虐待の連鎖の終わり
消え去った輝きと入れ替わるように、想い出の余韻を楽しむ間もなく、鳳輔の目の前に揺らめく影が現れた。先ほどまでの透き通った輝きではなく、ぼんやり鈍く揺らめく黒い影だった。鳳輔は現れる者を察するように声を掛けた。
「儂は、香久夜と照司の祖父で、鳳輔と申す」
あの姉弟の祖父だという理由で、この男と女は、自分と鳳輔の新たな関係を察したようだ。顔を見合わせてなじり合い始めのは、蓬莱島に帰った姉弟の父母だった。
(何という、矮小な人間だろう)
鳳輔はため息をつくように思った。男は大柄だが常に辺りを窺うようで目に落ち着きが無い。女はそんな男に寄り添っているが、男を支えるわけではなく自分の保身にのみ気に掛けていた。
二人とも辺りを探るようで怯えていた。香久夜なら照司と家族を築いて行くという行動規範を持っている。この二人は目先の快楽にのみ興味があり、他には何もなく空っぽだろう。
「あんたが、あの子たちが邪魔やて言うたからや」
「俺には関係あれへん。お前の勝手や」
「殴ったんは、あんたの方がずっと多いんやで」
「お前は水をかけたりもしてたやないか」
鳳輔は錫杖を地面に打ち付けるように鳴らして二人の会話を制した。
「止めよ」
この男と女を放置しておけば、責任の擦りあいで、聞き苦しい罵り合いを演じ続けるに違いない。鳳輔はそんな耳が腐るようなことを延々と聞かされるのはまっぴらだ。男女にとっては思いもかけず鳳輔の口調は優しい。
「お前達の心の奥底の、素直な性根は知っておるよ」
彼等の心は汚れて歪んで、外観にまで現れているが、その内部にはまだ純な部分を残しているという。その言葉が男女の心にしみ通るようだ。
鳳輔が彼らを眺める目に力を込めた。この世界のカグヤとショウジが蓬莱島の香久夜と照司を通して得た経験を男と女に伝えたのである。映像は言葉や感情を伴って伝わり、男と女は香久夜と照司のこの世界での出来事を理解した。多くの人々との出会い。なにより、龍や鎧と家族を作り上げたこと。
すすり泣き始めた男と女に鳳輔は穏やかな口調で語りかけた。
「お前達は、これから人を学び直すのだ」
蓬莱島の人間は、この世界の人間と異なって寿命が酷く短い。しかし、いい事もある。魂が転生するという点である。閉じられたのは肉体や物質のやり取りだけで、蓬莱島で山王丸と吉祥が入った人間の体が自然に朽ちて寿命を迎えると、山王丸と吉祥はこちらの世界に戻ってくる。その時を見計らって、再び取り替えれば、この男と女の魂も転生して、赤子から新たな人生を歩み出す。それまでの間にこの男女をしっかり教育するのが鳳輔の仕事の一つになった。
キンッ。
なにやら鋭く歯切れの良い音が響くような気がした。子どもを虐待する親もまた、子どもの頃に被害者の経験を持っているという。児童虐待という、憎しみや悲しみの連鎖が続くと言うことだった。鳳輔の耳に響いた清らかな音はその連鎖の一つが断ち切られた音だったのかもしれない。
鳳輔は月の裏側、夜空に明るく光る蓬莱島を想像した。照司も香久夜も山王丸も吉祥もあそこに渡ったのだが、鳳輔は彼等に言えなかったことがある。この世界の記憶を失ってしまうと言うことだった。ただ、経験は息づいていて姉弟の人生にいい影響を与えてくれるだろう。
しかし、鳳輔にとって残念なのは香久夜と照司が賢者の鳳輔のことまで忘れてしまうことかもしれない。
「香久夜と照司。鳳輔おじいちゃんは、お前達のことを覚えておるよ。ずっとな」
鳳輔はスエラギ様の意図を考えた。この世界が浄化されることになっても、なおかつ、スエラギ様はあの二人を蓬莱島に帰せと命じた。人々の憎しみや哀しみに満ちていたとしても、あの世界にも二人を暖かく包み込んで接する人々がおり、幸福を見つけて生き抜いていけると信じたのだろう。それが、スエラギ様が姉なる星にそそぐ愛情と信頼の証とも言えた。
カグヤとショウジがスエラギ様の元へ赴き、香久夜と照司もまた姿を消すと、取り残された人々は虚脱感に似た思いに囚われた。ただ、その心の隙間に説明しがたい暖かな思いが満ちていった。
スセリが傍らのムタケルに尋ねた。
「運命とは何でしょう」
ムタケルもその意図を察した。彼らはたとえ滅びの運命でさえ、黙って受け入れるつもりで居た。しかし、香久夜と照司の二人はその運命を切り開き、変えた。あの真摯な思いがあれば、きっと、スエラギ様が姉と慕う星も運命を変える。残念な事に、あの二人の故郷の星はこの都の裏側にあって、眺める事は出来ない。
ムタケルは確信を込めて短く言った。
「目に見えずとも、信じる事かも知れませぬな」
「信じて手をつないでいれば、いずれは回廊の扉を開ける事が出来る日も来るということでしょうか」




