12.甦った複合的要素
「盲人となってからというもの、数え切れぬほど御仏に縋った。にもかかわらず、御仏は迷える私に導きの手を差し伸べてくれたことはなかった。代わりにお沙世、おまえを遣わしてくれるとはな」
クロマツの大木のかたわらで杜の市は言った。
むろん彼にはお沙世の姿はほとんど見えていない。靄のなかで、女らしき輪郭だけがぼんやりと映っているにすぎないのだ。それも月明かりのもとでは、かなり心許ない。
じっさいに杜の市の腕に抱かれているのは、見るも無残な姿のお沙世だった。
九年経ち、杜の市は二十七歳に成長したのに、彼女の時は十六のまま止まっている。
崖から投身自殺したとき、荒磯で頭頂部を豆腐みたいに砕き即死した。まるで啄木鳥の巣のような穴が開いていた。内容物はすっかり蕩け、代わりにおぞましい粘液に満たされ、蛆虫がわんさか泳いでいた。
お沙世の生気のない白い肌は、青い静脈が稲妻のように走り、その表面をうっすらと黴が覆っていた。首の裏の死斑は取れていない。
生ける死人が口を開くたび、無数の埋葬虫が口腔に入り込んでいるのが見えた。両眼の焦点はあべこべの方向を向いていた。血に染まった小袖は異臭を放ち、衣服の下は肉が糸を引いて溶解しつつある。およそ常人ならば鼻がへし曲がる思いをするだろう。
なのに杜の市は気にすることなく語りかけている。
◆◆◆◆◆
杜の市は、期せずしてお沙世を甦らせてしまう愚行を冒していた。本人は自覚がないようだが……。
あれは杜の市が二十五のとき――つまり二年前の話である。
たったひとつの拠り所であったお沙世の面影を忘れられることができず、杜の市は琵琶法師として行脚する生活を続けながら、その心は荒み、亡霊のように彷徨っていた。
あるとき、集落のはずれに安置された粗末な地蔵尊の存在を知った。
失せ物(紛失物)探しのまじないや石仏は、どこの共同体でもあった。口伝によって作法も伝えられていた。
作法といっても、盗難や失せ物があると地蔵尊に縄をかけ、願をかけるだけのことである。
願いが叶うと縄を解き、お礼すればいいだけだ。現代でも荒縄で全身をぐるぐる巻きにされた石仏があり、古来よりこのご利益に頼る人は後を絶たない。
なじみの石仏は、近所の住民に重宝がられていた。
身のまわりの失せ物があれば、誰もが手軽に願をかけた。誤って焼失でもしていないかぎり、不思議とよく見つかった。なかには盗難にあったものは、思わぬ場所で発見されることもしばしばであり、住民は慣れていたものだ。「さすが失せ物探しの仏さまだ」と言って、手を合わせ、ありがたがった。
――もとより、神仏に縋ったところで答えてはくれぬ。だったら地蔵菩薩よ、救いの言葉はいらぬから見つけ出してくれ。私にとって唯一の望みは、お沙世に他ならない!
――失せ物はお沙世そのものだ。願わくばお沙世を返したまえ。たとえ死んでいるにせよ、せめてその魂だけでも戻してくれ!
