最初の出会い
香久夜には何かの夢を見ていたという記憶はあるのだが、その内容は判然とはしない。現実と向き合う辛さから逃れて、ぼんやりとした微睡みに身を任せていた。瞼を撫でる明るさと、全身を包む柔らかな肌寒さに、夜明けの兆候を感じとっている。しかし彼女の心の半分は夢の中にいて、寝息を立てている照司を守るように寄り添っていた。心も体も冷えた空間の中で、弟と接する部分だけが暖かい。
その意識が社の中に別の気配を感じ取った。彼女の目は閉じたままだが、伸びをして耳を澄ますウサギのように、精神は瞬時にして研ぎ澄まされていた。その気配は、この社の入り口付近、香久夜の背後から発していて、目で確認することが出来ない。寝返りを打って気配の方向を振り向くため、香久夜はゆっくりと彼女をつかむ弟の指を引き離した。
しかし、響いた野太い男の声に驚いて、香久夜は動きを止めて背後に耳を澄ませた。
「ここまで出張ってきた甲斐があったわい」
やや貫禄のある声に、別の声が答えた。
「さすがは、お頭じゃな」
深く考えるでもなく、強いものに付くという雰囲気の声が唱和した。
「そうじゃ、そうじゃ、その通りじゃ」
(何や? この雰囲気は)
香久夜は心の中で首をかしげた。粗野な男性たちの雰囲気だった。その口調や会話の内容から妙な生真面目さも伝わってきた。すべて運命任せという気楽さがあり、逼迫した感じが無い。
(一人、二人、全部で五人か)
香久夜はその気配と声音から人数を数えた。男たちの会話が続いていた。
「それにしても、この社が明るう輝いたのを見たときには、てっきりスエラギ様の罰かと」
「あほな事を、スエラギ様が罰を下そうものか」
「それにしても、良い根城があったものじゃ。ここなら、雨露がしのげような」
香久夜は男達の口から漏れ聞こえた言葉に、再び首を傾げた。
「これだから、山賊家業は止められねぇ」
そんな男の声が、他の男の笑い声に混じって聞こえた。『さんぞく』という言葉は、仕事か身分を示す言葉らしいが、香久夜の身の回りには無かった言葉で、言葉の正体が分からない。ここまで出張ってきたと言う表現と、聞きなれない言い回しの言葉で、男たちがずいぶん田舎から出てきたことが知れた。
男たちは会話のネタに尽きたらしい。ごぶり、ごぶりと液体を下品に飲み干す音や、げっぷが社の中に響いている。物音から察すると、数人の男達が部屋の中央で車座になって酒盛りでもしているようだ。
「娘の方はやせっぽちだが、宿の端女に売れば多少の銭になるだろうぜ」
「それよりもガキの方だな。あの端正な顔立ちなら、都の貴族の館に小姓として高く売れるだろうよ」
(七人)
別の角度から新しい声が聞こえて、香久夜は男たちの人数を付け加えて修正した。どうやら、姉弟を見つけた犯罪者が、二人をどこかに売り飛ばす算段をしているらしい。男達の相談内容は、人身売買という悪辣で非情な犯罪だった。
ただ、「さんぞく」だの、「きぞくのやかた」だの、男達の会話に含まれる言葉は古臭く、多少、想像力を交えなくては、会話の内容が理解ができない。
「それにしても、この社の異様なことよ」
「ほんまじゃのぉ」
「茅の輪以外、なぁーんも無いわ」
質素な社で盗むべき金目のものが無いのが残念だと言うことらしい。唐突に、香久夜の心に小さく鋭い怒りが湧いた。
【この神聖な場所に、うつけ者どもが侵入して、勝手気ままに荒らしている】ということだった。
茅の輪以外、なぁーんも無いというわけではない。一切の虚飾を取り除いて、清楚であるがゆえに、精神の拠り所になる神聖な空間だった。本来はカグヤとショウジの許可を得た者しか踏み入ることが許されない。
怒りにかっと目を見開いた香久夜は、ふと我に返った。目の前に照司の寝顔が見え、その弟の柔和な表情が、香久夜に慎重さを取り戻させた。香久夜は心に湧いた怒りをこぶしに握りこんで消した。ただ、香久夜は自分が茅の輪を始め、この世界の神職の仕来りについて知識を持っている事に気付いていない。香久夜は男たちに気付かれないよう、ゆっくりと寝返りを打って体の向きを変えた。
香久夜は薄目を開けて、ぼんやり見える男たちの姿を確認した。簾の向こうの部屋で、車座になる男たちが六人。部屋の隅で何かの荷物を整える男が一人。香久夜と照司に背を向ける体格の良い男がリーダーらしい。着古した毛皮の上着に包まれた肩の筋肉が首筋まで盛り上がってたくましい。社の扉は、酒盛りをする男たちの向こうで、逃げ出すのも難しそうだ。しかし、この男たちが油断している内に、こっそり照司を連れ出して逃げなくてはならない。いまは、その隙を窺っておくのがいい。彼女は身を丸めたままで眠ったふりを続けた。この時に香久夜をヒヤリとさせる出来事が起きた。
