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穏やかな世界の光景

 社の前に十メートルほどの高さの白木の太い柱が二本立っていて、その柱にしめ縄が下がっていた。社との位置関係から鳥居をイメージさせた。形を見れば鳥居ではないが、神域への境や入り口を示す建造物に違いない。

「こんな、綺麗なとこやったんやな」

 香久夜は手にしていた掛矢を軽々と投げ捨て、周囲の景色を見回して重い気分を振り払った。淡い緑に輝く草原のみではない、花や穂を吹き渡る風の甘さ、肌寒さを感じる肌にちくちくと刺さるように降り注ぐ陽の光の暖かさまで、全てが香久夜たちを優しく受け入れるようで心地よかった。

 同意を求めて照司を眺めた香久夜は、ポケットを探って、硬貨の数を確認した。この山の上まで逃げてきたが、弟に食事を与えやらねばならない。香久夜には照司の保護者としての意識があった。一晩経って、二人を捜す大人の目も少し緩やかになっているかもしれない。

「山、降りようか?」

 香久夜は照司にそう尋ねた。弟の意見を聞くという体裁を取ったが、香久夜は心の奥底の方で少し狡いのかもしれない。自分の心をそう評価する冷静さと後ろめたさがあった。たとえ、結果がどうなっても、弟の意見を尋ねて、弟の同意のもとなら、香久夜が背負う責任は半分ですむ。もちろん、照司の反応はないことを知っている。判断を求められた照司は困ったようにうつむいた。

「さあ、あんたも降りたいんやろ」

 香久夜は弟の手を引いて道を下り始めた。しばらく歩くと、水の流れに合流した。山の中腹に湧き出したわき水が、窪みを伝って流れている。この後、幾つかの流れが合流して川と呼べる流れになる。香久夜はその水の清らかさに注意を引かれた。

「お腹いっぱい飲んどき」

 香久夜も両手にすくって腹一杯飲んだ。たとえ、パンが買えても、照司と分けて食べればすぐになくなる。香久夜の経験から言えば、お腹が空いてから空腹をごまかすために水を飲むより、水を飲んでお腹一杯にしてから、僅かな食べ物を食べる方が、少し幸せな気分が続く。

(そやけど)

 昨夜は暗闇の中、斜面に刻まれた石の階段を登った記憶があるが、こんなに高い山だっただろうか。香久夜はそんな疑問に首をかしげた。密な木々に遮られて視界が利かないが、つづれ織りの山道をずいぶん下ったが、まだ麓につかない。

(冷たい)

 ふと触れた葉から伝わる朝露の感触に、香久夜は昨夜の金属の手すりの感触を思い出した。昨夜は金属の手すりのついた石段を登った。この下りの道には石段も金属の手すりもなく一歩ごとに土の地面の感触がある。

 昨夜の経験では、麓には両岸をコンクリートで固められていた川がある。道路は舗装されていて、ガードレールで歩道と車道が別れているという景色だろう。ぽつりぽつり輝く街灯の灯りが、彼女の記憶に残っていた。

 いま、麓に下った二人の傍らを流れる小川は地面を直接流れていて、川岸にはコンクリートの欠片もない。道路は土の地面が露出しているし、ガードレールも見えない。もちろん街灯はなく、頂上の社への道を示すように川沿いに石灯籠が並んでいるだけだった。

 何故か、山頂の社から下る道は、この一本だけだという意識が心の底から湧いた。とすれば、二人は昨夜と同じ道を辿っているはずだ。香久夜はもう一度辺りを見回して首を傾げた。まるで空気が違ってしまったかのように雰囲気に違和感があった。ただ奇妙なことに、心と正反対に肌には安らぎと懐かしさを感じていて、一歩足を進める都度、この世界にとけ込む感覚がした。

 川は少しずつ幅広く深くなり、香久夜は照司の手を引いて、橋の長さを確認するように十二歩の歩数を数えて橋を渡った。昨夜経験したより幅の広い川に間違いなかった。既に木立は疎らになって、少し見晴らしがいい。

 その見晴らしが良くなった川辺の浅瀬に、香久夜は一人の人影を見つけた。女は顔を上げると、親しげな笑顔を浮かべ、手ぬぐいの被り物を取って姉弟に挨拶をした。

 その女の顔立ちはともかく、髪型や服装は何処かで見た記憶がある。昔話の絵本の中で描かれているお爺さんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯にという下りで描かれているおばあさんそっくりで、親しみはあるが、どこか現実離れした雰囲気が漂っていた。

「なんやのん? あの人」

 親しげな笑顔を浮かべる人に悪いと思いつつ、香久夜は眉をひそめて照司にそう呟いた。考えてみれば、山頂の社で出会った男たちも、昔話に出てくる男の衣装だった。着古してすり切れた感じがよくでていて、物語の世界より、ずっと現実味がある。さらに進むと、次にやってきた女も似たような服装である。洗濯物の入った籠を抱えてやってきた。川のこの辺りが浅瀬になっていて、集落の人々の洗濯場になっているらしかった。

「あらまぁ。なんと面妖な」

 老女は姉弟の姿を評した。昨日の世界のように、汚い物を見る目つきではない。親しげな笑顔を浮かべているから悪気はないらしいが、年寄りが『今時の若者は』と言うときの困ったような感じを秘めている。

 どうやら、異様な服装をしているのは姉弟の方らしかった。

「あの人たち、私らを何処まで連れてきたん?」

 記憶が薄れるように混沌としているが、昨日、自分達を家から連れ出して、車で長距離を移動させた人々がいた。自宅からずいぶん遠く離れた田舎まで運ばれたらしい。しかも、夜半、施設から逃げた彼女自身が方向も分からないまま随分と歩き回っていた。どこか得体の知れない場所に迷い込んだに違いない。

「ここ、何処やのん?」

 香久夜は照司に尋ねたが、もちろん照司は香久夜のスカートにしがみつくだけで答えはない。道は平坦になって、既に山を下りてしまっているのかもしれないが、豊かな自然が残っていて、ふと気付いてみると、香久夜が名前も知らない鳥が木々の枝で美しくさえずっていたりする。しかし、空腹を満たす目処もなく、二人は彷徨い歩くしかなかった。ただ、滑稽なことに二人は慣れた空腹を感じなくなっていることに未だ気づいていない。一歩ごとに踏み出す足は軽やかで、重力が激減した事に気づかないかのように飛び跳ねていたりした。

 自然と人々の生活が溶けきっていて、森と村の境目がハッキリしない。二人が歩く道にぽつりぽつりと家が増えてきたし、道を行き来する人々の姿も多くなってきたから、きっと、ここは村の入り口にさしかかっている。香久夜はそう判断した。

 二人を邪魔者のように追い散らす自動車もない。行き交う人々は二人に愛想良くお辞儀をしてくれた。人々は姉弟を知っている様子をみせていた。香久夜は首を傾げた、確かに知っている顔が混じっているような気がし、人々の名前さえ思い出せそうな気がする。状況はよく飲み込めないが、無視されるよりは心地よい。


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