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10.「おまえだけが希望の光!」

 そのときであった。――松林の入り口あたりで、ひそやかに枯れ枝を踏み砕く音を耳にした。

 すわ、もう船頭に追いつかれたのか。暢気にこんなところで眠っていたのは間抜け以外のなにものではないか――杜の市は内心、自身に腹を立て、同時に背中の産毛がそそけ立つ(、、、、、)思いにかられた。


 ゆっくり松の根元の穴倉から、ヤモリのように這い出す。

 音を立てるべきではない。

 大木の陰に隠れ、音のした方を見た。むろん盲人には姿こそ見えないが、気配はたしかにする。

 クロマツの枯れ枝を踏み抜く、パキリパキリという乾いた音が響く。


 何者かがこちらへと近づいてくる。ぼんやりとだが、そんな人影もおぼろげに見えた。

 万事休す。

 若い座頭は腹這いのまま、身じろぎすらできず、闇の中を睨むばかりであった。


 近づいてきたら、この細っこい笹の杖で突きを入れてみるか。さもなくば叩き伏せてやろうか。

 いやはや、相手は用意周到になんらかの得物を手にしているにちがいない。

 こんな棒きれごときで太刀打ちできようか。


 逃げるが勝ちという言葉が頭をかすめた。

 十一のときほぼ失明してからというもの、同い年の子どもたちから集団による陰湿ないじめを受けた。そんなときは自慢の脚力をいかして逃げるのが一番であった。ただし、靄のかかった視界で闇雲に逃げるわけだから、蹴つまずいたり、どこかの溝に足を取られることもめずらしくなかったのだが……。


 ためらった。

 人はいざこんな局面になると、身体が硬直してしまい、どうすることもできない。

 かと言って、このまま船頭に見つかり、とりが絞められるようにむざむざ殺されるのは、どうあっても死んだ四人の義兄弟たちに申し訳も立たない。


 弔い合戦とまではいかないにせよ、一矢報いねばせっかく命がけでこの島まで逃げてきた意味を見失ってしまう。

 だからこそ杜の市は追いつめられて、自らを奮い起こした。


 追跡者はまっすぐこちらにやってくる。もはや足音を忍ばせている気配さえない。さくさくと松葉をす音を響かせる。


 ――ええい、破れかぶれだ。どうにでもなれ!


 杜の市は立ちあがり、笹の杖を振りかぶった。


「およしなさい! 追手ではありません」


 その女の声で、杜の市の動きは硬直した。あやうく杖で打ちかかるところであった。まさか、無人島と思いきや、先住民がいたとは――。


「誰だ?」


「杜の市、信じられないかもしれないけど、私よ」眼の前に佇む気配(、、)が鋭く囁いた。すぐにしゃがんだのであろう、膝関節の折れるポキッという音とともに、衣ずれの音がした。「シッ、声を小さくして……。あの男は近くまで来ているのです。居場所を悟られないように」


 杜の市は杖で地面を探らずにはいられなかった。身を支えねば卒倒しそうであった。激震に近い衝撃が両脚の力を萎えさせる。


 ――信じられぬ。この声はまちがいない……。


「その声は――」杜の市はわなわなと身体をふるわせ、一歩踏み出した。ありえない。一月五日の海を命がけで泳ぎ、あまりの寒さに脳髄がやられ、幻聴でも聞いているのではあるまいか。「まさか、お沙世? お沙世なのか?」


 それにしては、あまりにも都合がよすぎる。なぜ七〇〇以上もある瀬戸内の島に、それも狙いすましたかのように、向こうからやってきたというのだ?


 ――だったらいまの私は瀕死の真っ只中にあり、幻と相対しているにちがいない。そうだ、ここは最初から島ではなかったのではないか。生と死の狭間で、ありもしない人間の声を聞いているとしたら。


 煩悶する杜の市をよそに、そばの気配(、、)はなをすする音とともに、こう言った。


「九年ぶりの再会になるね。会いたかった。杜の市、やっと会えた」


「本当にお沙世なのか?……ありえん。二十七年生きてきて、これほど現実を疑うことに出くわしたことはない!」


「それが本当なの。どれほどこのときを待ち侘びたか」


「よもや嘘でもいい。おまえに会えたのなら、ここで命尽きたとしても悔いはない!」




 とうに戌の刻をすぎていたころだろう。夜の色とは黒いと思いがちだが、夜とは限りなく青に近く、むしろ山影さんえいの闇の方が墨汁をぶちまけたような色を呈しており不吉だ。日が落ちてから山中に踏み込むのは無謀すぎた。


 青白い月明かりしか光源はない。

 たしかに、めしいた杜の市にはお沙世の存在をそばに感じたし、懐かしの花菖蒲のようなさわやかな体臭もした。嗅覚までおかしくなったとは異常だ。


 ――とすれば、杜の市の孤独と体力的精神的限界を超えた状態と、くわえて狂乱が招いた幻ではないか。

 気配に向かって手を伸ばした。

 手を伸ばさずにはいられなかった。


 すぐにそれに応じるかのように、杜の市の手を握りしめる、陶器のように冷たくて細く、やわい女の感触があった。

 まぎれもない。

 相手の手の大きさといい、力加減といい、お沙世のそれに相違ない。見知らぬ誰かが、声音をまねて演技しているとは思えない。


 思わず抱きしめた。抱きしめずにはいられなかった。

 お沙世の頭を胸に感じた。

 これが幻覚なものか。九年前、わずかな時間をともにすごした。十八と十六の若き血がたぎる男女。夫婦と呼ぶにはおこがましいかもしれないが、満ち足りた日々を、瞬時に思い出させるほど懐かしい感触であった。

 盲人たる杜の市には確認する術はない。とはいえ、視覚をのぞいたすべての感覚を総動員しても、胸に抱くはお沙世以外に考えられなかった。


「あのとき、おまえが姿を消した日、あの狼藉にあった日」と、杜の市は両手でお沙世のか細い身体を抱いたまま言った。「てっきり私は、おまえが親父どのに無理やり連れていかれ、二度と手の届かぬところへ行ってしまったと思った。さもなくば気の荒い親父の怒りを買い、殺されたのかとも最悪の予感すらよぎった。たしかにここに抱くおまえの感触は当時と同じだ。しかしなぜ、偶然こうも島に居合わせたのだ? 奇蹟と呼ぶにはあまりにも鮮やかすぎる――」


「杜の市……。あなたが苦しいとき、神仏に頼るよりも強く私を欲したとき、私は召喚されたの。いままでそうだったではありませんか」


「神仏より強く、とな。すなわちお沙世、おまえはそれをも凌ぐというわけか」


「あなたはいま、窮地に立たされている。座頭仲間も死に、味方はいない。だからこそ私しか拠り所がなかったはずです」


「そうだ。盲いた私にとって、おまえだけが希望の光!」

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