施設からの脱走
香久夜と照司、二人は時間を失って惚けていた。ここがあの家からどれだけ離れた場所なのか興味がない。やがて、車は乗客を気づかうように静かに停車し、二人は降りるように促された。
周囲を見回しても視界が利かず、目の前には巨大なビルディングの壁面が迫って不安をかき立てる。見ず知らずの大人に伴われて小さなドアをくぐって歩く廊下は、深夜という時間を感じさせるように、薄暗く、寒く、静かだった。ただ、二人が導かれた部屋は、明るい照明と暖房で二人を包んだ。
「香久夜さんと、照司くんだね?」
見ず知らずのおじさんが、かがんで二人と視線の高さを合わせて尋ねた。手にした何かの記録用紙を持っていて、それを見ながら名前を確認したのである。人の良さそうな笑顔を浮かべる男は、答えを聞かなくても二人の名を知っていた。
こちらは相手の事を知らないのに、相手は自分のことを知っている。不利な立場に立たされたようで、香久夜の劣等感が刺激される。おじさんやおばさんが、二人に何かいろいろと質問をしたのだが、二人の心は乾燥して停止していて、質問に答える気力が湧かない。香久夜の意識は照司を奪われないこと。それのみにある。香久夜は泣きつかれて落ち窪んだ眼の奥で、臆病だが抜かりない注意力で辺りを探っていた。
「いま、お父さんに連絡を取ってみるから」
おじさんの言葉に、香久夜は苛立ちを込めて考えた。
(こいつ、家から連れてきたくせに、何言うてんねん)
しかし、香久夜は、はたと思い当たった。おじさんが言う「お父さん」というのは、母と離婚した男、香久夜と照司の実の父親のことだ。
香久夜は弾けるように叫んだ。
「あほか? あのオッサンは、もう新しい女との間に子供を作っとんのやで、私らを引き取るはずがあれへん」
一瞬、場が凍り付くように静止した。この場の大人達には、まだ夢の多いはずの年頃の少女の口をついて出た、現実的な言葉が信じられない。その言葉を最後に、香久夜は照司を抱いたまま、頑なに口をつぐんだ。
香久夜の思考回路が蘇った。ハツカネズミや野ウサギのように、力のない生き物が生き延びて行くための能力と言えるかも知れない。
向かい合って配置してあるどの机の上にも、彼らの仕事の忙しさを物語るようにファイルが山積みになっている。おじさんはそんなファイルの山の向こうに姿を消した。香久夜はその様子を、香久夜に配慮してとは考えない、自分に内緒の話をするつもりだろうと疑いたくなる。
香久夜は恐怖した。
(照司と引き離されたらどうしょう?)
結論は弟を連れて逃げるしかない。この人々の正体は分からないが、そんな事は香久夜たちには無関係だ。
(きっと、こいつらは犬と一緒や)
香久夜はこの人々に、背を向けたら吼えながら追ってくるというイメージをいだいていた。この人々が聞けば苦笑いをするに違いない。しかし、香久夜は真剣で、彼女の思考には彼女と照司の安全しかない。大事なことは、気付かれないように姿を消すことだ。
おじさんは香久夜たちに背を向けて電話で忙しく、おばさんの一人は姉弟に暖かい飲み物を準備しに行って、残っているのは、目の前の若い眼鏡の女、ただ一人になった。
「トイレ、どこ?」
香久夜は尋ねた。聞かなくても知っている、この施設に連れ込まれたときに、入り口の辺りにトイレのマークがついていたような気がする。
「ちょっと、この子をトイレに連れて行って来るわ。一人やったら怖がるねん」
そういう理由を付けて、香久夜は若い女の手を振り払って照司の手を取った。案内しようと立ち上がりかけた女を、香久夜は敵意のある視線で制した。
(今は、この子を刺激しないほうが良い)
そんなイメージを植えつけたのだった。ゆっくりと廊下を歩く香久夜に、胸の鼓動が頭にまで鳴り響いていた。逃げ出すチャンスは警戒を解いている今だけ。逃げ出すのに失敗したら、警戒されて逃げ出すことが出来なくなるばかりではなく、照司とも引き離されてしまう。彼女はそう信じていた。
「お姉ちゃん」
照司は戸惑うように声をあげたため、香久夜は声を出すなときつく命じた。
「しっ」
既にスリッパは脱いでしまって足音を立てないよう配慮している。玄関で靴を手にして背後をうかがって、素足のままで駆け出すように抜け出した。