11.見てはならぬモノ
――坊様よぉ! やっとこさ、みぃーつけた!
鬼市郎は松林の奥で、ついに標的に追いついた。
もっとも、狙うべき杜の市との距離は十七間(約30m)は離れていた。クロマツとクロマツの間が開いた地点で、なおかつ頭上からの光源を阻む樹冠の途切れたところから見通しが利いたのだ。
月明かりのなかで、ぼうっと浮かびあがる白い法衣姿を発見したわけである。
と思ったら、拍子抜けした。あんぐり口を開け、ひときわ大きなクロマツのもとで繰り広げられている杜の市たちの狂態に我が眼を疑った。
あわてて木の陰に隠れ、様子を窺う。
下烏島と上烏島の間にあるぞわいから、東へ六二二間(約1.1km)先にある、この無人島の由来は知っていた。伊達に十二年、瀬戸内で船を操って飯を食っていない。
――奇しくも島の名前はアレだからな。いわくありとは耳にしたことはあったが、なるほど夜になりゃ、なにが起きても不思議じゃねえわけか。
ようやく見つけた杜の市は、ひときわ眼を引くクロマツの巨木のそばで、小袖姿の若い女と抱き合っていた。まさか逢引するために、この島で落ち合ったわけでもあるまいに……。
――ずっと昔から無人島だぞ、ここは。あの坊様はおかしいとも思わねえのか?
鬼市郎は人差し指で自身の側頭部を指し、回転させた。
それにしても、十七間離れていたとはいえ、見れば見るほど見憶えのある身体つきの娘だった。
月明かりに照らされ、杜の市の白い法衣同様、娘まで青白く浮かんでいる。
墨汁をこぼしたような松林のなかで、二人だけがホタルイカそこのけに燐光を発しているのだから、異様な光景であった。
鬼市郎は徐々に距離をつめた。
木から木へと移動する。
そして五間(約9m)まで迫ったとき、思わず眼を剥いた。
杜の市と抱擁している相手は……まちがいなく見憶えがあった。しかも、その場にいるはずのない娘だった。
――そんなはずはない! あいつはいなくなった! それも……。
さらに驚くべきことに、娘の生気を欠いた青白い顔は、額から流れ出た体液で黒く染まり、テラテラと光っていたのだから尻餅をつきそうになった。見れば小袖全体も血で汚れている。
――お沙世! お沙世じゃねえか! 嘘だろ? なんで娘がここに?
鬼市郎は愕然とし、自身の右の手のひらを見た。ふるえがとまらない。
九年ほど前、山の民として各地を転々としていたとき、一人娘であるお沙世に、いい人ができたらしいと山内(製鉄者集団の集落)の職人仲間から教えられた。実の親父ですら知らされなかったのは、なんだか小馬鹿にされたような気がした。
昨日、鞆の港の問丸で、座頭一座を船に乗せてやると名乗り出たとき、八人目の餓鬼が生まれたから、うんと船賃を弾んでくれと嘘をついた。
じっさいはお沙世こそ、とっておきの一人娘だった。
◆◆◆◆◆
まちがいない。九年前だった。
お沙世が生まれたばかりのころは、それこそ眼に入れても痛くないほど可愛がったものだ。
ところが、他に男を咥え込んでいた女房と血は争えない。
その娘も年ごろになったとたん、奔放なところがそっくりになった。男にのめり込むと見境ないのだ。
いくら鬼市郎が注意しようが反発し、言い争いも増えた。血気盛んなたたら職人時代の鬼市郎は、手をあげたことも数知れない。
たたら製鉄をはじめ、鍛冶屋が信仰する女神は人間の女を毛嫌いし、作業場に入れてはならない掟があった。
それで父はたたら場で格闘し、お沙世は外で魚を採ったり、育てた野菜を町まで売りに行ったりして生活を支えていた。
そんな折に、杜の市と出会ったらしい。
鬼市郎は日中、たたら場を抜け出し、同棲しているという町の中の借家へあがり込んでみた。
――相手の男が、盲人の琵琶法師だと? なにを好き好んで座頭なんかと。碌なもんじゃねえ。そんな奴とくっついた日にゃあ、早晩苦労するのはわかりきっているってのに!
別れた女房に似て、娘は強情になった。
激情にかられ、手をあげてしまった。いままでにないほど半殺しにし、髪の毛をつかんで引きずって連れ帰った。
苛立ちはそれだけではなかった。当時、たたら場での仕事量が激減していたのだ。
周辺山間部や川から原料となる砂鉄を採り尽くしていたのもあったし、鞴を踏む番子のやりすぎで、右脚が膝から下がすっかり萎えてしまった。ましてや時折、炉内の火力の按配を見るため、すき間からのぞき見ているうちに熱で片眼を焼き、失明していた。ますます身体にガタが来ていた。
同時にやる気もしぼみ、酒におぼれるようになった。おまけにたたら製鉄の技術責任者である村下と喧嘩をやらかし、山内から追い出される形となったのだ。
どうせ家系は漂白の山の民。旅から旅の生活は慣れていた。
ところがサイコロの目は悪く出た。
なまじ生木を裂いたのがいけなかったか。
その年の夏に、お沙世が失踪した。書置きも見つからなかった。
世間では神隠しに遭ったと噂されたものだが――なんてことはない。
――神が人を攫って隠すなどあってたまるか! 大抵は男に連れ去られ、手籠めにされたうえ殺されちまい、土中に埋められたんだ。それとも精神に異常をきたし、どこかで生き倒れたかさ。さもなきゃ世を儚んで自殺しに山んなかへ入ったかだ。死体は思いもよらない場所に隠れちまっているだけ。昔から神隠しの相場は決まっている。
案の定、八日後、お沙世が見つかったとの知らせを受けた。
広場で人垣ができていた。
その中心には筵をかけられ、寝かされた娘らしき遺体。
筵をめくったとたん、鬼市郎はうめいた。
頭頂部は砕け、血まみれになった見るも無残な娘の姿がそこにあった。
脳は露出し、内側にまで蛆虫がたかっていた。淡い桃色の陶器の破片のようなものがいくつも添えられていた。砕けた頭蓋骨の欠片だった。欠片の裏には髪の毛の束が張り付いていた。おまけに、細かったはずの身体は臨月を迎えたかのように腐敗性の気体で膨張していた。
恐らく杜の市と添い遂げられないならと絶望し、死を選んだにちがいあるまい。まるで熟れた柿を叩きつけたかのような頭の有様から察するに、崖から飛び降りたのだろう。
――直接的に手をかけたわけじゃねえが、おれが殺したも同然だ。ちくしょう、お沙世、許せ……。
◆◆◆◆◆
――娘がここにいるのはおかしい。おっ死んだんだ、九年前に。
――なんでいまになって、それもこの島に現れた? この島がいわくありだからか?
――なぜ杜の市と乳くり合ってるんだ?
――ひょっとして、お沙世が惚れた男って、あいつのことだったってことか!
――こんな偶然あるか! なんてことだ!
鬼市郎は両手で顔を覆い、自身の運命を呪った。
五間向こうの木立で抱き合う杜の市とお沙世。
娘は全身血にまみれ、その柔肌は青ざめ、死霊さながらである。
杜の市とて白い法衣はまるで経帷子そのものであり、二人はこの世ならざる夫婦のようであった。
鬼市郎は見てはならぬものを見てしまった決まりの悪さに、烈しくうめいた。