「お姉ちゃん」
照司がそう呟いて眠い目を擦った。隙を窺うどころか、照司が目を覚まして、二人は男達の注目を浴びてしまった。
「ガキが目を覚ましたらしい。ゴスケ、見てこい」
頭目の大男からゴスケと呼ばれた男が、酒気を帯びたまま立ち上がってやってきて、照司の襟首を掴んだ。次の瞬間、ゴスケは唸った。その声は悲鳴に近い。照司は、誰かの手が自分に伸びてくると、怯えるように頭を抱え込む癖がある。照司は自分の襟首を捕もうとした手から体を庇おうとして、ゴスケの手を掴んで捻り上げていた。
照司はゴスケの悲鳴の意味が分からず、ゴスケが驚く声に、自分もまた驚いて、ゴスケの手首をつかむ手に力を込めた。ゴスケは腹の底から恐怖の悲鳴を絞り出した。少年の力が信じられないほど強く、腕の骨を握り潰されるのではないかという恐怖に捕らわれたのである。仲間の男たちがゴスケと照司をにやにや笑ってみていて、何が起きているのか理解していない。
「タイチ、見てこい」
頭目が次の仲間を顎で示して命じた。タイチと呼ばれた男は、あぐらに組んだ足をしぶしぶ解いて立ち上がった。
「照司に手ぇ出すな」
香久夜は弟を庇おうと、寄ってきた男に向かって突き飛ばす様に腕を伸ばした。もちろん、体格差を考えれば、香久夜が男にかなうはずはない。そういう自覚はあるものの、照司から男を引き離して守りたい。
酒盛りを続けている男たちは、目の前の光景が信じられない。仲間のゴスケが少年の側で悲鳴を上げているばかりではなく、ゴスケに近づいたタイチが、娘に体を壁に叩きつけられて気を失っている。残った男たちは、ようやく得体の知れないことが起きていることに気付いたらしい。男たちはめいめいに安酒の入った腕を置いて立ち上がった。信じられない光景に、背筋に冷たい緊張感が走って、酔いは醒めていた。
「何か武器になるもんは?」
香久夜はそう呟いた。相手は大柄で屈強な大人たちばかりだった。大人たちに武器を持たれれば、香久夜はもっと不利になる。床を眺めてみれば、男たちはくつろいで武器をあちこちに放り出していた。香久夜は自分の位置から一番近い位置にあった武器を、男たちに先んじて手に取った。男たちは再び目を剥いて言葉を失った。
香久夜が手にしているのは、力自慢の頭目のタロウザが武器として使っている掛矢だった。その大きな槌は破壊力があるばかりではない。重量物を振り回す腕力を誇示して、敵を畏怖させる効果もある。彼等の目の前の小娘は、大柄なタロウザが両腕で振り回す掛矢を易々と振り回している。空気を切り裂く音が聞こえるほどすさまじく、体に触れればあばら骨さえ粉々に砕いてしまうだろう。事実、タロウザを狙って逸れた掛矢が、分厚い檜の床を打ち破って、社の建物を揺らせた。
【しまった】
怒りに任せて神聖な社を破壊した。香久夜は何故か後悔の念に捕らわれた。
【ここから出なければ】
ここにいれば、この神聖な場所をもっと破壊してしまうだろう。そんな危惧がわいた。香久夜もそんな意識に逆らう気は無かった。香久夜は照司を背後に庇うように壁際に沿って移動した。
「こいつらは、妖か?」
頭目のタロウザは呟いた。背筋に凍り付くほどの恐怖を感じていた。香久夜は背後に照司の逃げ道を確保するように、壁沿いに移動して、今は扉の前に位置している。入り口近くにいたはずの山賊たちは、部屋の奥に追いつめられて逃げ場がない。彼らに残された生き延びるための手段は一つだった。
タロウザは仲間の命も含めて、情けない声で命乞いをした。
「助けてくれ」
「えっ?」
香久夜は予想外の展開に面食らった。男たちが香久夜の前に一斉にひれ伏して、許しを乞うている。観察してみれば、男たちは犯罪者という冷酷な感じはなく、少し間の抜けた顔立ちだった。考えてみれば、香久夜と照司を売り飛ばすという悪巧みをしていたのは事実だが、姉弟は傷つけられているわけではなかった。
理由は良く分からないが、男たちの一人は関節を痛めたように手首を押さえてうずくまっているし、もう一人は壁際で気を失ったように動かない。酷い目にあっているのは男たちの方で、悪巧みの罪は償ったと言えるかもしれない。ただ、まだ五人の屈強な男がいて、背を向けて逃げ出せば追われて、照司を連れた香久夜はすぐに捕まってしまう違いない。
(どうしたらええんやろ?)