お沙世が失踪したとき、室内で見つけた櫛を供えた。
石仏の前で、ありったけの気持ちをこめて琵琶を爪弾き、お沙世への思いを丈をぶつけた唄を口ずさんだ。
晴天広がるさびれた辻に、嫋々たる声が響く。
四弦五柱の琵琶は、桑や花梨の胴に桐の腹板をはめ込み、三種類の太さの異なる絹糸を張った楽器である。
天候や気温、湿度に敏感で、張りのある音が響くときもあれば、湿気を含んだせいで、くぐもった音しか出せないこともある。弾き手の精神状態によって音色も変化し、技量の良し悪しを超えて、ありのままが旋律となる。琵琶の音は、琵琶と弾き手が一体となってはじめて生み出される。妙音を奏でるには、たゆまぬ仏道修行を必要とされている。
切なる祈りが浄土に住まう仏に届いたか、さもなくば失せ物探しにとって、禁忌に触れ、天の怒りを買ったか。
さっきまで晴天だったのに、にわかに黒雲が立ち込めた。道往く人はなにごとかと訝しんだ。
突然のどしゃぶりであった。
篠突く雨が降り、杜の市の身体を叩いた。
和太鼓を連打したかのような雷鳴がとどろき、稲光の閃きが世界を炙り出した。
あろうことか、杜の市は『魔』との契約を交わし、成立させた瞬間だった。――が、それは複合的要素のひとつを満たしたにすぎなかった。
失せ物探しの地蔵菩薩に、死者を甦らせて欲しいと願をかけるなど倫理にはずれていよう。
お沙世を甦らせる複合的要素のひとつとして、琵琶による演奏があった。それに加え、杜の市のシャーマンとしての素養が重なった。
余談だが、平安時代後期――十二世紀の歌人に源俊頼がいた。
父である大宰府の副長官を勤めた経信の葬儀をませた帰り路、筑前芦屋(福岡県芦屋町)の琵琶法師を見て、次のような和歌を詠んだ。
「芦屋といふところにて、琵琶法師の琵琶を弾きけるをほのかに聞きて、むかしを思ひいでらるることありて、流れくるほどの雫に琵琶の音をひきあはせても濡るる袖かな」
俊頼の父は、琵琶の名手として知られた人物であった。
『琵琶の音』が俊頼に亡父の『むかし』を思い起こさせた。それは琵琶法師こそ、死者の鎮魂や口寄せを業としていたこととも関係していたとされている。
琴や梓弓を含めた弦楽器は、古くから神霊や死霊を招き寄せる巫具として用いられた。琵琶法師の琵琶もまた、見えないモノのざわめきに声を与えるためのツールであった。
彼らの琵琶で弾き語りされるモノ語りは、死者たちの『むかし』を『いま』に呼び起こすシャーマニズムとしてつながっていたのだ。
ちなみに琵琶法師と言えば、『耳なし芳一』で広く知られている。
夜な夜な壇ノ浦合戦で入水した平家一門の死霊たちが芳一のもとを訪ねてくるのも、巫具の音に誘われたのかもしれない。
したがって、琵琶弾きとして生きてきた杜の市もまた、死者を招き寄せる素養を秘めていたにちがいない。
◆◆◆◆◆
「やれやれ、こいつは驚いた。お沙世とデキてた座頭ってのが、まさか坊様――おまえさんだったとは」
松林の向こうで声が湧いた。
胸の中のお沙世が、ビクリと肩をふるわせる。
杜の市は反射的に声の方を見た。もとより三間(約5.4m)も離れたうえ、暗すぎてなにも見えない。
言わずもがな、四人の義兄弟を海に沈めた船頭が追いついたのだ。
「殺しに来たか、私を」
「ここまで追ってきたんだ。いまさらあとには退けやしねえ」鬼市郎は筒袖の袂に片腕を入れていた。そこに得物を呑んでいるのだ。死霊化した娘に一瞥をやり、哀れんだ顔を見せた。「盲人の財産を奪い、ましてや皆殺しにしてみろ。おれは前科持ちなんだ。今度ばかりはお縄につきゃ、死罪は避けられねえ。悪いがボサマよ、おまえにゃ死んでもらう。死人に口なしだ」
