけふくらはぎの傷跡は深刻で、きつく縛ってもすぐ血が滲んでくるのがわかる。
杜の市はその場を離れることにした。鬼市郎が逃げていった岩壁沿いとは別の、石切り場の南側――奥へと進んだ。
あの男はわざわざ島まで追ってきて、杜の市を仕留めにきたのだ。そうかんたんに尻尾を巻いて逃げるとは思えない。旗色が悪くなったので、一時撤退したにすぎないはずだ。
いつの間にか杜の市は杖を失っていた。
手探りで点在する巨石に触れながら先に進むしかなかった。
先ほどは罠にかかったも同然だった。まさか巨石の真上から馬乗りにされるとは予想だにしなかった。
なるほど平地より高台にいた方が見晴らしが利くだろう。
さりとて盲人の身で、真上に登ろうにも不安定な足場だ。よけいに危険がつきまとう。我慢してこのまま隠れながら進むより他あるまい。
手のひらと右脚から血が滴り落ちているのがわかる。
人殺し船頭はこれを手がかりに、足どりを追い、反撃に出てくるにちがいない。
どこかに痕跡を消す場所はないものか……。
そうこうするうちに、下り坂になり、しばらく歩くと幅の狭い溝に足を踏み入れた。
くるぶし程度の深さの水が流れているようだ。冷たい。幸い、流れは緩やかだ。
――これならば、血痕を消すことができるぞ!