香久夜は男たちの顔を眺めつつ考え込んだ。その考え込んだ香久夜の姿を見て、タロウザは香久夜の意図を推し量り、素早く懐に手を忍ばせた。香久夜はいち早くその動きを捉えた。
「動かんといてや」
もちろん、香久夜も内心は酷く怯えている、その怯えが不必要に手にした武器を振り回させた。掛矢が勢いよく扉の柱に当たった。太い柱をへし折るほどの勢いの振動が、男たちを更に怯えさせた。しかし、意外なことに、手下は怯えながらも、頭目の前に立ちふさがった。頭目を守ろうとしている。この頭目が手下からも慕われている証拠だろう。
その健気な手下を押しのけてタロウザが言った。
「ぜ、銭ならある」
タロウザは懐に手を入れた理由を明かした。目の前の化け物が考え込むそぶりをしたのは、銭が目当てかもしれぬと思ったらしい。がしゃりと鳴る音が重々しく、タロウザは懐から取り出した銭袋を床を滑らせるように、香久夜に押しやった。
「頼む。命までは取らないでくれ」
「これ、くれるのん?」
「お姉ちゃん」
照司が香久夜を見上げて呟くように言った。目の前の展開が良く分からないので、自分にも教えて欲しいというのだろう。しかし、香久夜にも分からない。ただ、男たちはこの銭袋を香久夜たちに与えようとしているらしい。
男たちには少年の一言の後で、少女の表情の険しさが多少和らいだように見えた。この少年は悪鬼のごとき少女に、自分たちの為に命乞いをしてくれているに違いない。男たちは照司にひれ伏した。
「私ら、逃げるけど、かめへん?」
自分でも変な質問だと思いつつ、香久夜は男たちにたずねた。怯えた男たちは必死に頷くのみで返事がなかった。
「あんたら、後ろから追いかけてきたらアカンで」
香久夜が念を押した言葉に、男たちはもちろんだと顔を見合わせて頷き合った。七人で務める山賊家業など、もともと、得られる利潤の割には、危険のみ多い仕事だった。そして、頭目のタロウザは仲間から「お頭」と奉られているが、その実、本人は律儀に仲間が腹を減らさないように養って行く責任を感じているのである。お頭という肩書きより、責任の方がずっしり気が重く、苦痛さえ感じることがある。
食い扶持を求めて各地をさまよっていたが、楽に金を稼ぐ手立ては無い。さまよいつつ、この都の近辺まで流れてきた。そして、隠れ場所を求めてこの山に入ったのである。特別な場所であるがゆえに人が少なく、彼らが身を潜めるのにちょうど良かった。しかし、何かをせねば飢える。そんな心配をしていたら、降って湧いたような幸運で、社で異様な風体の少女と少年を見つけて、売り飛ばして得られる金銭に夢を膨らませていた。しかし、売り物の姉弟はこの化け物で、男たちは命さえ失いかねない。タロウザはこれ以上、自分と仲間の身を危険にさらす気はない。
「これは返しとくわ」
香久夜はタロウザの銭袋を押し返した。見慣れない袋だが、男の雰囲気から、貨幣が入っていることは想像がつく。この財布を貰って行くと、男たちが銭を返せと追いかけて来るかもしれない。
思いもかけない申し出に、タロウザは心を振るわす程に感動した。なんと気前の良い娘だろう。命には代えられないと差し出した銭だが、この銭がなければ今日からでも食うに困る。この銭があれば、しばらくは、悪事を働かないでも仲間が腹を減らさないように養ってやれる。タロウザは去ってゆく二人の背を伏し仰いだ。
社の外では、豊かに葉をつけた木々の枝越しに、麓の集落が見えていた。香久夜はそっと振り返った。男たちは、社の扉の内側から姉弟を盗み見るように窺っていた。香久夜と視線を交わすや否や、彼女の機嫌を損じないように、一斉にひきつったあいそ笑顔を浮かべた。あれなら、追ってくることはないだろう。
とりあえず、姉と弟が新たな世界に転移するまで、一気に更新しましたが、この後は毎日一話ずつ更新予定です。今回出会ったタロウザたちとも再会します。どんな再開をするか、本当は優しくまじめなタロウザたちの再登場もお楽しみに。