「ひとつ聞きたい。なぜお沙世のことを知っている?」と、杜の市は白眼を剥いたまま小首をかしげた。いくつもの疑問の糸が、蛇の交尾のように絡み合う。今宵は死にかけてからというもの、いくつものおかしな現象が重なり合っていた。もはやなにが起きても不思議には思うまい。「私とてお沙世と九年ぶりに会えたことは奇異に思う。だけども、あんたがお沙世を、古い付き合いみたいに言うのは腑に落ちない」
「鈍いね。――そいつぁ、おれの一人娘だ。その昔、おまえとの間を引き裂いたのは、このおれさ」
「なんと!」
「実の娘ながら同情するさ。許してくれと、何度思ったことか。おまえが知らねえのも無理はあるめえ。お沙世との仲を引き裂いちまったら、すっかりふさぎ込み、自害したのさ」と、鬼市郎は残酷な現実を突きつけた。実の親とは思えぬ鉄面皮ぶりである。「あいにくおまえがいま抱いてんのは、おぞましい生きた屍じゃねえか。お沙世も哀れだが、そんな化け物に好かれるおまえも同類だな」
「生きた屍だと? ふざけるな。お沙世はここに存在する。ちゃんと肌には温もりがある!」
「父の言ったとおりよ、杜の市」と、胸の中のお沙世が口にした。背の高い座頭の青年を見あげると、すり鉢状になった頭頂部の穴から粘液がうしろへ零れた。声まで蕩けるような危うさを秘めていた。「私はあなたの祈りに招かれたの……」
「招かれた?」
「ボサマよ。逃げ込んだこの島の秘密をとっくり教えてやろう。ここにゃ、おまえさんにぴったりの島の名がつけられてるんだな。屏風七浦と呼ばれるほどきれいな島だが、鎌倉時代のころにゃ、直島海賊が根城を築いて、そばを通る船にチョッカイ出したり、なかには殺人もめずらしくなかった。とくに周辺じゃ、ぞわいが至るところに潜んでいやがる。船乗りにとっちゃ一番の難所として恐れられたんだ。昔から命を落とした船乗りも大勢いたらしく、内地の人間は島をこう呼んだ――屍島と!」
「なんだと!」
屍島(※現在では京ノ上臈島と呼ばれている。恐らく江戸時代に付けられた島名であろう。それ以前の時代は屍島とされていた。香川県香川郡直島町に属する)の周辺海域も岩礁が取り巻いていた。
他にも、こんな逸話が残されている――。
およそ一〇〇年前、廻船が備讃瀬戸にある大きなぞわいで座礁し、多くの旅客と船乗りが死亡した事例があった。
内地の宇野からや、真南に位置する直島の住民たちが救出しに出向いた。
遺体を回収したものの、時化の真っ只中ということもあり、急きょ当時は名もなき島だったそこの陸地に並べられた。
嵐が襲った。
波は荒れ狂い、大雨が降りしきり、ついに死体置き場のそばにある針葉樹に雷が落ちた。
その直後――。
落雷が水死者にふたたび生命を与えたというのか……。次々に起きあがり、島を右往左往したというのだ。
それを見た近隣住民の驚きようといったらなかった。誰もが恐れをなして島に近づくことさえできず、遠巻きに見守るしかなかった。
この奇怪な現象が目撃されてからというもの、人々は島を屍島と呼ぶようになった……。
生ける屍がさまよう島のことは、またたく間に人の口から口へと飛び火した。
のちに室町幕府に知られることとなり、人心を惑わす理由から、足利尊氏は屍島に兵を差し向け、甦った死者を斬り捨てた忌むべき歴史があったのだ。
座頭一座を沈めたちっぽけなぞわいと同様、潮の満ち引きで姿を現したり消したりするように、生と死が交錯し、時間によっては生者の時刻と、死者のそれに潮目が変わるのかもしれない。
お沙世はある意味、そういった複合的要素が重なって生じた、かはたれ時の人造人間なのだろう。
「だからこそ、ボサマ、おまえの念ずる通り、愛するお沙世が甦ったのかもしれねえ! ここにゃ、そういう土壌があるんだろう。わからんでもないと思うがね。こんな夜だからなおさらだ!」
そう言って袂から匕首を出した。
鞘から抜き、白刃を剥き出しにする。月の光を跳ね返した。
柄に手のひらを添え、いつでも突撃できる構えを見せた。
杜の市は察知して、お沙世を片腕で抱いたまま、後退した。